序章-15.陰と陽
目の前にあるお茶を取り、ひと口、口に含んだ。
ユアンの目はルティナを見つめている。
自分の身体の状況に気付いたのだろう。
それでもまだ半分だ。
「失礼を承知でお聞きしたい」
ユアンのその声は、さっきよりもしっかりと通り、響いた。
「あなたはその霊素を扱い、巡りを戻すことが出来ると言いました」
「おっしゃる通りです」
「……では、その逆。巡りを止めることも出来るということでしょうか」
「できます」
ルティナもまた、その視線に応え、ユアンを見つめる。
それを思い、そのままの言葉でわたしに問うこの人は、信頼に足る人だと思った。
レイランの周りの空気が揺れた。
言葉にはしないが、強い怒りの感情だ。
でもそれは、自分自身へ向いているようだった。
少しの沈黙があった後、ユアンは静かに口を開く。
「このことを話して下さったことに、心からの感謝を伝えたい」
「事実そのままです。感謝されるようなことはありません」
「あなたは本当に強い人だ。話して下さった信頼に感謝を返し、あなたを守る方法を一緒に考えたい」
“守る”という言葉に、ルティナは胸の奥が熱くなった。
そしてまた、レイランからも、ルティナと同じ感情を感じる。
この2人に出会えたことに嬉しさが溢れた。
こぼさないように溜めた涙で、目の前が大きく揺れていた。
ひと呼吸おくために、外の空気を吸いに出ることにした。
今日の太陽はひと際強く、肌に感じる陽射しにも重みがある。
明日の採取では、山菜が多く取れそうだ。
張り詰めていた緊張がほどけ、どこか空気が緩くなった。
話すことはまだまだ残っているが、少しは気分転換も必要だと思う。
「それにしても……価値観がひっくり返るって本当にあるんだな」
ユアンは庭の若草の上に座り、足を伸ばしている。
レイランが仕える立場の人なら、とても身分が高い人だと思うが、とても自由な人だ。
「わたしも、ある程度は覚悟していたつもりですが、足りませんでした」
レイランもとても気持ちよさそうに、ユアンのそばで空を仰ぐ。
昨日と同じように、庭の端ではフェンとリズが並んで昼寝の最中だ。
よほど気が合うらしい。
そこから少し離れたところで、アンバーガゼルが立ったまま休んでいるようだ。
座らないのは、まだ緊張しているのか、プライドなのか、どっちだろう。
「あのアンバーガゼルは、とても立派ですね。堂々として、逞しくて、素敵です」
「アウリスといいます。アンバーガゼルの中でも、かなり大きい方かと」
リズのふた回りほど大きいアウリスは、見るからに強そうだ。
「アンバーガゼルはどんな特徴があるのですか?」
ユアンとレイランは顔を見合わせ、少し黙っている。
「ルティナ様、その話はまた今度ゆっくりと致しましょう。今話し始めると、今日が終わってしまう気がします」
気まずそうに言うレイランは、目を合わせてくれない。
確かに、今日はまだやることが山積み状態だ。
「たしかにそうですね、ではまたの機会を楽しみにしております」
少し残念だが、治療をするならしばらく通ってもらうことになる。
先がある思うと、とても嬉しくなった。
気がつけば、太陽がちょうど真上を過ぎたところだ。
2人は昼食をどうするのだろうか。
こんなに時間がかかると思っていなかった可能性もある。
話が長くなったせいで、食べそびれてしまうかもしれない。
「レイラン様、失礼ですが……昼食はどうされますか? わたしの話が長引いたせいで、少し時間がかかってしまいましたが……」
レイランは少し言いにくそうにした後、持ってきた荷物を見せてくれた。
そこには食材が詰まっており、なかでも驚いたのは、サーラだ。
まるごと1尾のサーラは、ふっくらと丸みがあり、いかにも脂が乗っていそうだ。
「すごいですね! 森暮らしだとあまり魚を食べる機会がないので……でも、頂いてよろしいのですか?」
「その……またルティナ様の料理を食べたいという、下心たっぷりの土産です」
「もちろんです。すぐに支度を致しますので、それまでこちらでお待ちください」
「あ、それと。風鈴果も買ってきましたが……先に彼らに食べさせておきますか?」
厩の横に、大きな袋に入った、たくさんの風鈴果まで置かれていた。
つやつやとした黄緑色は、ひとつひとつが大きく、とても良いものに見える。
「こんなにたくさん……! ありがとうございます。報酬はこれで充分です」
「いえ、これは3頭分ですので、報酬とは別です」
きっぱりと言うレイランには、何を言っても受け入れて貰えない気がして、ありがたく受け取ることにした。
「では、お願いいたします。出来ましたらお声がけします」
サーラを受け取り、火床へ向かう足が弾んだのは……きっと気付かれなかったはずだ。
ルティナはとても料理が好きだった。
立派なサーラを前に、心が躍る。
森に住む者にとっては、魚は滅多に手に入らないご馳走だ。
レイランは本当に、よく気が回る人だと感心してしまう。
せっかくの1尾だ。
大きめのムニエルにして、取り分けて食べるようにしよう。
丸ねぎを薄切りをしっかり炒めてソースにすると良さそうだ。
サーラを3枚におろし、塩コショウで下味を。
麦粉と山菜粉をはたいたら、皮目からゆっくりと火を入れる。
タケノメや白根などの根菜を大きめに切って、こちらは素焼きにする。
庭をのぞくと、2人は風鈴果を手に、フェンたちと楽しそうにじゃれ合っている。
ほのぼのした光景に、心が和む。
ムニエルの前なら、食前酒は軽めに。
甘みのない森柑の香果酒を清水で割り、小鉢は山菜のおひたしを用意する。
飲み物を準備し終える頃に、2人は集い間に戻ってきた。
昨日話したことを、レイランが覚えていてくれるのは、素直に嬉しい。
食前酒を2つ用意するのは、少し不思議な感覚だ。
2人に食前酒を出し、火床に戻ると、サーラの焼ける香ばしい香りに胸が弾む。
少し油を拭い、コクのある木の実油を足し、丁寧にひっくり返す。
根菜は素焼きに、丸ねぎはしっかりと炒めて、濃い目の味に調えていく。
パンを温めようと振り返ると、後ろにはユアンが立っていた。
「すごくいい香りがしてるね」
ルティナに近付きすぎないように、少し距離を取って立っている。
覗き込む姿は、待っていられない子供のようだ。
「魚は香りが届きますね」
ユアンの素直な行動にも、少し慣れてきた。
直感的に、自由に、心のままに動くのだろう。
その姿が、少し羨ましく思える。
「これかな?」
パンの包みを手渡してくれたお礼に、焼けたばかりのタケノメに串を刺し、そっと手渡す。
つまみ食いは、なんとも幸せなものだ。
驚いた顔で受け取り、そのまま口に入れた。
「火床にいる者だけの、秘密の特権です」
小さく笑って、パンを温める。
ユアンに手を差し出すと、照れたように串を乗せた。
ミントを浮かべた清水とグラス、温めたパン、取り分けの皿を並べ、2人に声をかけた。
素焼きにした根菜にハーブ塩を振って、席に着いた2人の前に置く。
焼き上がる直前のサーラからは、パチパチと弾ける音が上がる。
身を崩さないように器に盛り、丸ねぎのソースをたっぷりと乗せる。
立ち上る湯気と香りを、胸いっぱいに吸い込みたくなる。
振り返ると、戸惑うように手を付けるユアンがいた。
サーラを乗せた大きな皿を前に置くと、2人の目がぱっと輝く。
その目を見て、ルティナは心の中で激しく同意した。
「今回もまた……とても美味しそうです……」
レイランから、ため息とも取れる声が漏れた。
「どうぞ、温かいうちに召し上がって下さい」
ルティナは、飲み物を調えてから席に着いた。
サーラのムニエルは、信じられないほど美味しかった。
ふんわりと柔らかく淡泊なサーラに、丸ねぎソースが丁度良く全体を調えている。
香ばしくパリッとした皮目と、柔らかな身の食感が口の中で楽しい。
野菜中心で、たまに肉を食べる程度のルティナにとって、初めての味わいだ。
「自分でも驚くほど……美味しいです……」
口から思わず声が漏れた。
言った後に、これが自画自賛にしか聞こえず、酷く焦った。
「いえ、あの、サーラが、とても新鮮で美味しいサーラだったのだと……」
いい訳のような訂正に、2人は声を上げて笑う。
「いやいや、本当に美味しいよ。初めての味と香りだけど、美味しくて驚いてる」
ユアンはパクパクと口に運び、満足そうに笑顔で口を動かす。
「昨日頂いたときにも思ったのですが、ルティナ様の料理は……腹ではない部分が、とても満たされる気がします」
レイランは取り分けた料理をじっと見つめ、口に運ぶ。
味付けの問題だろうか。
森でとれるハーブや木の実の問題だろうか。
「わたしはあまり、家以外で食事をしないので何とも言えませんが……味付けでしょうか」
街では、森で手に入らない食材を買うことはあっても、出来たものを食べたことはない。
父がそれを好まなかったからだ。
「霊素の問題じゃないのか? 森で採れた食材を使っているなら、俺たちが食べる物よりも多く含んでいるんだろ?」
ユアンは、さも当たり前のように言う。
「霊素が気素になって、気素が活力になるなら、身体が喜んでいるってことじゃないか?」
なるほど、と深く納得してしまった。
ルティナには当たり前過ぎて気付かなかったが、確かにそうだ。
「たしかに……」
「そうですね……」
そう思うと、目の前の料理が特別なものに思えて、少し嬉しくなった。
「ユアン様は、とても頭が柔らかいですね。物事を外から広く捉えている感じがします」
霊素も気素も、ついさっき知ったばかりだというのに、既に収まっている。
「それは嬉しいが……その、なんというか、素直に喜べないな……」
「わたしはすぐにひとつに集中してしまうので、素晴らしいと思います」
ルティナの言葉に、2人は同時に頷く。
その素早い反応には、素直に受け取れない雰囲気を感じた。
食事を終え、後茶を飲みながら、集い間で食後のひとときを楽しむ。
レイランはお茶を淹れられないのを悔やんでいたが、それは今後の楽しみにした。
お腹が満たされたあとのこの時間は、少しのけだるさが心地よい。
「この家は本当に居心地がいいな。この異国の雰囲気も落ち着けるよ」
ユアンは、長椅子でゆるりとくつろいでいる。
きちんと背筋を伸ばして座るレイランとの差が、少し面白い。
「そう言って頂けると、父も喜ぶと思います。この家にあるものは、ほぼ父が作ったものなので」
「え? この家具も?」
驚いたように身体を起こし、家の中を見回す。
「はい、冬は森での仕事が少なくなるので、毎年少しずつ新しい家具や設備が増えていました」
「すごいな。職人じゃなくても作れる……のか?」
長椅子を少し不思議そうに眺め、レイランに視線を送る。
レイランは黙って、首をかしげている。
「さすがに、火床のかまどなどは頼んで作ってもらったそうですが、それ以外はだいたい作っていましたね。陶器の食器や、服なども」
「……あなたの父上は、本当にすごい方だったのだな……」
「恐れ入ります」
父を褒められるのは嬉しい。
この2日で、より深く父のすごさが分かり、改めて父に感謝している。
「火床……というのは、調理場のことでしょうか?」
レイランに聞かれ、家の中の呼び方が違うことを思い出す。
「そうです。調理場は“火床”、風呂場は“湯床”、手洗い場は“水床”、用を足す“影床”などでしょうか。あとは、この場所は“集い間”、食卓は“食の間”と呼びます」
「なんというか、とても納得の呼び名です。きれいな音なのも良いですね」
「父の故郷では、音の響きを大切にするそうです。人から呼ばれたり、名乗ったりするときに多く耳にする名前も、響名と呼ばれます」
レイランは、何か思ったようだが、それを言葉にはしなかった。
「響名って言うくらいなら、そうじゃない名前もあるってことかい?」
それを言ったユアンを、眉をひそめて見たレイランの顔は、苦さを噛みしめるようだ。
ルティナは笑顔で言葉を足す。
「構いませんよ? わたしたちは3つの名前でひとりを表します。響名、真名、魂名と呼ばれます。真名は生まれたときに、一族の長や親族の長が与える正式な名で、儀礼などで用います。真名を伝えることは信頼の証とされ、本人の意思で相手に伝えることもあります。その真名から音を拾って、親が付けるのが、日々の名である響名。そして、本人の魂に宿るのが魂名です。魂名は名前というよりも詩の一節のような言葉で、本人にしか分かりません」
「面白いな。とても美しい繋がりだね。名前を大切にしたくなる。詩のような……名前……」
ユアンは考え込むようにうつむいた。
「気に……なりますか?」
「いや、いやいや、どんなものか想像しただけだ。大切なものだというのは分かる。気にしないでくれ」
ルティナは少し考える。
「わたしはその文化で育っておりませんので、お伝えすることもあまり気になりませんが……。その、魂名は親と、生涯を共にする者にしか伝えないものなのだそうです」
ユアンとレイランは同じように目を開き、大きく首を横に振った。
余計なことを言って、気を遣わせてしまっただろうか。
ルティナは、父の名が思い浮かんだ。
「では、代わりに父の名を聞いて頂けませんか? 父の故郷では、人は亡くなると霊素に還るとされています。その際に、名も役目を終え昇華する。亡くなった後に名を呼び、霊素を送ることは、その者への祝福なのです。わたしはひとりでしたので、まだ送れておりませんでした」
2人は少しの間を置き、姿勢を正した。
この姿に感謝し、ようやく父を送れることが嬉しかった。
ルティナは、胸の前で指先を合わせ、三つの角が出来るように整える。
「その者の名。
響く真名、コーレニアス・コーダレンシア。
素に宿る、生きる音。
魂に刻まれし精霊の魂名、
“森の息を聴く者・音を紡ぎ、永遠に伝える者“なり。
その名を呼び、その音を響かせ、再び迎える日に祝福を送る」
言い終えると、微かに霊素が揺れ、うっすらと光った。
父の霊素がそばに在るように感じて、また降りる日を願いながら、静かに祝福を送った。




