翠の季-01.調律
湯船に浸かりながら、今日のことを思い出していた。
湯気と共に香るヨイナギは、ほのかで優しい。
色々あり過ぎたためか、2人を見送ったあとも心の揺れが収まらなかった。
地に足が付かないような、心がここにないような、不思議な感覚だ。
気持ちを落ち着けたくて、今日はゆっくりハーブ湯に浸かることにした。
こんなに誰かと深く関わることがあると、昨日まで想像もしていなかった。
あの2人は、ルティナが持つ“人”のイメージとはかけ離れている。
耳を傾け、理解しようとする。
こちらを気遣い、尊重し、とても深いところにある思いを汲んでくれる。
自分の中へ落ちそうになると、そっちじゃないと連れ出そうとする。
胸の中に湧いてくる暗闇を、それごと掬ってくれる。
ユアンが光を示し、レイランが道を作ってくれる。
息がしやすい、言葉を繋ぎやすい、歩きやすい。
流れ込んでくる感情は、優しく温かいものばかりだった。
この心地よさを知ってしまったことに、少し怖さを感じるくらいだ。
知らなかったときには持ちようもない。
失う怖さというのを、今日初めて知った。
父以外の人と、初めて食事をした。
父以外の人と、初めて霊素の話をした。
父以外の人に、初めて霊核の姿を見せた。
そして、初めて誰かに、真名を預けたいと願った。
人の願いを叶えるのではなく、自分の願いを叶えたいと思った。
誰かの世界に自分が在るのではなく、自分の世界にあの2人がいて欲しい。
そして、この2人と共に、この世界に在りたいと思った。
願いを持つことはこんなに温かく、こんなにも怖いものなのか。
でも、これがとても幸せで、大切なことだというのは、ルティナにも分かった。
いつもより早く目が覚めて、まだ少し、そわそわしているのを自覚する。
それが少し恥ずかしく思えて、騒がしくなってきた森のせいにした。
太陽と共に目覚める森の住人たちは、ルティナよりも早く動き出している。
今朝は小鳥たちが元気だ。木の実がたくさん集まるかもしれない。
春の気温は、一気に変わる。
昨日からぐんと気温が上がったので、少し薄手の重衣を出した。
前を重ねるように合わせて着る重衣は、父の故郷の服が元になっている。
動きやすいように丈を腰まで短く、袖も筒状にした。
それに合わせる為に、この国のズボンとスカートを参考にして、父と共に作ったのが截衣と纏衣だ。
ゆったりとしたズボン型の截衣と、腰に巻いて着るスカート型の纏衣。
ルティナたちの服装は、すべて父の発想と創作から生まれた。
アマヒトは人よりも長命なこともあり、父の知識は幅広いものだった。
もしかしたらこの服も、父の知識の中にあったものかもしれない。
外に出ると、まだ朝早いはずなのに、もうしっかり陽射しを感じる。
今日は早めの時間から、ユアンの施術をする予定だ。
近場の山菜と木の実だけの、軽い採取にしておくことにする。
手持ち籠だけを手に取ると、フェンがいそいそと寄ってくる。
朝の採取に出掛けるのは、フェンにとって楽しいことのようだ。
小鳥の声を追いながら、森の中を歩く。
まだ温まりきっていない空気からは、土の匂いよりも若葉の青さを感じる。
木漏れ日が落ちる木の根元に、ふくふくとした丸いカサが身を寄せ合っている。
コモリ茸だ。
使い勝手良いきのこだが、このきのこから取れる出汁は絶品だ。
今日の昼食は、この出汁でスープを作ろうか。
少し進むと、フェンが何かに気付いたように、どこかに歩いて行く。
付いて行ってみると、そこには今にも弾けそうなスナップ豆が生えていた。
瑞々しい黄緑色は眩しいほどだ。
これは塩ゆでにして、食感も楽しみたい。
フェンはさやに鼻先を寄せ、青い香りのするそれをひと口だけ齧り、すっと目を離した。
とりあえず食べてみたが、そんなに好みではない、という感じだろうか。
無表情で口を動かす横顔が、むしろ可愛い。
近くには、今の時期には珍しい野生のジルハも見つけた。
独特の香りがする香草で、乾燥させても、生でも食べられる。
例年は初夏あたりに見かけるようになるが、今年は季節の進みが早いのかもしれない。
せっかくなので、これを入れたパンでも焼こうか。
採薬は気を遣うが、食材採取はただ森を感じられる気楽な散歩だ。
何を作ろうか考えながら歩く時間は、ただ楽しい。
そして、それを食べてくれるであろう人の顔が浮かぶのも、とても嬉しいのだ。
しばらく歩き回り、ナバ菜やフクノ芽などの春の山菜を集めた。
気温が上がったせいか、一気に芽吹いたようだ。
遠回りをして帰る途中にリンベリーの群生を見つけ、思わず駆け寄ってしまう。
フェンと取り合いのようになってしまったが、それでも籠いっぱいに摘めた。
これで、今年の分のはちみつ漬けは作れそうだ。
家に戻って食材を片付け、予定まではまだ少し時間がある。
せっかく新鮮なジルハがあるので、それを混ぜ込んだ平パンを焼くことにした。
生地を寝かせずに作れる平パンは、かまどがなくても簡単に焼ける。
麦粉と芋粉、塩、清水、少しの木の実油を加えて捏ねていく。
硬め生地ならもっちりと、緩めの生地なら軽い仕上がりになる。
今日はスープに付けながら食べたいので、少し緩めに生地を仕上げた。
生地を2つに分け、片方に刻んだジルハを混ぜ込んでいく。
若葉の甘さに、少しの尖った清涼感を含む独特の香りだ。
好みが分かれるかもしれないが、パンに混ぜて焼けば、ほどよいアクセントになる。
何も入れないものと2種類作って、好きな方を選んでもらおう。
野菜の素焼きなどに使う石板を熱し、まずは普通の平パンを、焼き上がったらジルハ入りを焼いていく。
ジルハ入りの平パンは、焼くときに少し油を塗ると、表面がパリッとして香りも立つ。
食感と香りの違いも出て、飽きずに食べられるはずだ。
ジルバの平パンが焼ける香りが火床に流れ出した頃、2人は訪ねてきた。
ルティナが火床にいるのを見て、手慣れた様子でアウリスの鞍を外すのはレイランだ。
フェンもすっかりこの2人と2頭を受け入れたようで、自分のペースを崩さない。
ユアンはフェンに挨拶をしながら、笑顔でじゃれ合っている。
香りにつられたのか、戸口からそっとこちらを覗き込んでいる。
手が離せないままお辞儀を返すと、軽く頷いて庭に戻った。
ようやくパンを焼き上げ、集い間に冷茶を用意したあと、ルティナは庭に出た。
今日は3頭が集まって挨拶しているようだ。
リズは鞍が乗ったままになっている。なにか急ぎの用事があるのだろうか。
「お出迎えできず失礼いたしました」
「いえ、お気になさらず。先に色々やっておりました」
今日も何やら荷物が多い気がするが、見なかったことにしておこう。
「ユアン様、昨夜はよくお眠りになれましたか?」
「ああ、頂いた香のおかげか、とても深く眠れてすっきりしたよ。ありがとう」
「それは良かったです。今日は少し疲労が出ると思いますので、負担を感じたらおっしゃって下さい」
昨日の帰り際に、眠りを深くするお香を渡した。
ルティナが調合した、鎮静や安眠など陰の効果があるものだ。
気配を近く感じてしまうせいで、普段から寝付きは良くないと思う。
ある程度の制御ができるようになるまでは、使った方が楽かもしれない。
「レイラン様、今日はお急ぎですか?」
馬たちの飲み水や食べ物をひと通り用意し終えて、レイランは戻ってきた。
「そんなに急ぎではありませんが、昼前に一度街に戻る用がありまして」
「そうなのですね、では先にリズを診てしまいましょうか」
「お願いできると助かります」
ルティナはリズの元へ向かう。
リズはもう慣れたのか、レイランが居なくてもじっと待っていてくれる。
脚を視ると、昨日とそれほど変化はなく、安定している。
一昨日から昨日の変化と比べると、少し穏やかだ。
「昨夜はリズと走ったりはしていませんか?」
「昨日は……少しゆっくりしたくて、帰ってからは出掛けておりません」
よく考えれば、それはそうだろう。
あれだけ一気に話をして、頭も心も整理が必要なはずだ。
今2人が普通に受け入れているのが、むしろすごいことだと思う。
「もしかしたら……夜、少し走らせた方が早く馴染むかもしれません。巡りは安定しておりますので、このままでも問題ないと思いますが、リズは夜に身体の巡りが強くなると考えると……夜にある程度動かした方が、戻りは早くなる気がします」
「なるほど。我々とはリズムが逆ということですね」
「昼にも活動できるように適応していますから、完全に逆とは思いませんが、たまに走らせてあげると元気になると思います」
「わかりました。ありがとうございます」
リズが顔をレイランに向け、じっと見ている。
少し喜んでいる気がしたのは、レイランの気持ちが分かったからだろうか。
落ち着いたところで、2人を集い間に案内した。
少し離れた位置に、背もたれのない丸椅子を2つ置く。
これは父がたまに使っていた施術用の椅子だ。
片側にひじ掛けだけがある形で、回転させればどこにでも向けられる。
上着と腰の剣を外してもらい、ユアンにはそこに座ってもらった。
ルティナはユアンの右腕側、斜め向かいに腰を下ろす。
「まずは、腕の状態のご説明から致しますね」
「ああ、頼む」
少し離れた位置に控えているレイランも、小さく頷いた。
「右腕の肘より少し下に、瘤のように固まった気素の詰まりがあります。ここより下は、巡りが完全に止まっていると思って下さい。そして、その瘤を中心に、押し出されてくる霊素が堰き止められ溜まっており、その範囲が徐々に広がっています。今は肩と首の間くらいまで進んでいます」
ユアンは自分の腕をじっと見ながら、頷く。
「これは、普通の人だとほぼ起こりません。詰まって巡らなくなることはあっても、この溜まりができるほど人の体内には気素がないからです。霊核を持つ身体だから起こったことです。おそらく、ユアン様は無意識に体内の気素を右腕に集めています」
ルティナは少し、眉を寄せた。
思ったよりも、濁りが強い。
詰まりを取り除き、道を繋いでも、この濁った気素は元の流れに戻らない。
濁った気素は、もう気素ではなく異物だ。
少しならいずれ消えるだろうが、この濃度と範囲では無理だろう。
「隠さず、教えて欲しい。自分の身体のことだ、今後のためにも知っておきたい」
ユアンの表情はまったく変わらず、瞳は静かだ。
大丈夫だ、と、言われた気がした。
「瘤と溜まった気素の状態が、あまりよくありません。普通は、詰まりを取り除き、道を繋げば自然に巡りだします。そして染み出した気素はいずれその巡りに沿っていきます。……ですが、巡らずに溜まり続けた気素は、淀み、濁り始めています。濁った気素は、変質した気素。それを壊素と呼びます。壊素は体内の異物です。もう巡りには戻りません」
背中が冷たくなるのを感じながら、ルティナは気を引き締めた。
「先にお伝えします。これを聞いてからご判断下さい」
身体が震える。
声が震えるのを必死に抑える。
「わたしはこの施術を、過去3度行いました。そのうち、最後の1度は失敗しています。その人はその3日後に亡くなりました」
レイランは表情を変えず、ルティナを見つめている。
ユアンは目を伏せ、奥歯を噛みしめる。
「わたしの父です」
言葉にした瞬間に、思い出してしまう。
あのときの身体の揺れ、目の前の壊素が落ちて、反転する光景。
そして、父の穏やかな笑顔。
「この症状は、霊核を持つ者しか起こりません。巡りを戻すことだけを行うという選択肢もあります。その場合、完全に元には戻らないと思いますが、日常の生活には問題ないと思います。父の場合は、これが全身にいくつもありました。でも、ユアン様の状態なら、わたしは可能だと思っています」
「構わない。あなたができると思うのなら、俺もそう思う」
迷いのない、きっぱりとした言葉と声で、ユアンは言った。
レイランは立場上、止めなければならないはずだ。
でも、黙ったまま、ユアンの判断を受け入れている。
ルティナは、背筋が伸びる。
立ち上がり、レイランの耳元で小さく短く伝える。
レイランは何か言いたげに顔を歪めたが、受け入れてくれた。
「少し、ユアン様の身体にも負担が大きくなります。ユアン様は気素のコントロールがまだ難しいので、心を落ち着けて、できるだけ呼吸を一定に、心を静かな水面のように整えて下さい」
目を閉じ、自分を暗い世界に置く。
身体の中、子宮の付近に、青白い光が浮かぶ。
送り出される光の粒、それが身体を流れる感覚を確かめる。
青白い霊核の光を、少しずつ膨らませ、美しい球体をイメージする。
内側はどこまでも深く、外側はしっかりと包むように。
ユアンの肘に右手を当て、ユアンの呼吸に合わせ、深く吸い、深く吐く。
呼吸のリズムで、右手から自分の中へ。
濁った気素を吸い込んでいく。
青白い光の内側へ、どこまでも深いその中へ。
溜まった壊素をひと粒ずつ吸い込む。
瘤を溶かし、詰まりをなくす。
焦らず、丁寧に、ひと粒も残さぬように。
壊素を吸い込んだ球体を、少しずつ小さく纏め、安定させる。
右腕は綺麗に、何もなくなった。
身体の中心から冷たさを感じる。
自分の体内の気素が、ごっそりと消えた感覚だ。
大丈夫。まだ立っていられる。
これだけ残っていれば、やり切れる。
右の手のひらから、左の指先へ意識を移し、途切れた道を繋いでいく。
肩から指先へ、指先から肩へ。
淀みなく流れる、静かな川のように。
ユアンの気素を導いていく。
視界が揺れる。
目がかすんでくる。
視るのではない。
感覚をもっと深く、感じるものをそこに映す。
ユアンの気素は、とても美しい黄金色だ。
流れも一定で、素直に動き、穏やかに強く輝く。
彼そのもののようだ。
道を繋ぎ終えると、嘘のように美しい巡りが始まる。
取り戻した生命を喜ぶように、細かな粒が飛び交い、舞うように巡る。
なんて綺麗なんだろう。
そう思ったのだけは、覚えている。
遠くで、自分の名が呼ばれるのが、微かに聞こえた――。
――意識が消えるように、暗い闇の中に、深く深く落ちていく。




