翠の季-05.往診
火床には、甘酸っぱい風鈴果の香りが広がっている。
レイランが届けてくれた風鈴果は、日が立つごとに香りが増し、今がちょうど食べ頃だ。
大ぶりでふっくらとした丸みと、鮮やかな黄緑色に目が喜ぶ。
ユアンの調律をしてから、3日ほどが過ぎた。
春の森に流れる時間は思うよりも早く、日ごとに新たな発見がある。
ここ数日は、春の仕込みに追われていた。
薬草は薬や茶葉に、果実や花はそれぞれの香酒に。
その他にも、保存の効く蜜漬けやオイル漬け、干し果実や干し野菜まで。
どれも生育が良く、今年は当たり年だ。
小鍋で煮詰めているのは、風鈴果のグラセラだ。
木の実油で軽く火を通した風鈴果を、蜂蜜、レモリアの果汁、ワインで艶が出るまで煮る。
桂皮や生姜などを加えても、味が締まって美味しい。
紅茶やワインのお供として楽しめる、春の甘味だ。
かまどでは、風鈴果のオルネが焼き上がったようだ。
風鈴果のすりおろしと薄切り、カンロウ茶の茶葉を生地に混ぜ込んだ、しっとりした焼き菓子だ。
茶葉と麦のやわらかい香りに風鈴果が重なって、甘い香りが一気に広がる。
お菓子作りはこの香りが、最初のご褒美だと思う。
今日は8日ぶりに、リシアへ往診に向かう。
夕方前に戻って来るには、そろそろ出かける時間だ。
飲み薬や塗り薬、茶葉、香などを用意し、出来立てのオルネとグラセラも包んだ。
フード付きの上着を肩にかけ、髪は内側にしまう。
白銀の髪色はこの国では珍しく、ただでさえ少し目立ってしまうのだ。
何かあったときのための備えとして、これだけは欠かせない準備だ。
ここ数日、リシアで少し問題が起こっているらしく、ユアン達は忙しくしている。
調律の翌日に診せて貰って以降、2人には会えていない。
安定していたので大丈夫だと思うが、少し気になっている。
邪魔はしたくないが、状態だけでも診せてもらえれば安心できる。
リシアに到着する頃には、朝の気配が薄れ、陽が強くなり始めていた。
門の前でフェンから降りると、いつもの門衛が軽く手を振ってくれた。
顔なじみの人が出迎えてくれるのは、素直に嬉しい。
「もう8日経ったか。一巡が早く感じるよ」
手を振ってくれた門衛のジグは、以前父が施術していたことがあった。
けがの後に残った痺れで上手く剣が扱えなかったが、今ではすっかり良くなった。
最近は別の意味で、ルティナのお得意様だ。
「こんにちは、春になると時間が早く感じますね」
「それもあるんだが、ちょっとバタついていてな。街の外に出ることもあるんだ」
レイランが忙しくしているのはこれだろうか。
あまり詳しくは知らないが、やはり心配になる。
「そうですか、大変なのですね……」
「まあ、大丈夫だ。……それよりいつものやつあるか? 3つくれ」
「干し果実ですね。中身が変わりまして、リンベリーとアプリナになりましたが、よろしいですか?」
「おお、アプリナはいいな。じゃあ5つくれ」
ジグは目を線にして、にかっと笑う。この人の良さそうな笑顔に、いつも元気を貰える。
ジグの“いつもの”は、干し果実の袋詰めだ。
森で採れる果実で作るので、中身は季節によって変わる。
甘すぎず、ほどよく疲れを癒すらしく、門に立ちながらつまむのだという。
5袋を手渡すと、手の上に銅貨5枚を乗せてくれた。
「あ、それ! いつも食べてるやつですか? 僕も欲しいです!」
やり取りを見ていた若い門衛が、小走りで近付いてくる。
ジグは少し気まずそうにしながらも、宣伝してくれた。
「いつも何か食べているとは思っていたんですが、これだったんですね。試しに1つ下さい!」
「素焼きのナッツ、塩気のある乾燥豆などもありますが……」
「じゃあ全種類1つずつお願いします!」
声に張りがあって、とても元気な方だ。
ルティナよりも若いだろうか。
「ありがとうございます。初めまして、薬草師のルティナと申します」
目を合わせて手渡しながら名乗ると、少し目を泳がせながら、顔を赤らめる。
「あ、ロ、ローランです。よろしくお願いします……」
ルティナの手に触れないようにしているのか、とても丁寧に受け取ってくれた。
「じゃあ、今回は奢ってやるよ」
ジグは豪快に笑いながら、追加で3枚の銅貨をくれた。
どうやらジグは、そこそこ面倒見がいいらしい。
門から中に入ると、街はとても賑わっている。
太陽の陽射しと共に、人も元気になっていくのが分かる。
声も大きく、人の動きは活発になり、市場は彩豊かな旬の素材が溢れている。
街の中央には屋台が並び、広場には美味しそうに頬張る姿が見える。
笑顔が多いこの街は、心地いい空気が巡る良い場所だ。
いつもの治療院へ薬を届け、3人ほどの家を回る。
大きな巡りの変わり目は、身体の調子を崩す人が多くなる。
体力と気力が少ない人ほど、その影響は出やすい。
心配していた人たちは、春が馴染むごとに順調に回復してきていた。
あと一巡もすれば、いつもの状態に戻るだろう。
声をかけてくれる人たちに薬や茶葉などを売りながら、街をひと回りし終える頃には、太陽が真上に来ていた。
ちょうどお昼時だ。
賑わう広場を眺めるが、どうしても人が多い場所は苦手だ。
森で半日歩き回るよりも、街で過ごすひとときの方が疲れを感じる。
ルティナは、ふっとため息を吐いた。
最後に買い出しを兼ねて市場を歩こうと振り返ると、フェンが立ち止まった。
視線の先には、駆け寄ってくるリズの姿があった。
街中で見る灰色の毛色は、森の中よりも静けさを感じる。
フェンを見つけて走ってきてくれたのだろうか。
嬉しそうに小さく足を踏み、フェンに鼻先を向ける。
この2頭の仲の良さは相当だ。
微笑ましい2頭の挨拶を眺めていると、遅れてレイランが走って来る。
どうやらリズは、レイランを置いて来てしまったらしい。
慌てた様子だったが、ルティナを見ると理由を察したようで、ほっとしたように笑う。
「ルティナ様、ようやく見つけました」
かなり走っていたように見えたが、息はほとんど乱れていない。
さすがレイランだ。
「こんにちは、探して下さっていたのですか?」
「いらっしゃる頃に門に向かったのですが、行き違ったようで。門衛にもう街に入ったと聞き、探しておりました」
「それは失礼いたしました。リズがフェンを見つけてくれたようです」
ひとしきり挨拶を終え、2頭は落ち着いている。
ぱっと見る限り、リズの脚はほぼ完治している。
やはり、魔獣は気素の流れが戻るのが早い。
「急に走り出したので、何ごとかと思いましたが……リズのお手柄ですね」
「リズの脚はもう大丈夫そうです。お薬もお渡しした分まで飲みきったら、その後は不要です。完治まで診せて頂き、ありがとうございました」
ルティナは深く頭を下げる。
レイランはその様子を受けて、きちんと姿勢を正し、礼を取る。
「こちらこそ、ルティナ様に診ていただけて、本当に幸運でした。が、まだまだお世話になる予定でおりますので、今後ともよろしくお願いいたします」
レイランのその笑顔が、ルティナはとても嬉しかった。
治療が終わってもこのまま友人として接してくれることを、わざわざ言葉にしてくれるのだ。
「ルティナ様は、もうお仕事は終わりですか?」
「そうですね、あとは市場で買い物をして帰ろうと思ったところです。……ユアン様にお会いできれば診せていただきたかったのですが……」
「では、このままお越しいただけませんか? ユアン様は戻っておられると思いますので」
「よろしいのですか? お忙しければまた後日でも」
ジグが言っていたことが気になってしまう。
街の外に出るということは、何か問題が出ているということだろう。
「それについても、少しご意見をいただきたいのです」
「わたしに、ですか?」
「はい」
レイランの顔が引き締まる。
できることがあるとは思えないが、なにかあるのならお手伝いしたい。
「では、お言葉に甘えて、お伺い致します」
レイランに案内されたのは、街外れにある2階建ての家だった。
屋敷というほどの大きさではないが、この街の中では敷地も広く、かなり立派な建物だ。
庭や敷地内はきれいに整えられ、奥の厩にはアウリスが見える。
こちらに気付いたのか、視線を向けて首を上下に振ってくれた。
リズとフェンが並んで歩いているのを見て、自分も出せと言っているのかもしれない。
レイランに付いて、フェンがアウリスに挨拶に向かう。
この2頭もまた、とても仲が良いらしい。
フェンがこんなに社交的になるとは、思いもよらなかった。
ルティナとコーレン以外にはまったく興味を示さなかった、あのフェンが、だ。
ルティナも厩に向かおうとすると、ふいに上から声がかけられた。
「ルティナ! 来てくれたのか!」
声の方へ目を向けると、2階の窓から身を乗り出すユアンがいた。
笑顔で手を上げる姿にお辞儀を返そうとすると――
乗り出した姿勢からそのまま飛び降り、とんっと軽やかに着地した。
何事もなかったように近付いてくるユアンを前に、上手く声が出ない。
「何をするんですかっ!」
ルティナの心を代弁してくれたレイランに、惜しまぬ拍手を送りたい。
「こんな高さなら大丈夫だよ。身体が軽くなって良い調子なんだ」
「そういう問題ではありません。ルティナ様が固まっています」
ユアンはルティナを見て、ほんの少しだけ反省したようだ。
叱られた子供のような顔に、ようやく意識が追い付いてきた。
「……とても、軽やかな、音もない着地で驚きました。これなら足も痛めませんね」
……なぜ褒めているのだろう。
ルティナを見るレイランの視線が、静かに刺さる。
「だろ? 身体のバランスが戻ってるんだよ。ルティナのお陰だ」
朗らかに笑うユアンの顔は、どこまでも清々しい。
きっと本当に気持ちがいいのだ。
「褒めるところでは、決してありませんが」
なんとも言えないレイランの空気に、申し訳なくなる。
ルティナは持ってきた焼き菓子を取り出し、なんとか話題を変えた。
「あの、レイラン様。よろしければこちらを。お茶と一緒に召し上がって下さい」
差し出した包みからは、ほのかに甘い香りが漏れている。
レイランの表情がみるみる緩む。
甘いお菓子の香りは、誰の心でも和ませるのだ。
「とてもいい香りが……」
「頂いた風鈴果がちょうど食べ頃になったので、今朝オルネとグラセラを作りまして。少ないですが、おすそ分けです」
「……オルネ……グラセラ……?」
少し不思議そうな顔に、もしやと思う。
ルティナとは呼び方が違うのかもしれない。
「オルネは、しっとりと柔らかく焼き上げた素朴な菓子です。グラセラは、ワインと蜂蜜で甘く煮たもので、お茶やワインのお供にもよろしいかと思います」
「家で菓子を作るのですか! すごいですね」
「菓子と言っても家で作るものなので、そんなに難しいものではありませんが……アルデニアでは作りませんか?」
「あまりないと思います。職人が作るものはありますが……」
「そうですか……お口に合うか不安になりました」
「ルティナ様が作るものなら、その心配はありません。ありがとうございます」
嬉しそうに包みを抱えたレイランの背中は、とても弾んでいた。
案内された家の2階、通された部屋は窓が開きっぱなしになっていた。
ユアンはここから飛び降りたのだ。
部屋の中はきれいに整えられており、掃除も行き届いている。
置かれている家具は豪華ではないが、とても丁寧に作られた良いものに見える。
ルティナの家とはちがう、とても統一感のあるきちんとした部屋だ。
街の中心から距離があるせいか、ここはほどよく静かだ。
窓の向こうに見えるリシアの街が、少し遠くに思えた。
「では、少し診せていただきますね」
ユアンの右腕から肩にかけての巡りは、もうなんの問題もないように見える。
やはり、霊核の存在はすさまじい。
調えてしまえば、巡る力は強く、普通の人よりも活発だ。
だからこそ、あそこまでの溜まりができてしまったのだろう。
ルティナの体内はユアンとは逆で、とても穏やかにゆっくりと巡っている。
乱れにくいが、元に戻すには少し時間がかかる。
「握る力はいかがですか?」
「ああ、だいぶ戻っている。まだ少し剣が重く感じるが、それは筋力の問題だと思う」
「そうですね、意識して使っていない期間がありますから、徐々に戻るはずです」
ユアンは、自分の身体を理解している。
気素の巡りだけでなく、身体全体のバランスがとても良いのだ。
戦うための備えとして、きちんと鍛えているのが分かる。
ユアンがどの程度の戦いに出るのかは分からないが、おそらくとても強いのだと思う。
「こんなに戻りが早いのは、正直想像していませんでした。かなり時間がかかると思っていましたが、ここまで戻ったのなら、そろそろ扱いを覚えた方が良いですね」
「リシアが落ち着いたら、本格的に教わりたいと思っていたところだ」
この街で何か問題が起こっていることは、なんとなく知っている。
詳しいことは分からないが、ジグやレイランの言葉からもそれを感じた。
促されて、部屋の中央にある長椅子に腰掛けると、扉の外から声がかかった。
お茶を準備して入ってきた長身の女性は、とても静かな印象だ。
ルティナが渡したオルネは美しく盛り付けられ、白いクリームが添えられている。
共に用意された紅茶は、オルネを邪魔しないように配慮された香りが控えめのものだ。
とても丁寧な対応に、ルティナは座ったまま礼を尽くす。
女性は少し驚いたようだが、ほんのわずか、頬が緩んだ。
「ありがとう、セラ。こちらは、俺がとてもお世話になった薬草師のルティナだ。今後もここに出入りするから、覚えておいて欲しい」
「かしこまりました。セラと申します」
ユアンがセラと呼んだ長身の女性は、完璧に整ったお辞儀をした。
表情は変わらず、視線にも色はない。
相手に何も読ませない空気は、乱れなく磨かれ、洗練されている。
「初めまして、ルティナと申します。深いお心遣いに感謝申し上げます」
セラは何も言わずに扉から出ていく。
その一切無駄のないしなやかな後ろ姿に、ルティナは野生のヤマネコを重ねた。
「セラはあまり表情が動かないが、あまり気にしないでくれ。あれでもルティナのことは受け入れたようだから」
「いえ、とても真摯な方なのだと思います。このお茶も、あの方の心が現れていますから」
目の前に用意されたお茶に、顔が綻んでしまう。
誰かに淹れてもらうのは久しぶりだ。
レイランは待ちきれない様子で、オルネを口に運ぶ。
目の端を下げ、口を動かすのを見ると、口に合ったようだ。
「これは……とても美味しいです。甘すぎず食べやすい」
「ほんとだね、甘さが円くてしつこくない。クリームがあるとよりまろやかになる」
ルティナもオルネを口に入れる。
やわらかいクリームは甘さを抑えられ、全体を優しい味わいにまとめている。
このクリームは、ミルクを煮詰めたものと発酵させたものを混ぜているのだろうか。
とても時間と手間がかかるはずだ。
「このクリームがとても美味しいです。作り方を教わりたいくらいです」
クリームだけを食べているルティナを見て、レイランが小さく笑う。
「セラも先ほど、オルネに同じような反応をしていましたよ」
「それは嬉しいです。作り方に興味を持たれるのなら、わたしと同じ匂いを感じますね」
丁寧に淹れられたお茶と、手間をかけて作られたクリームからは、食べる者たちへの敬意と心遣いが感じられる。
とても素敵な人だ、とルティナは思う。
この2人に関わる人は、きっと皆同じような人なのだろう。
そう思うと、なぜか誇らしく、とても嬉しくなった。




