翠の季-11.休息
フェンの元に戻るとほぼ同時に、ユアンがアウリスと駆けて来た。
感情が全身から溢れている。
見なくても顔が想像できてしまうほど、心から喜んでいるのが伝わってくる。
「ルティナ! 全部きみが考えた通りになった! ここまで爽快なのは久しぶりだ!」
興奮したユアンの頬は、ほのかに熱を感じる。
それよりも、身体から溢れる黄金色が、彼の感情を見事に現わしている。
まばゆく輝く霊核の色、彼の霊素の色だ。
それを見るだけで、ルティナの胸はぎゅっと掴まれるようだ。
「ユアン様、お疲れさまでした。素晴らしい誘導でした」
「ルティナのお陰だ。心から感謝している」
「いえ、皆さまの連携が素晴らしかったのです。見ながら感心するばかりでした」
ユアンは興奮冷めやらぬ様子で、その笑顔が弾けている。
きっとユアンも、ここ数日は大変だったはずだ。
夜通しの行動になってしまい、身体はそうとう疲れているだろう。
ルティナだって、見ているだけだったのに身体はクタクタだ。
早くゆっくり身体を休めて欲しい。
「ユアン様、これからの作業ですが……」
兵士の中でも、おそらく立場が上の人だと思われる壮年の男性が走って来た。
「ああ。……ルティナ、今日は本当にありがとう。きみも疲れただろう。セラに付き添ってもらって、帰ってゆっくり休んでくれ。落ち着いたら、今後の話をしたい」
「分かりました。ユアン様も、ご無理をなさいませんように」
ルティナは深く礼をして、その場を離れる。
まだやることがたくさんあるはずだ。
ヴェリッダの様子は気になるが、さすがに今日は限界だ。
帰って休んで、明日にでも様子を見に来よう。
ようやく意識が外へ向くと、太陽はすっかり昇っている。
斜め上から降り注ぐ陽射しが、今日は一段と強い。
このために立てられた柵なども、今日のうちに撤去されてしまうのだろうか。
それを思うとなぜか、少し名残惜しい気がした。
「参りましょう」
セラがこちらを振り返り待ってくれている。
ルティナはフェンに乗り、後を追う。
「セラ様、もう陽も高くなり始めていますし、わたしは1人でも構いません。皆さんもお疲れでしょうから、帰ってお休みください」
リシアの門の前辺りで、セラに声をかけた。
少しの沈黙のあと、セラは首を振る。
「いいえ、ユアン様に言付かっておりますので、送らせていただきます。お気遣いありがたく頂戴いたします」
「そうですか……わたしからユアン様に申し上げれば良かったですね。気が回りませんでした」
「いえ、ユアン様は認められないと思いますし、私もそれは受け入れませんので。ルティナ様は何も気にする必要はございません」
言葉はきっぱりとしている。むしろ語気は強い方だと思う。
でも、とても気遣われているのが伝わってくるせいで、それがとても真面目で好ましく感じる。
「それから……オルネのレシピ、大変嬉しく拝見いたしました。今度ルティナ様に感想をいただきたく存じます」
相変わらず、表情は変わらない。
でも、視線はすっと逸らされてしまう。
これが、この人を少しだけ可愛らしくみせている理由かもしれない。
「それは楽しみです。是非、頂きたいです」
ルティナは心の中を気付かれないよう細心の注意を払い、小さく笑った。
セラに送ってもらって家に着き、フェンに山ほどの風鈴果をあげた。
その後、湯船に浸かり身体をほぐし、倒れ込むように床に就いたのは、太陽が少し傾き始めた頃だった気がする。
そのまま眠り続け、目が覚めたのはなんと翌日の早朝だった。
起きた時の薄暗さが、夕方なのか朝方なのか、しばらく分からなかった。
頭が動き出して、ようやく外の気配が陰に寄っているのに気づき、今が朝なのだと理解する。
正しく時間を理解すると、妙におかしくなった。
一体どれだけ疲れていたのだろう。
フェンにはたくさんご飯をあげたのに、結局何も食べないまま寝てしまっていた。
空腹を実感すると、無性に何かが食べたくなる。
起きるのがおっくうでしばらくぐずぐずしていたが、空腹には勝てない。
起き上がって身支度をし、火床にやってきたのが今だ。
何も胃に入れていない状態がしばらく続いている。
胃に負担が少なくて、消化に良い粥でも作ろうか。
少し時間はかかってしまうが、パンを食べる気にもなれない。
ゆっくり煮ながら、水分を多めの緩い穀物粥にしよう。
さすがにお腹が空いたので、浸水は少し短めに。
ダイ麦、コ豆、白穀を鍋に入れて、たっぷりの水と淡酒を少し加えて火にかける。
甘芋を小さめのさいの目に切り、生姜のみじん切り、ルべの実と共に別鍋で軽く炒める。
粥が煮えてきたところに甘芋を加え、麦粉を少々足して軽く練る。
最後に塩で味を調えて、乾燥させたフユモ苔を散らす。
器に盛ると、湯気から優しい穀物の香りが立ち上がった。
フユモ苔と生姜香りで、丸い穀物粥の香りをほんの少し引き締めてくれる。
窓から射す光は、もう午前の強さだ。
思ったよりも時間がかかってしまったが、これならお腹に優しそうだ。
ようやく食べ始めようとしたところで、庭の向こうに影が見えた。
フェンはまったく気にせずに、ひなたぼっこを続けている。
庭の奥から手を振っているのはユアンだった。
いつも一緒にいるレイランの姿はなく、珍しく1人で来たようだ。
1人で来るほど急ぎの用事となると、何かあったのかもしれない。
ルティナは慌てて庭に出て、ユアンを出迎える。
「ユアン様、どうなさったのですか? ヴェリッダになにかありましたか?」
ユアンは特に急いでいる様子でもなく、いつもと変わらない。
「いや、特に報告は受けていないよ?」
「そう、ですか……では、お1人でどうされたのですか?」
「なんとなく、ルティナは大丈夫かと気になっただけだ。レイランはまだ忙しそうだったから、1人で来てしまった……」
ユアンは少し気まずそうに、視線を上に向けている。
きっと、ようやく気が抜けて、思うままに行動してしまったのだ。
そして、それを今、初めて自覚したのだろう。
心のままに動く――それがユアンらしさだ。
彼も緊張していたのだと、今更ながらに気付く。
そう思うと、胸の奥がしくりと刺さる。
ルティナから見て、いつも迷わずに進む、堂々として揺れない人。
それがユアンだった。
でも、周りを不安にさせないように、そう見えるよう意識して行動しているのだ。
「ユアン様、あとでレイラン様に叱られてしまいますね」
「……確かに」
「その時はわたしも、一緒に叱られます」
ふっと笑い合い、ユアンを中へ案内する。
ちょうど1人では食べきれないほど、穀物粥が煮上がったところだ。
食の間で向かい合って座り、ユアンにも穀物粥を用意する。
ユアンは街でパンをかじった程度だと言って、粥を前に嬉しそうだ。
「胃に優しい味だ……」
しみじみと言う言葉は、さすがに年を取り過ぎている。
「昨日、何も食べないまま寝てしまったので、粥にしたのです。ユアン様には少し物足りないかもしれませんが……」
「いや、正直なところ、このくらいがちょうどいい。最近食事も適当にしていたせいで、あまり身体の動きが良くないんだ」
確かに……少し巡りが弱いだろうか。
普通の人からしたら溢れんばかりの気素だが、彼の感覚では薄く感じるかもしれない。
「後ほど調整するお茶をご用意しますね。あと、身体の巡りを診ましょうか」
「ルティナも疲れているだろ? 俺のことは気にしないでくれ。少し寝ればすぐ良くなるよ」
「いえ、ユアン様はまだわたしの患者様ですから。そのくらいはさせて下さい」
ユアンにしては、少し食事のペースが遅いだろうか。
胃も疲れてしまっているかもしれない。
いや、それよりも……
「ユアン様、昨日はどのくらい眠られましたか?」
「え、いや、……それなりには寝たよ?」
ルティナはため息が漏れる。
おそらくほとんど眠っていない。
巡りが弱いのはあたりまえだ。疲労と睡眠不足だ。
「それを召し上がったら、そちらの長椅子で少しお休みください。リシアに戻ったらまだお忙しいのでしょう?」
「いや、それは……そうかもしれないが……」
「温かいお茶を飲んで、僅かでもいいので目を閉じて下さい。それでも多少は変わりますから」
「……すまない、寝てしまうと起きれる自信がないんだが……起きなかったら長椅子から落としてくれ」
そう言うと、ユアンは揺ら揺らと立ち上がり、そのまま集い間の長椅子で横になった。
ルティナは慌てて薄い掛け物を取りに行く。
穀物粥は食べきっているので、補給はできていると思うが……
霊素の濃いユアンが、これだけ疲労をするのは普通だと考えにくい。
陽の霊素が豊富だと、疲労を感じにくくなるのだ。
だから無理をしているつもりはなくても、無理ができてしまう。
そして、眠った時の回復も普通の人より早い。
父もよく、夜通し森に籠って、そのまま寝ずに作業をしていた。
でも、眠らなければ回復もしないのだ。
前借した体力が、今になって疲労として出てきたのだろう。
ここ数日の間、もしかしたら誰よりも動いていたのかもしれない。
そういう身体のことも、少しずつ伝えていきたいと思った。
いくら霊核を持っているとしても、ユアンは人なのだ。
本来なら、ルティナが誰よりも、そこに気付かなければならない。
自分のことでいっぱいで、まったく気が回っていなかった。
まだまだ、だ。
まったく足りていない。
ルティナは、簡単な手紙を書いた。
作り置いてある干し果実、リンベリーのはちみつ漬け、ナッツ入りのクラカンを包み、籠に詰める。
そこに書いた手紙を入れて、庭に出る。
フェンに手綱だけ付けると、分かったように小さく首を振る。
籠を首に掛け、落ちないように上から布で括り付ける。
「フェン、これをリシアにいるレイラン様に届けてくれる?」
首に手を当てて、しっかりとイメージを渡す。
フェンは小さく鼻を鳴らし、リシアに向かって走り出した。
うっすらと光を纏うフェンの後ろ姿は、とても頼もしく、美しかった。
集い間で眠るユアンは、身体の力が抜けきって、今にも溶けてしまいそうだ。
ユアンの身体にこの長椅子では、少し窮屈に見える。
ルティナは小さな椅子を2つ、ユアンの腰のあたりに並べる。
足りない分の高さを厚めの布で覆い、ずれないように卓で挟んだ。
これなら、多少動いても転げ落ちることはないはずだ。
気配を感じやすいルティナたちは、深く眠るということがとても難しい。
感覚のどこかが、常に何かを拾ってしまい、それに身体が反応してしまう。
それなのに、これだけ深く眠っているということは、もう限界だったのだ。
この姿を見て、ルティナは泣きそうになる。
子供の頃の自分を思い出し、それが今のユアンにあると思うと、その苦しさとどうしようもなさが分かってしまう。
ユアンは大人だ。
でも、霊素との距離感で言えば、まだほんの幼い子供でしかない。
持っている感覚の鋭さもあって、ある程度の制御は出来ていると言っても、それですらとんでもない苦労の末のことだ。
自分だったらと考えると、ルティナはそれを耐えられる気がしない。
それが、魔素と霊素の大きな違いだと思う。
魔素は、それ自体が直接身体に影響を与えることは少ない。
うまく感じたり扱えなかったとしても、それは魔法が使えないということくらいしか影響はないだろう。
今回のような魔素の濃度変化があったとしても、人にはそれほど影響しない。
万が一、体内で魔素が暴走しても、人がそれで命を落とすことはそうそうない。
それに対処できる人がいるからだ。
だが、霊素は違う。
それ自体が、人の身体に大きく影響する。
下手をすれば、誰からも、自分ですら気付かないまま、命が失われる可能性があるものだ。
ユアンの身体に溜まっていた壊素が、もし首まで届いてしまっていたら……
おそらく、徐々に呼吸ができなくなり、今ここにはいないだろう。
想像するだけで、首筋がぞわっと波打つ。
ユアンが今生きていることが奇跡だと思うのは、それを誰にも教わらず自分自身で何とかしてきたということ。
ルティナにはそれが、どうしようもなく尊いことのように思える。
霊核の意思なのか、何かの巡り合わせか……。
この世界がユアンを守ったようにも思える。
世界とは、人の意思とはまったく関係ないところで、ただそこに存在するものだと思う。
都合のいい解釈だと分かっているが、そう思いたくなってしまう。
ルティナは集い間の卓の上に、心と体を落ち着ける香を焚く。
以前、ユアンのために調合したヨイナギの香だ。
深い眠りは回復を早めるが、それと同時に負担も大きくなる。
少しでも緩やかに進むように、目覚めが穏やかであるように。
目覚めたときに淹れるお茶は何にしようか。
ルティナは静かに、落ちかけた掛け布を、ユアンの肩に引き上げた。
厩の水飲み場を整えていると、フェンの気配が近付いてくる気がした。
門の方へ目をやると、そこには見慣れた姿がある。
フェンの手綱を持ち、リズに跨ったレイランがちょうど門の前で飛び降りたところだ。
軽く会釈をして入って来る様子は、もういつもの光景になった。
「ルティナ様、遅くなって申し訳ありません」
フェンとリズを庭に入れて、そのまま駆け寄って来る。
2頭はそのまま厩へ向かい、水飲み場に並んで顔を寄せている。
リズもすっかり慣れたものだ。
それを眺めていたアウリスも、立ち上がって水を飲みに向かう。
3頭でもゆとりを持って飲めている。
最近ここに来るお客様が増えたので、鞍掛けを増やし、水飲み場も大きくした。
この様子を見ると、使い心地は上々のようだ。
「いえ、お手紙で失礼いたしました。フェンが届けてくれて良かったです」
「さすがのフェンでしたよ。リシアの外にいたのですが、わたしをしっかり見つけてくれました。先に気付いたのはリズでしたが」
笑顔で話すレイランは、やはり少し疲れているように見える。
まだリシアは落ち着かないのだろうか。
「お忙しい中、お越しいただいて申し訳ありません。ユアン様はまだ寝ていらっしゃるのですが……そろそろ起こされますか?」
庭からは、長椅子で横になっているユアンの足だけがわずかに見える。
それを見たレイランは驚いたようだ。
「あれからまだ起きないのですか? かなり時が経ったと思うのですが……」
「一度目覚めて、水を一杯飲み、すぐにまた眠られました」
レイランは目を細めて、その表情が優しく緩む。
「そうですか。なんというか……とても、安心いたしました」
「相当お疲れだったのでしょう。身体が溶けてしまいそうで、心配になりました」
ルティナは小さく笑い、レイランを家の中へと案内する。
足音を気にしながら歩く様子は、とてもレイランらしい。
「気になさらなくても大丈夫だと思いますよ? ちょっとのことでは起きませんから。お声をかけても全然聞こえていないようです」
「そのようですね……いつもなら庭にわたしが着いた時点で起きてしまいますから」
「わたしも同じようなものなので……、とてもよく分かります」
食の間の卓に、ミルクで煮出したホノシズクの新芽茶を用意する。
疲れているときのミルク茶は、身体に深く染みるものだ。
「これは……また格別ですね。ミルクのほのかな甘みがいい。以前おっしゃっていた意味がわかりました」
ルティナは合わせて、小皿に蜂蜜を掬った匙を乗せて差し出した。
「ミルク茶は甘くすると、とても幸せです」
言われるままに、蜂蜜をミルク茶に溶かして口に運ぶ。
レイランはこの上なく幸せそうだ。
「ははっ、これは最高ですね。身体が喜んでいるのがわかる」
疲れていた顔が、少し明るくなった気がする。
甘い物好きのレイランにとっては、一番の薬かもしれない。
「ユアン様は……、ここ数日ほとんど眠っておられませんでした。もともと眠りが浅い人ですし、動けてしまうのです。夜はわたしと共に観察に出て、昼間はわたしを休ませるのに、自分はアウリスと訓練すると言いながら街をみておられました」
ルティナは、ヴェリッダを追ったアウリスの威圧を思い出した。
あれは、いわばアウリスの本能や反射で起きる特別な能力だ。
アウリスが意識して行うこと自体が難しく、ましてや意思を伝えて指示を出すなど……普通なら到底できないことだ。
ルティナとフェンのやり取りに近い、意思と感覚の共有だった。
あれをこの短い期間でやってしまうほどに、彼はアウリスと向き合ったのだ。
「本来なら、同じ体質であるわたしが気付くべきだったと、反省していたところです」
「それは違います。常にそばにいるのに、頼ってしまっている我らの問題です。それほどに、ユアン様の存在は大きいのです」
レイランの言うことはとてもよく分かる。
ユアンは太陽なのだ。
人がどうしても追いたくなる。
導かれてしまう。
無意識に惹かれてしまう。
強すぎる陽の後押しもあるだろう。でも、それは後押しでしかない。
彼自身が持っている受け止める大きさ――人としての資質なのだ。
ルティナは静かに頷いた。
「とてもよく、分かります。ユアン様は人を惹きつけ、そのすべてを包みこむ温かさがあります」
レイランは、カップに添えた手を見つめたままだ。
「わたしはそのユアン様に、深く心酔していました。……少なくとも、ルティナ様に会うまでは」
カップを持ち上げ、ゆっくりと口へ運び、小さく息をつく。
「ルティナ様に……ユアン様と同じものを感じました。初めて会ったときに、似ていると思ったのです」
レイランの視線が、ルティナに揃う。
「そして、その苦しさと生きにくさ、それゆえの強さなのだと、理解した気がします。……ユアン様がただ特別なのではないと分かり、わたしは後ろから付いていくだけではなく……ユアン様の隣に、肩を並べて立ちたいと思うようになったのです」
レイランの言葉は、強い決意というより、信頼の幅と向かう先が変わったのだと感じた。
自分自身への信頼。
そして、ユアンの強さの内側に触れ、それを感じたことで、その信頼の深さが変わったのだろう。
ルティナは、なぜか自分の心が満たされていく気がした。
理解をしてくれる人の存在は、とてつもなく大きい。
自分にとっての父のように。
ユアンにとって、心をそばに置いてくれる人がいることが、どれほどの救いになるだろう。
きっと、今までだってそうだったはずだ。
それがこれからはもっと強く、大きく感じられるだろう。
「レイラン様、それはわたしではなく、ユアン様にそのままお伝え下さい」
レイランは軽く視線を逸らし、口の端が緩んだ。
「……いつか、言えると思う日がくれば。まだまだ遠い先の話です」
レイランの後ろ、集い間の長椅子が揺れたことに、彼は気付いただろうか。
―谷に棲むもの― 巡了




