翠の季-14.兄弟
リシアに来てから、三巡が過ぎた。
王都を出たのは、翠の季に入ってすぐ。
討伐以外で王都から離れる機会は、今までほとんどなかった。
気のままに動ける旅は思った以上に新鮮で、外の世界の広さは、ただ心地良かった。
のんびりと時間を使い、リシアまでは一巡ほどかけてやって来た。
王都を出てからもう半季も経っているとは、到底思えない。
それほど、ここでの毎日は目まぐるしく、素直に楽しいのだ。
生きている感覚、自由でいられる開放感を、もう知ってしまった。
自分の立場に不満を持っているわけではない。
だが、外側から自分を見るような生活が、息苦しいのは確かだ。
今はできるだけ長くここで過ごしたい。
そればかり考えている気がする。
「ユアン、今いいか?」
扉を開けると、立っていたのはウィランとジュードだった。
あれから、ジュードの空気が変わった。
感情を抑え、淡々と役割を全うする意思の固さは、もともと好ましいものだった。
だが、その裏には、自分へのわだかまりと、小さな不信があるように思えた。
ウィランは気付いていただろう。
それでも何も言わず、ウィランの後ろには彼以外を置かなかった。
伏せがちだった目は、ウィランの背中を、その先を向くようになった。
その目の高さで、何かが変わるわけではない。
変わるのはむしろ、これからだろう。
ルティナと話をすると、なぜか皆変わっていく。
彼女の目に映るありのままの世界は、それほど澄んでいるのだ。
疑う気すら起こらない。
理解できてしまう自分に驚いている間に、自分の中が変わっている。
ルティナは本当に、“すごい”人だ。
ウィランを迎え入れると、庭の方からリズの気配がした。
レイランも谷の確認からちょうど戻ったようだ。
「どうかしたのか?」
目の前に腰を下ろすウィランの表情は、少しばかり固い。
「そろそろ、僕は王都に戻ろうと思う」
「……すまない。予定外のことに巻き込んでしまった」
ウィランは、ユアンからの報告を聞いて飛んできてくれたのだ。
まさかこんなにすぐに行動するとは思っていなかったが、その気持ちにはとても感謝している。
「いや、どちらにしろあの谷が通れなければ帰れなかった。本音を言えば、いつまでも足止めされていたい気分だよ」
ウィランのこの言葉は、本心だろう。
「ウィランが活き活きしていて、見ていて楽しかったよ」
「仕方がないだろう。……彼女は、王都の魔法研究を、絶対に辿り着けないところまで導いてくれた。ここに来られて、彼女に会えたことに感謝以外ない」
「それは俺も同じだ」
扉が叩かれ、レイランが入って来る。
浅く礼をして、静かにユアンの後ろに控えた。
「……ユアン、腕は……彼女に治療してもらったのか?」
「すまない……それはまだ言えない」
まだ、という言葉で、ウィランになんとか察して欲しい。
このことを、彼女のいない場所で話すつもりはない。
ウィランは誰よりもユアンを心配し、なんとか助けようとしていた1人だ。
魔法という手段を持って、どんなことをしてでも治すと。
ひたすら研究に時間を費やし、何度悔しさを噛みしめていただろう。
その姿を知っていても、これを話すことはできない。
少なくとも、今は。
「そうか、分かった。……もう、身体に心配はないんだな?」
「ああ、もう元通りだ。むしろ前よりも調子がいい」
「ユアンの身体は……僕たちとは違うんだな?」
「……」
「答えなくていい、ただ聞いていてくれ。……魔素の適性の話をしていたときのことだ。ユアンが魔素に素養が出なかったという問いに、彼女はこう答えた。『ユアンは体質のせいで、魔素を受け入れる隙間がない』と。それを聞いて、そう思っただけのことだ。特に根拠もない」
「すまない」
後ろのレイランから、ほんの少しの驚きが漏れた。
ユアンも驚いている。
あのときウィランは興奮しきっていたはずだ。
それなのに、その会話まで覚えているのだ。
「勘違いしないで欲しい。僕はユアンの兄として、彼女には言葉に尽くせぬほど深い感謝を持っている。これは1人の人間として、家族としての心からの思いだ」
ウィランは、さもあたりまえだと言わんばかりの顔だ。
そんなウィランに、ユアンは深い愛情を感じた。
「そして、この国の魔法分野を取りまとめる人間として、今後の自身を顧みず、惜しみない知識を与えてくれたことへ最大の感謝を。この国の1人の研究者として、この上ない敬意を持っている」
「ははっ、ルティナはすごいな」
「そうだ、すごいんだ。すごすぎて……とても怖いと思っている」
その通りだ。
問題は、ずっとそこなのだと思う。
覚悟はできている。
彼女をどんなことからも守りたい、守る力もあると思う。
だが、その守り方の問題なのだ。
ルティナが何を抱えているのかが分からない今、その判断をすることも難しい。
いや、知ったところで、自分が彼女を守りたいと思っているだけで、彼女がそれを望んでいるかも分からない。
彼女はあの森で静かに暮らすのを望んでいる。
だが、もうあの森では彼女を隠し切れないとも思っている。
存在が大きすぎる。もう動き出してしまったのだ。
自分たちが関わらなくとも、もうこの世界は彼女を知ってしまった。
それならば、傲慢だとしても、自分たちが関わり続ける方が安全だと思う。
「俺は、命を救われ、俺自身も救われた。彼女にとっては危ういことでしかないのに、迷わず手を差し伸べてくれた。これからどうなるとしても、俺が守れるのなら、全力で守りたいと思っている。もうその覚悟もしてる」
「……守れるのなら?」
「彼女がそれを望んでいるかも分からない。俺の勝手な望みでしかない」
しばらく沈黙が続く。
そして、ウィランが口を開く。
「ユアンの気持ちとは比べようもないが、僕も違う意味で彼女を守りたい」
「違う意味?」
「まずは、ユアンを救ってもらった大恩。そして、あの目だ。彼女のすごさと素晴らしさは、今ある知識もさることながら、あの目だ。すべての本質を見る目。彼女の今持っている知識など欠片だと思えるほど、これから彼女からもたらされるものは大きいと感じる」
「それもわかるよ」
「彼女は父親から授かった知識のお陰と思っているようだが、それは違う。彼女は答えを知っているのではなく、答えの出し方を知っている。いや、答えの出し方を見つける手段を持っている、に近いかもしれない。僕には何があの目に映っているのかがまったく分からない。そして同じ目を持っていたとしても、あの目は彼女の元にないと意味がないものだ」
「……」
「そう思うと、やはり彼女を丸ごと守る方法を探す必要がある。早急に」
ユアン以上に、ウィランは急いだほうがいいと思っているようだ。
自分とは違う視点で、ウィランはルティナを思ってくれている。
そう思うと、変な言い方だが、心強い味方ができたように感じる。
険しい顔をしていたウィランが、ふっと緊張をほどいた。
「こんなことを言っているが、方法なんてわからないよ。彼女は今の状況だから、あのルティナ殿でいられるのだろう。周りが勝手に手を尽くし、彼女を守ろうとすることで、縛り付けて窮屈にするのは最も避けたいことだ。ユアンの思いを踏みにじるようなことはしないよ。彼女はこの世界すべての宝物のような存在だ」
ウィランの言葉を聞いて、ユアンは今ある答えが見えた気がした。
「俺は、ルティナだって、ただ1人の人だと思っているんだ」
ユアンはウィランと目を合わせる。
「魔獣が好きで、研究が好きで、人を思い、世界を思う。料理が好きで、褒められるのが苦手で、自分より誰かを優先してしまう、少し不器用で嘘のない、ただの美しい人だ」
「ははっ、ユアンらしいな」
「ウィランの言っていることも最もだと思う。まだほんの数回しか話していないのに、ルティナのことを本当によく見ている。むしろ俺とは違う視点を持っていてくれる人の存在はありがたい」
「僕もユアンの意見には同意だよ。彼女はとても美しい人だ」
ずっと黙っていたレイランが、初めて口を開く。
「わたしも、同意です」
「自分も」
ジュードまでもが、自分から口を開いた。
「ルティナは、知識そのものには価値を見出していないが、自分の特異性は分かっているんだ。今はまだ話せないけど、すべてに無自覚というわけでもない。そして、それを……とても大切にしている。俺は、ルティナが大切にしているものも含めて、守りたいんだ」
「それは……とても大変だな」
「ああ、まったくだ。彼女が大切にしているのは、この世界そのもの、この世界にあるすべてだ」
言葉にすると、あまりにも大きすぎて笑ってしまう。
「彼女はこの世界の宝物だと思うが、その彼女がこの世界を宝物だと思っている……ということか」
「相思相愛だよ」
「まったくだ」
緊張の糸が切れて、4人で声を上げて笑った。
皆が同じように、ルティナを思っているというのが何よりも嬉しかった。
「どちらにせよ、なるべく早いうちに一度王都に戻って、腕についての報告だけでもする必要はあると思う。アルヴィン兄上など、毎日毎日心配していた。鬱陶しいほどだ」
「目に浮かぶよ」
「兄上がいるから、この国はこうなのだ。ユアンの気持ちも汲んでくれる」
「その心配はしていないよ。ウィランにも、もちろん兄上たちにも」
ユアンには、兄が3人と姉が1人いる。
アベリス家の養子となった今でも、過保護なほどに大切にされている。
アルヴィンは1番上の兄であり、実質今この国の全権を預かっている。
父は退位し、自由にしたがっているが、兄は頑として受け入れない。
兄にとって父は、まだ大きな存在なのだ。
「ルティナ殿がいたのがアルデニアで良かったのではないかと思う。この国は他の3国よりも在り方が奔放だ。どの国も安定して良い国だが、それぞれ国の色が違うからな。彼女の件は捉え方が難しいし、どう転ぶかは分からない。まあ、それはアルデニアでも同じか……」
確かにそうだ。
アルデニアは風の王家が統べる国だ。
柔軟で、ある意味奔放。考え方も軽やかだ。
兄上に相談すれば、俺が考えるよりもずっといい守り方があるかもしれない。
兄上の視点は俺よりも遥かに高くて広い。
俺やウィランとは違う、別の考えが聞けるだろう。
王都までどれだけ急いでも往復で二巡はかかる。
またここに戻って来られるか……それも少し不安に感じてしまう。
「俺の腕は完治しているが、まだ学ばなければいけないことがあるんだ。それは多分、これからの人生を送りながら少しずつ積み重ねていくようなものだ。せめてそのさわりだけでも理解するまで……、もう少しだけ時間が欲しい」
ユアンは頭を下げる。
これを頼めるのは、ウィラン以外いない。
レイランであっても、セラやバルドでも難しい。
この状況を理解し、彼女を守りながら、話せる情報を判断し、兄と対等に話をしながら納得させられる人。
これ以上の適任は、ユアンには想像もできない。
ウィランはため息をつく。
ユアンが顔を上げると、そこには困った弟を見る優しい目があった。
「一段落したら、必ず戻って来るんだな」
「ああ、必ず。おれも兄上に聞いて欲しいと思ってる。だが、彼女が語るから理解できる部分も大きい……とは思ってる。できる限り整理して、話せるように努力する」
「……確かに。……もう、一緒に連れてきてしまえば良いのではないか?」
ウィランの顔は、何かをひらめいたときの、顔がひと回り大きくなったようなあの顔だ。
「え、いや……ま、それはさすがに……」
ユアンは考えもしていなかった。
ルティナを王都に連れて行く……?
「ユアンが女性を連れてくると知れば、兄上も姉上も大喜びで大歓迎するのではないか? ナヴァンだってそうだろう。追い返すことなどないだろうし、話を聞いてもらうにしても好都合だ。その後どうなるかは知らんが」
「知らんって……」
「ここに戻って来るこじつけの口実も、ルティナ殿を送り届けるとすれば……、なんとかどうにか……なりそうでもある」
「行き当たりばったり過ぎないか……?」
「事前に僕が話をしたとしても、そのくらいどうなるか分からないということだ。内容は僕は知らないし、判断もできない」
あっさりと視線を逸らし、遠くを見るように目を細めている。
ウィランはどうやら、話せないと言ったことを根に持っているようだ。
その斜め後ろにいるジュードに目をやると、彼までもがすっと目を伏せる。
「う……、まあ、そうだな。すまない……だが、ルティナの意思を尊重したい」
ルティナが望まないことを、これ以上させるのは申し訳ない。
今でさえ、とても無理をしているかもしれないのだ。
自分の都合だけで、王都にまで引っ張り出すなんて、自分勝手もいいところだ。
「僕は、ユアンの意思も少しは通していいと思うけどね。そこまではっきりと守りたいと思っているなら、わがままを押し通してでも守ればいいじゃないか。別に邪な気持ちがあるわけじゃあるまいし」
「守りたいという気持ちが、そもそも傲慢で邪な気がしてしまうんだ」
「面倒なやつだな」
「ルティナといると、そう思えてしまうんだよ」
普段なら、間違いなくウィラン側の考え方なのだと思う。
もしくは違う形での落としどころが見つけ出せるはずなのだ。
彼女のこととなると、どうしても迷ってしまう。
ルティナという稀有な存在に、できる限り幸せであって欲しいのだ。
「……まあ、言いたいことは分かる。……はあ、分かった。僕から兄上には上手く説明しておく……というか、全力で煙に巻いておく。言葉にしやすい魔法のことを中心に話せば、ある程度は何とかなるだろう。だが、時間がかかり過ぎると、兄上自らここに来ようとするかもしれないよ」
「それは……あるな」
後ろに控えているレイランから、少し冷えた空気を感じた。
レイランも、その姿が想像できてしまうのだろう。
「僕たちは2、3日中にはここを離れるつもりだ。その前に一度、ルティナ殿とじっくりと話す時間が欲しいところだが……」
ウィランの何か言いたげな視線には、執拗なまでの期待が滲んでいる。
ここのところの張り詰めた時間を思うと、ちょうど落ち着いた今なら、ゆるりと過ごすのもいい。
「明日か明後日に、皆でゆっくり過ごす時間を取るのもいいね」
この言葉に、ウィランは至極満足そうな笑顔を浮かべる。
「ルティナ様のご予定を確認して参ります」
ほっとしたように、レイランは足早に部屋を出ていく。
レイランのその気持ちが、自分にも痛いほどよく分かった。




