翠の季-10.誘導
夜空を森の外で見上げるのは、いつ以来だろう。
心配していた雨の気配は欠片もなく、満ちる直前の月が明るく照らしている。
月は心が落ち着く。
しゃらしゃらという音と共に、月光は青白い粒として世界に降りる。
この月が、香の陰によい効果を与えてくれることを、今は祈ろう。
月が高く昇る頃、ルティナは谷の東側、いつもの丘の上にいた。
あれから2日かけて準備を整え、今日、ヴェリッダを追う。
夜は危ないし、そばにいられないことが多くなるから来なくてもいいと言われたが、やはり気になってしまう。
ユアンに無理を言って、近くまで来させてもらった。
夜が深まると、ヴェリッダ誘導の準備が始まった。
配置されているリシアの兵士は、ここから見える範囲で20人ほどだろうか。
谷の道入口、反対側の丘、ルティナがいる側にも数人見える。
リシアと谷の間には、いくつもの柵が立てられた。
これはヴェリッダ用というより、リシア付近の草原にいる魔獣や動物が紛れ込まないようにするためだそうだ。
ユアンは丘の奥の方にいるらしく姿は見えないが、ルティナにはその気配がしっかりとわかる。
いよいよ始まるというのに、彼はいつもと変わらず穏やかな空気のままだ。
そのお陰で、ルティナは落ち着いていられた。
丘の崖ぎりぎりのところで、ウィランとレイランが鎮静の香を焚く。
月明かりを受けて、ゆらりと立ち上る淡い煙が、一筋の光のように空へ伸びる。
途切れもなく、すっと伸びる煙を見て、ルティナはほっとする。
大丈夫、とても良く仕上がっている。
その煙は、ウィランの起こす風に乗って、谷を抜ける風に吸い込まれていく。
流れに乗って進む煙は、ウィランが言っていた自然の魔法陣をうっすらと浮かび上がらせる。
こうやって改めて見ると、とても美しい陣に見える。
それを見つめるウィランの心が、歓喜に震えるのが分かった。
香は魔素と共に谷を巡る。
ヴェリッダのいる場所にも、ちゃんと届いているだろうか。
暗闇の中で滑空するヴェリッダの姿は、この位置からだと見えない。
微かに届く静かな香りを感じながら、手を合わせて月に祈る。
隣に寄り添っているフェンの体温が、やけに温かく感じた。
そっとフェンの首に手を置き、自分の気持ちを落ち着かせる。
鎮静の香を焚き終わると、レイランとウィランは林の方へと走って行った。
この件で、あの2人には頼りっきりだ。
少し離れたところで、ユアンが感覚を広げているのが伝わってくる。
霊素の扱いはまだ知らないはずなのに、感覚でそれが出来てしまうのがユアンだ。
事前の調査では、おおよそ20頭から25頭くらいだと言っていた。
それだけの数のヴェリッダが、谷で飛び回っていたのだ。
人に危害を加えないと言っても、普通の人からすれば、やはり怖さはある。
なんとか無事に、うまく林へ移動してくれることを願うばかりだ。
崖の方から、ひときわ大きい見慣れたガゼルが走って来る。
並んで見えるのは、初めて見る魔獣だ。
「ルティナ、すまない。1人にしてしまって」
アウリスから飛び降りたユアンは、ルティナの前に軽々と着地する。
後ろについていたのは、なんとセラだった。
あの静かな気配が、やはり普通のメイドではなかったことに、妙に納得してしまう。
「いえ、全然構いません。わたしは何もできませんから、お気になさらず」
「そんなことはない。鎮静の香の効果はすごい。飛び回っていたヴェリッダが今は静かなものだよ」
「そうですか! それを聞けて安心いたしました」
ちゃんと魔素の巡りに乗って、ヴェリッダへ届いてくれたようだ。
ウィランの予想した通りの結果が出て、嬉しくなってしまう。
「ははっ、ルティナが嬉しそうで何よりだ。……この後、夜明け前には本格的に動き出す。俺もそばにはいられないし、レイランもジュードもそれぞれ動かなきゃならない。ヴェリッダが予想外の動きをしたら万が一もあるから……セラと一緒に戻って貰えないだろうか。心配なんだ」
ユアンの言うことはもっともだ。
ルティナは自分の身を守れるわけではないし、追われたヴェリッダの行動なんて予測もできない。
心配をさせることで、皆の邪魔をしてしまうのも申し訳ない。
できれば見届けたかったが、それはわがままだ。
「わかりました。お気遣いありがとうございます」
ルティナの反応を見て、ユアンの顔が一瞬曇った。
笑顔がぎこちなくなってしまっただろうか。
「差し出がましいようですが、申し上げてもよろしいでしょうか」
後ろに控えていたセラが、すっと前に出る。
「ルティナ様に私が付いていれば、問題は起こりません。私は今回待機の予定でしたので、他に支障も出ないと存じます」
ルティナは驚いた。
ユアンはちらっとセラを見て、すぐに嬉しそうな笑顔をセラに向ける。
「そうだね、それ以上の安心はない。セラ、頼むよ。ルティナもそれでいいか?」
「わたしはありがたいですが……よろしいのでしょうか……」
セラに視線を送ると、彼女は完璧なお辞儀を返してくれた。
月は、西の空の低い位置まで降りてきている。
夜明けが近い。
アッシュガゼルが2頭、静かに動き始めた。
1頭はレイランが乗ったリズだ。もう1頭には、リシアの兵士が乗っているようだ。
ルティナは気配を追うのに集中する。
こういう時は、自分の感覚の深さが便利だと思った。
闇に紛れ、音もなく走るリズたちの気配は、ルティナであっても感じ取るのがやっとだ。
2頭は連動するように、少し距離を取りながらヴェリッダのいる方へ進む。
メスの個体はあまり動かず、崖付近の木に留まっているらしい。
その位置はほぼ固定で、自分の場所という意識が強いようだ。
レイランの気配が一瞬浮き上がり、再びリズの元に戻るまでは一瞬だった。
ルティナは、初めてレイランに会った日のことを思い出す。
人とは思えない身のこなしで、フェンに飛び乗ったあの姿だ。
レイランは近くで待機していた兵士に、大きな布袋に収められたヴェリッダを預け、再び戻っていく。
袋の中にいるヴェリッダは、あまり動きを感じない。
香の効果は、メスにもしっかり効いているようだ。
兵士はその袋を抱え、林の方へ向かう。
それを2度繰り返し、4頭のメスを林へと移動させた。
谷のヴェリッダからは、特に変化を感じない。
こんなに静かに、順調に進むとは思っていなかった。
レイランはここ数日、ほぼ休んでいないのではないだろうか。
夜はヴェリッダたちの観察と調査をし、昼間は資材の手配、兵士たちの指示、ユアンや街との連携と、大忙しだったはずだ。
これだけ順調に運んでいるのは、レイランの調整能力のお陰だと思う。
彼には助けられてばかりだ。
辺りはもう明るくなっている。
月明かりとは違う温度のある光が、東の地平線から溢れ出しそうだ。
林の方はどうなっているだろう。
先にいる4頭が落ち着いているかどうかで、後から追うヴェリッダの動きが変わってしまう可能性がある。
不安や警戒は伝染する。
林に入ることを拒まれてしまっては、もうどうすることもできない。
香はしっかりと林を包んでくれているだろうか。
ここからでは遠すぎて、あちらの様子を感じることができない。
「ルティナ様、近くまで様子を見に行かれますか?」
突然声をかけられ、ルティナは後ろを振り返る。
忘れていたわけではないが、セラの存在感はまったくと言っていいほど感じない。
ここまで気配を発しない人を、ルティナは知らなかった。
「林の……方へ、ということでしょうか?」
セラは小さく頷く。
「追い始めるまで、まだ少し間があります。陽が昇る前に離れれば問題ないかと」
「ありがとうございます」
セラが連れている魔獣に一緒に乗せてもらい、フェンは近くに待機している兵士にお願いする。
フェンは不服そうだったが、さすがにそこまで無理を言えない。
フェンには後で、たっぷりと風鈴果をあげよう。
ルティナたちは南側から回り込むようにして、目的の林に向かう。
途中でジュードの姿が見えた。
ロカと一緒に待機している様子は、どこかどっしりとした空気がある。
ジュードとロカは、土の特性がとてもよく現れているペアだ。
重みがあり、地に足を付け、強固で揺らがない安定感だ。
魔獣を追うというと、もっと軽やかで素早い動きを想像するが、どうやって追うのだろう。
こんな時にまでそんなことを考えてしまう自分は、そうとう図太いのかもしれない。
少し走ると、林の手前にレイランとウィランの姿があった。
膝を付いているレイランの手元から、微かな光が見える。
以前見た時よりも、その光は驚くほど小さく集められている。
魔法の調整は、魔素を感じる体感の鋭さと練度だと、ウィランが言っていた。
レイランのその魔法は、とても澄んでいる。
今までも魔法を感じたことはあるが、人によってその感触が違う。
上手く表現できないが、レイランの魔法は雑味がなく、とても滑らかなのだ。
きっと、魔素の流れが均一で、粒が揃っているのだろう。
レイランの性格を考えると納得しかない。
林の方に目をやると、そこにはうっすらと香の陰が漂っている。
その香りは林の中を回るように、ゆったりと動き続けている。
レイランの後ろに立っているウィランからも、魔法の気配がする。
ルティナの目にはそれがどんなものか分からないほど、とても淡い魔法の動きだ。
こちらに気付いた2人は驚き、セラと一緒にいることに更に驚いたようだ。
セラは相変わらず表情が変わらないが、2人からは視線を逸らしている。
一瞬漏れた気まずそうな感情は……、もしかすると照れ隠しかもしれない。
「ルティナ様、まだこちらにいらっしゃったのですか?!」
香を焚き終えたレイランが小走りで近付いてくる。
セラはすっと後ろに下がり、相変わらず視線が少し離れている。
「少しだけ様子を見させていただきに参りました。すぐに離れます」
ちらっとセラを見たレイランの顔は、どこか嬉しそうだ。
「林は安定しているようです。最初は動き回っていたヴェリッダが、今は自分の居場所を決めたようで、のんびり木の上におります」
「そうですか。それなら大丈夫そうですね」
ウィランも林の周囲を見渡しながら、ルティナのそばに歩いてくる。
「香が林の中で回っているのは……ウィラン様の魔法の効果でしょうか?」
「それも分かるのですね。林の外側を回るように風を送って、境界を作っています。香の効果は内に留まりやすくなっているはずです。後から追うヴェリッダに影響しない程度の弱いものなので、長時間は続きませんが」
ルティナは感心してしまう。
そよ風と変わらない程度の、ごくごく弱い風の道だ。
ルティナにはそれが魔法であると、見ていなければ気付かないだろう。
魔法とはすごいものだ。霊素と違って用途によって小回りが利く。
おそらく、ここまで繊細な調整ができる人は少ない。
ウィランがこの国の魔法を牽引している人であると、改めて実感した。
「では、僕はこれからジュードの補佐に回るので、失礼しますね。……セラ、頼むよ」
そう言うと、ウィランはアッシュガゼルに跨って、南にいたジュードの方へ駆けて行った。
セラはその姿を、浅いお辞儀で送る。
「ウィラン様とジュードの動きは、とても相性が良いのです」
レイランもお辞儀で送りながら、リズを呼び寄せる。
「セラ、あまり近付きすぎないように、全体が見える場所に案内して差し上げてくれ。わたしはユアン様の元に戻る」
「かしこまりました。お気をつけて」
レイランはルティナに笑いかけると、音もなく駆けて行く。
セラに促されて、ルティナは来た道を戻る。
この人たちの心地よいやり取りは、一体なぜなんだろう。
交わす言葉は少ないのに、一切のすれ違いがなく、ちゃんと通じている。
ルティナにとって、人の感情と言葉はいつも辻褄が合わないものだった。
まだ感知を制御できなかった子供の頃、その違和感はとても気持ちが悪く、居心地の悪いものでしかなかった。
ルティナは普段、できるだけ余計なものを拾わないように感覚を閉じている。
完全に遮断はできないものの、いくらか楽になるからだ。
その違和感が、まったくないのだ。
逆に、言葉の隙間を感覚が埋めてくれ、淀みなく流れていく。
言葉のもつ意味が、感じる部分を含めるように広がっているようだ。
それがこの人たちの間だけのものなのか、単に子供の頃の印象が強く残り過ぎているだけなのか……
なんにせよ、最近出会った人たちに恵まれすぎているというのは、間違いない。
セラが案内してくれたのは、フェンと一緒にいた場所から少し南側へ行った丘の上だった。
谷を斜めに見渡せて、右側にはユアンたち、左の奥にはウィランたちの姿が見える。
太陽は少し高くなり、午前の爽やかな温度になりつつある。
谷全体から、緊張感を感じる。
いよいよ本格的に、ヴェリッダを追い始めるようだ。
ユアンが動く。
アウリスに跨り、谷の手前から奥にある林へ、斜めに追う位置にいる。
ユアンが足で合図をすると、アウリスは首を持ち上げ、その大きな蹄で大地を踏む。
――大地の奥に、波動が伝う。
それは地震とも違う、微かに足が浮くような、身体の奥に伝わる静かな振動。
まるで、そこにある地面がとても頼りないものであるような、感じたことのない不安感だ。
再びアウリスが蹄を鳴らす。今度は先ほどよりも強く、向きを感じる。
“あちらへ追う”という意識が、その振動から伝わるようだ。
ヴェリッダたちが騒ぎ始めた。
オスであろう個体が、飛び上がり滑空を始める。
ユアンがアウリスの首に手を置く。
その角が光を帯びた瞬間――
――ズンっ。
谷一帯の空気が揺れた。
胃が浮き上がる。
深く響く振動が、空間を押し流すように走る。
ヴェリッダたちは一斉に、その出どころから離れるように飛び出した。
谷を飛び越え、反対の丘に次々と影が走る。
滑空している姿はとても素早いが、走るのはそこまで速くはない。
先頭を走る大きな個体を追うように、少し身体の小さい個体が後に続く。
2、3頭がその波から外れ、南側へと進路を向ける。
その先で待ち構えていたジュードとロカは、進路を塞ぐように走る。
その動きは目を疑うほどに速い。
軽やかさなどではない。
前足で地面を掴み、引き寄せた後ろ足で土を削り飛ばして、力づくで加速する。
ロカの加速を後押ししているのは、ウィランの風魔法だ。
土を削る後ろ足に、微かに風の渦を感じる。
ヴェリッダたちがばらけないように、風の壁で進路を狭めている。
同時に別の魔法を維持しながら、ここまで繊細に調整している。
ウィランの思考は、一体どうなっているのだろう。
近付いてくるヴェリッダの進路に、ジュードが土を隆起させる。
その土の壁に向かって、ロカが振動に近い何かをぶつけた。
それを感じ取ったヴェリッダが、急旋回する。
反転したヴェリッダは、林の方へと向かって走る。
1頭はそれを追い、もう1頭はジュードたちを避けて走り抜けようとする。
ロカはその脚で直角に方向転換し、もう一方の前へ出る。
そして再び何かをヴェリッダへぶつけ、追い返す。
あれは……なんだろう?
振動、音波……いや、音というより……地面ごと揺らす波……小さな地震に近いのかもしれない。
地を揺らす波動を、そのままぶつけるなんてことができるのだろうか。
そんなことを考えているうちに、群れから外れた3頭は無事林に入った。
一瞬だった。
アウリスの威圧からここまで、僅か数十秒だ。
谷から飛び出したヴェリッダたちは、無事に林へと逃げ込んでくれた。
圧巻だ。
見事としか言いようがない。
考えた通り、理想の誘導と言ってもいい。
ルティナが思い描いたことを、狂いなくその通りに実行してくれた。
身体が震えている。
これは感動だろうか。
歓喜と共に、強い安堵が胸へ広がる。
良かった……。
その安堵が、強く胸の奥を締め付ける。
「お疲れさまでした」
セラの口元がかすかに上がり、初めて目を合わせてくれた。
ルティナは上手く声が出ず、精いっぱいの笑顔で応えた。




