翠の季-04.アウリス
この庭の心地良さは、一度知ってしまうと離れがたい。
霊素が濃いのがそう感じる理由なのだろうか。
それなら、この森全体をそう感じるはずだ。
アウリスも、昨日森に入ったときはとても気が張っていた。
それが、庭に入った途端、周りを気にしてはいたものの、落ち着きを取り戻していた。
空気が凪いでいるというか、肌触りがやわらかいというか。
この空間だけ区切られたように、ゆったりと時間が流れている。
こんなにも穏やかで安心した様子のアウリスは、あまり記憶にない。
アンバーガゼルは、草食魔獣の中では扱いにくく、気も荒い。
縄張り意識も強いし、仲間を守ろうとする姿は好戦的にも見える。
それなのに、この庭ではまったく警戒せず、すやすやと寝息を立てている。
アウリスにとってもここは、極上の空間なのだろう。
自分とアウリスの感覚が同じだと肌で感じると、人はやはり生物としての感覚をちゃんと持っているんだと思える。
それが分かると、自分が霊素を感じられる未来も想像できる気がした。
「少し冷やしてお持ちしました」
手元に置かれたのは、半透明の少し背の高いグラスだ。
運んできたルティナは、同じものを湯呑みで飲むようだ。
こういう細やかな気遣いを、ルティナは当たり前のようにする。
これに慣れてしまうのは危険な気がするのは……一旦、脇に置く。
「ありがとう、ちょうど身体が熱い気がしたところだ」
グラスを口もとへ運ぶと、微かに酸味を含む香りを感じる。
口に含むと、すっと流されるように口がすっきりする。
一拍おいて、遅れてやってくる涼やかな感覚が、鼻と喉を抜ける。
温度とは違う、不思議な清涼感だ。
「この喉に伝わる涼しさがたまらないな。香りも味も軽くていい」
「お気に召したようで良かったです。これは陰が強く出るお茶なので、これからの季節、ユアン様にはとても心地よいと思います。帰りに少しお持ち下さい」
ルティナの湯呑からは、ゆらりと湯気が立っている。
漂ってくる香りも、少し違う気がするのは気のせいだろうか。
「夏に向かって、この森は……少し強いかもしれません。あまり長時間になると身体に負担になるので、時間を区切った方が良いかもしれませんね」
その言葉に、ルティナから少しの揺れを感じたのは、どういう意味なのだろう。
寂しさとも、悲しさとも違う、小さな後悔……に近いものに感じる。
「こことても気持ちがいいから、出来るだけ長く居たいと思ってしまうが……」
「エンの森は霊素が濃いですから、ある程度のところまではとても心地よいですが、やはりバランスなのです。夏の太陽の影響が強く出てくると、逆に負担になると思います」
春と秋が心地よく、夏と冬が辛いと感じるのも、つまりはそういうことなのだろう。
実際の気温もあるだろうが、それと重なる様に、霊素もそう変化している。
「父の結界があるので、庭の中は割と変化が穏やかですが、夏はどちらにせよ陽が極まりますから、ユアン様にとってはつらい季節かと」
確かに、夏と冬ならば、圧倒的に夏が苦手だ。
身体が火照って、やたらと体力が奪われる気がする。
「夏になると、アウリスが極端に陽を避けたがるんだ。それも同じ理由なのかもしれないな」
アウリスの話になった途端、ルティナの瞳が一気に輝いた。
ここまでいくと、魔獣好きも大したものだ。
「アウリスはとても陽が強いですから、ユアン様の感覚と似ているのでしょうね」
「でも、冬がとても元気かと言われると、そうでもないんだよな。本人は元気そうだが、本調子の時の凄みみたいなものは若干薄れる」
何か考えを巡らせるように、ルティナは立ち上がった。
アウリスに近付きすぎないように、少し離れた位置から観察している。
ルティナが何かを考えながら、一歩、アウリスに近付いた瞬間――
パッと目を開けたアウリスの周囲に、ズンッと空気の揺れが伝う。
腹の奥が持ち上がるような振動に、思わず声がでた。
「アウリス!」
ユアンが叫ぶのと同時に、フェンがルティナの前に飛び出た。
首のあたりが冷えた。
時間が止まったように感じた。
ルティナは静かに、その目はアウリスに向いている。
フェンはただルティナの前に立ち、アウリスを見つめている。
その静けさのお陰で、やけに頭が静かになる。
アウリスは座ったまま動かず、2頭は見つめ合っている。
ひとしきりの静止のあと、ゆっくりとアウリスが立ち上がりフェンに鼻を向ける。
それを受けるように、フェンは鼻先を返した。
それは不思議なやり取りで、でも、そこに互いの理解があるのは見てとれた。
フェンはそのままアウリスの隣に座り、身体を寄せてルティナを見る。
ルティナは小さく息を吐き、その場に腰を下ろした。
「ルティナ、大丈夫か? すまない、アウリスが驚かせた」
「いえ、わたしが不用意でした。あれは条件反射なので、アウリスは悪くありません。敵意も感じませんでした。……少し、驚きはしましたが……」
手で胸の辺りを抑えながら、眉を斜めにしながら笑う。
敵意はなかったとしても、かなりの深い振動だった。
「条件反射?」
「眠っていたところに、突然感知範囲に何かが入ってきて、ビクッとしてしまったのでしょう。わたしにも覚えがあります。単に驚いただけだと思います」
「それにしても……あんなのは感じたことがない」
「魔獣にとって、睡眠はそれほど危ない行為ということでしょう。わたしが肉食魔獣なら、それこそ命にかかわりますし、わたしは陰が強いですから。感じた気配も鋭かったはずです」
以前にも、こういう空気を感じたことはあったが、ここまでのものは初めてだ。
ユアン自身にも、さっきの感触が残っている。
「あれがアンバーガゼルの能力なのですね。角が一瞬光り、そこを中心に広がっていました。魔獣の能力は、本能によって発動するものがほとんどです。むしろ、一番自然で、一番強い発動条件な気がします」
今のが身の危険を感じて、反射的に発動するのだとする。
では、前にレイランが言っていた、意図的にもやれるんだろうか。
「威圧……でしょうか……」
ルティナから言葉がこぼれた。
「威圧……?」
「魔獣の基本生態は、大枠の種で似通っている場合が多いです。ガゼル種が角での伝達をする種だと仮定すると……さっきのあれは、自分の存在を伝えて、周囲を威圧するようなものかと……」
なくはない、と思ってしまう。
アンバーガゼルに乗って戦場にいると、相手が怯むというのはよくあることだ。
単に、それは大きさやこちらの雰囲気に対してだと思っていたが……アウリスの能力だと言っても否定はできない。
「あるかもな。相手が怯むように感じることはよくある」
「先ほどのあれが極まった能力だとするなら、通常はもう少し弱く、広い範囲に影響を出せるのかもしれませんね。陽の気質を考えると、広がる、拡散する、遠くまで届く伝達……空気の振動のようなものでしょうか……」
「空気の振動……って、さっきもそんな話を……音か。音の話でそんなことを……」
「音……振動……伝達……」
「空気の振動を音として感じることができるなら、空気の振動を放つことで、逆に感知もできるのではないだろうか……」
「ありそうです!」
大きく開かれた目は、いつもの3倍にもなっていそうだ。
可能性を考察し、きらきらと瞳を輝かせる姿は好奇心の塊だ。
だが、確かにとても楽しい。
少しずつ、一歩ずつ繋がっていくのは爽快だ。
深すぎる多方面の知識の正体は、この好奇心と探求心の結果なのだと、ユアンはよくよく理解した。
「検証の方法はとても難しいですね。でも、威圧を体感できたのは何よりも貴重な体験でした」
「でも、フェンの様子は頼もしかったな。微動だにせず、落ち着き払っていた」
「フェンは、特に感情に敏感な子なんです。アウリスからの敵意を感じなかったのでしょう」
「それはエルドポニーが、ではなく、フェンがということか?」
「どうでしょう……他のエルドポニーをあまり知らないので……でも、個体差はあると思います」
フェンからは、あまり陰と陽の偏りを感じない。
ルティナの言葉を借りるなら、中庸に近いと思う。
ただ、陰と陽が少ないのではなく、どちらもそこそこ持っているという感じだ。
普段の明るい陽気さと、さっきのしんとした静けさ。
どちらも自然で、フェンらしさだと感じる。
個体差による総量の差、みたいなものもあるのだとしたら、それによる能力の変化もあるのかもしれない。
自分がルティナに影響されてきているのが、なんだか面白い。
感覚と思考は、重なるととても楽しいというのを知ってしまった気分だ。
「それにしても、アウリスの蹄は本当に大きくて厚みがありますね」
いつの間にかアウリスのそばで、観察を始めている。
アウリスがそれを許しているのも驚きだが、目を疑ったのはアウリスの行動だ。
自分からルティナに顔を寄せ、撫でてくれとねだっている。
ユアンに対してもほとんどしないその行動を見て、納得してしまう。
そこまで魔獣に詳しくなれるほど、魔獣に近付けるのだ。
ルティナは魔獣に好かれるのだろう。
相手を尊重し、寄り添い、意思を汲み、理解しようとする。
その接し方は人にも魔獣にも、この世界に対しても変わらない。
何に対しても変わらない、これがルティナの本質であり美しさだと思う。
「戦いが近付くと、蹄を大きく踏み鳴らして、意気を高めるような行動をするんだ。その姿は呼び名の通り、王者の風格だよ」
アウリスが蹄を鳴らすと、実際に地面が揺れているような気さえする。
周囲を警戒しているときは、足音が大きくなるのも威嚇の一種なのかもしれない。
ルティナはアウリスの身体をつぶさに観察する。
蹄と角を交互に見ながら、ひたすら黙ったままだ。
「ユアン様、アウリスはどのようにして戦うのですか?」
「戦うというか――」
話そうとすると、柵の向こうにレイランの姿が見えた。
思ったよりも早く戻ってこられたようだ。
門の前でひらりと飛び降り、リズと共に歩いてくる。
ルティナはそれに気付くと軽く会釈をし、家の中に入っていった。
「戻りました」
「おかえり、思ったより早かったね」
「それほど被害が出ている訳でもありませんでしたので。ただ、対処は必要かと思います」
「そうか、リシアに戻ってから聞かせてくれ」
軽く頷き、レイランは立ち上がる。
戻って来たルティナからグラスを受け取り、喉を鳴らして飲み干す。
レイランからすれば、ユアンの元に護衛がひとりもいないのは気になるはずだ。
涼しい顔をしていたが、急いで戻って来たのだろう。
「さっぱりしていて美味しいです。ほどよく冷えているのもありがたい」
「それはよかったです」
「お身体はもう大丈夫ですか?」
笑顔で頷きを返し、返されたグラスを置きにまた戻っていく。
その視線がちらっとアウリスを追ったのをみて、ルティナの頭の中を想像してしまう。
きっと頭の中は、アウリスのことでいっぱいだろう。
「ルティナ様は……、アウリスですか?」
「ああ、きっと頭の中はぐるぐるしていると思うよ」
レイランもその様子に気付き、小さく笑う。
ユアンがここまでいきさつを話すと、レイランの顔にも好奇心が浮かぶ。
ユアンもレイランも、もう魔獣の虜になってしまっていた。
「面白いものですね。伝達というものの捉え方も、方向や意図によってここまで変わるのかと……」
「だろ? 陰陽の性質を合わせて考えると、より理解が深まる」
「魔獣生態学など、学問として立ち上げたくなります」
「アルデニアには、あまりそういう方向の研究はないもんな」
「対処するために考える側ですからね。魔獣の見方の根本が違いますね」
ルティナは再びアウリスの近くで、ときおり空を見上げたり、首を傾げたりしながら考えている。
考え出すとほぼ口を開かない。
ここまで集中していると、声をかけるのを躊躇ってしまう。
「あ、ユアン様、先ほどの質問ですが……」
「ああ、アウリスの戦い方だね。攻撃するというより、守るという感じだと思う。向かってくる相手を角で倒したり、蹴り飛ばしたりはするけど。指示すれば追うけど、自ら追い回したりはしないね」
「なるほど。その蹄を鳴らすのは、どういう時なのでしょう?」
「何か気配を感じたとき、なのだろうか。警戒しているときは足音が大きくなるし、敵の場所に近付くと増える。あとは逃げていく相手に対しても多い。逆に、接近しているときはやらないかもな」
瞳の色が変わり、その表情が何とも言えない恍惚を浮かべる。
ルティナの中で何かが繋がったのだろう。
あまりにも分かりやすい。
魔獣の生態を考えているときに、この表情がでるのはルティナしかいないだろう。
そう思うと、どうしても堪えきれない。
失礼だと思いつつも、腹の底から笑いが出てきてしまう。
その笑いはレイランと同時に声になり、この庭に響いた。
「いや、すまない。あまりにも楽しそうだったからつい……」
「何か繋がったのなら、是非わたしも聞きたいです」
笑われたことに、少しの照れと少しの不満……といった顔だ。
ルティナはその場に立ち上がって、巡らせた考えを整理しながら、丁寧に言葉にしていく。
「アウリスの戦い方を聞いて、戦い方の質が違うのだな、と思いました。野生の魔獣は、必要のないことはしません。アウリスにとって、相手を倒すことは重要ではないのだと思いました。攻撃をして相手を倒すというのは、肉食獣にとっては生きるための捕食行為です。生きるためには倒すことが必要で、意味があります。でも、アウリスは草食魔獣、相手を倒してもそれは特に意味のないこと。それよりは、自身を守り、仲間を守るため、攻撃されないこと、近付けさせないことが重要で、攻撃は最終手段なのではないかと」
ユアンの頭の中で、今までのアウリスが鮮明に思い浮かぶ。
相手を怯ませ、支持がなければ深追いしない。
向かってくる相手には攻撃するが、追い打ちをかけるようなこともない。
ただ、ここより前には進ませない、そういう意思みたいなものは感じる。
それがとても誇り高く映るのだ。
「なる、ほど……」
「戦う理由、戦う意味の違い。守り方の違い……」
レイランからも、唸る様に声が漏れる。
「アウリスの角から広がった威圧は、どちらかと言えば雰囲気や空気を間接的に伝えるもの。蹄も威圧だとするなら、同じ能力を2つ持つのは少し違和感があります。そうすると、蹄の方はもっと直接的な、実際に体感として伝えるような威嚇。蹄の大きさや気素の巡りを見ると、明らかに他の場所よりも強い力が見て取れます。もしかしたら、地面から振動を直接送り出し、地震のように伝えることも出来るのかもしれません。角の威圧で感知が可能なのであれば、蹄の威嚇も、より効果があるはずです」
見事としか言いようがない。
すべてが上手く、そして無駄がなく繋がっている。
あの恍惚の表情が出るのも頷ける。
「野生のガゼルは、アッシュガゼルとアンバーガゼルが共に過ごす様子も確認されていますし、お互いが不足を補いつつ、共存しているのかもしれません。とはいえ、あくまでも仮説……ですが」
視線の先には、リズとアウリスが並んでいる。
その姿を見つめるルティナは、尊いものを見るような眼差しだ。
自然というのは、どこまでも無駄がなく、シンプルな構造なのかもしれない。
だからこそ、美しく巡っていくのだ。
このときの思いは、ユアンの胸に深く刻まれた。




