序章-13.ユアン
感じたのは、父のようで父ではない気配だった。
ルティナは、作業部屋にいた。
森に近付いた気配に、先に気付いたのはフェンだ。
落ち着かない様子で足踏みをしながら、耳をピンと立て、森の入口のほうへ向けている。
しばらくして現れたレイランの隣に、その気配はあった。
人が宿すには強すぎる陽の気配。父よりも遥かに強い。
でも、紛れもなく人だ。
彼が、レイランが診て欲しいと言っていた人なのだろう。
フェンは警戒を解かず、ルティナを守るように戸口の前に立つ。
無理もないと思う。
ルティナですら、その気配に驚いているのだ。
ただ、それはとても穏やかで、包むような温かさを感じる。
門の前から、レイランが呼びかけている。
ひとつ、深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
きっと大丈夫だ。
そっと戸口を開け、フェンの首に手を置く。
ルティナに気付いても、フェンはその気配から目を離さない。
少し強めに、2度首を叩く。
ようやくルティナに目を向けたが、耳はしっかり気配を追っている。
その瞳にあるのは不安や怯えではなく、強すぎる気配への警戒だ。
慣れるまで少し時間がかかりそうだが、大丈夫そうだ。
「ルティナ様、少し早かったでしょうか?」
ルティナを気遣うように尋ねるレイランは、昨日より少し距離が近く感じる。
雰囲気もだいぶ軽やかだ。
「いえ、構いませんよ。お待ちしておりました」
「一緒に参りましたのが、わたしの仕える方です。ご紹介してもよろしいでしょうか?」
「はい、わたしもご挨拶させていただきたいです」
レイランの少し後ろに立っているその人は、ルティナを見つめたまま動かない。
その視線の意味は、理解できる。
レイランが連れてきたということは、きっと知らないのだ。
でも、感覚でわかってしまう。
こうなるとは予想もしなかった。
身体を診て、施術をするだけなら話す必要のないこともある。
だが、それは難しくなった。
この力を抱えた上で、その知識を持たないまま生きるのは大変だ。
今までどれほど苦労をしたのかと、考えずにはいられない。
自分には父がいたが、それでも安定するまでは苦しいことが多かった。
どこまで話すべきか。
話すことを自分が判断していいのかも、正直、よくわからない。
知らない方が楽なこともたくさんある。
ルティナ自身も、知識でしか知らないことや、分からないことも多くあるはずだ。
胸の奥で、不安が膨らむような気がした。
その人の前に進むと、琥珀の瞳がルティナを映した。
「ユアン様?」
レイランが、固まったまま動かないその人に呼びかけた。
「初めてお目にかかります。ルティナと申します」
ルティナの声で我に返ったその人は、慌てすぎて言葉が喉に詰まっている。
右へ左へ揺れる視線と、時間だけが早回しになったような様子に、こちらがいたたまれない。
レイランは訝しげな目でユアンを見ている。
その顔は、思っていることそのままが現れていて、声が聞こえそうだ。
「ふふっ」
思わず、声がこぼれた。
ここにいる全員が、とても緊張していたのだ。
止まっていた空気が動き出したように思えて、身体がふっと軽くなった。
落ち着きを取り戻したその人は、ひとつ呼吸をし、瞳を合わせてからお辞儀をする。
「お恥ずかしいところをお見せしました。どうぞご容赦ください。ユアンと申します」
レイランとはまた違う、朗らかな温かさだ。
ユアンの緊張が和らいだお陰で、フェンの警戒も少し収まってきている。
「お待ちしておりました。リズと……その子も、ゆっくり休ませてあげて下さい」
柵の中へ招き入れると、フェンはルティナの真横にぴたりと付いた。
警戒する相手が多く、今日のフェンは大変そうだ。
まずはお茶を出そうかと思ったところに、後ろから声がかけられた。
「すまない、先に一つだけ聞いてもいいだろうか?」
「はい」
まだ戸惑いが残るユアンは、どう言葉にしようか迷っている。
ルティナはそのまま、次の言葉を待った。
「あなたには、俺が感じたものがわかるのだろうか」
その言葉は、とても的確に表現されている。
たったこのひとときで、何も分からない今だ。
「はい、同じように」
その一瞬、泣きそうな目になった気がした。
ユアンは軽く目を伏せ、今度はまっすぐにルティナを見た。
「そうか。少しだけ整理する時間が欲しい。庭の中で自由にさせて貰っても?」
「もちろんです。あちらの長椅子にお茶だけご用意しますので、必要であればお使いください」
「ありがとう」
その様子を黙って見ていたレイランは、何も言わなかった。
レイランもまた、とても察する人だ。
「レイラン様、先にリズの脚を見せて頂けますか?」
「かしこまりました。鞍を外してやってもよろしいでしょうか?」
「はい、昨日の場所に。フェンの分は中に持っていきますので、あの子のも外すのならそこへ」
「お気遣い感謝いたします」
「それから……もっと楽にお話し下さいませ。わたしもその方が落ち着きますから……」
ふわっと小さく笑い、頷きとも会釈とも取れる返事をした。
長椅子の横にお茶を2人分用意する頃には、フェンは落ち着いていた。
ユアンの連れてきた子は、まだ少し緊張が見えるが、慣れるのは早そうだ。
リズは既にうとうとしている。
よほどここが気持ちいいのだろう。
起こしてしまうのは気が引けるが、その後にゆっくり微睡んでもらおう。
レイランに付き添ってもらい、リズの脚を診せてもらう。
流れは落ち着き始めており、このまま馴染んでくれそうだ。
身体全体が弱っていたわけではないせいか、思った以上に回復が早い。
人よりも、魔獣の方が元に戻るのが早いのかもしれない。
「大丈夫そうです。1日しか経っていないのに、とても変化が早くて驚いています」
「そうですか、安心しました」
「走っている様子はいかがですか?」
「違和感もなく、というより、前よりも調子が良さそうです」
嬉しそうに笑うのを見られると、それだけで救われる。
レイラン自身も、昨日より空気が柔らかい。
「そういえば、アッシュガゼルの夜行性。おそらく正しいと思います」
「そうなのですか!」
「昨日の帰り、灯りなしにリシアまで走りました。今までで一番軽やかに、速く。足元のくぼみや石も避けながら」
「それはすごいですね。夜の方が身体が活発になるのかもしれません」
「あと、足音も、息遣いも、夜はほとんどしませんでした。帰ってからは森葡萄を2房食べたようです」
「それは……かなりご機嫌だったのですね」
夜に食事をとるのは、夜行性の生き物以外はほとんどない。
それだけ走れたのなら、リズの感覚も悪くなさそうだ。
気持ちよく走れて、ご機嫌でご飯を食べたのだろう。
「この調子なら、早めに回復しそうです」
「嬉しいことですが、それはちょっと残念です」
「なぜでしょう?」
「リズがここで昼寝ができなくなってしまいます。リズにとっては大問題です」
確かに、ここで昼寝をするリズは、とても気持ちよさそうだ。
うとうとし始めているリズをみるレイランは、幸せそうに微笑んでいた。
「さて、ルティナ様は大丈夫ですか?」
レイランの心遣いに感謝しつつ、とても切なくなる。
さっきの様子を見て尚、そのまま飲み込んでくれているのだ。
「わたしは大丈夫です。ですが、少し迷っています」
「ルティナ様のお考えのままで大丈夫です。わたしも、ユアン様も」
この人の、ユアンに対する信頼は絶大だ。
それなら、この人が信頼するユアンを信じればいい。
「ありがとうございます、まずは、中でお話を聞かせて下さい」
家の中、集い間の長椅子に座るユアンは、少し緊張している。
その後ろに控え立つレイランは、従者の顔だ。
「まずは、ご相談の内容ですが……右腕……でしょうか」
ユアンは、目を僅かに開いた。
何かを確かめるように右肘に手をあて、更に右肩へ移す。
「右肘から下は、ほぼ何も感じない。それが徐々に上がってきて、今は右肩の感覚も薄くなっています」
しっかり視なくても分かるほど、右側がおかしい。
おそらくもう、その部分はまったく通っていないだろう。
「いつ頃からでしょう?」
「感じ始めたのは1年ほど前、最初は感覚が鈍くなり、今はもうほとんど物を持てません」
「触れても構いませんか?」
「もちろん」
ルティナは立ち上がり、隣へ座り直す。
意識を集中し腕を視ると、そこはもう完全に止まっている。
背中に冷たいものを感じた。
普通なら、こうならない。
もともと持っているものが強すぎるせいだろう。
無意識に使い続けたせいで、腕に集まり溜り続けた結果、流れなくなってしまったということかもしれない。
流れなくなっても、身体から供給が続くせいで、せき止められ、広がり続ける。
「治すことは可能だと思います。ただ、扱いを覚えないと、またこうなってしまうと思います」
「扱い……」
「治すことよりも、そちらの方が大変かもしれません」
レイランと顔を見合わせ、もう一度こちらをみる。
ルティナは元の椅子に戻り、レイランと、ユアンと順番に目を合わせ、心を調えた。
「少し、長い話になると思います。もし不都合がなければ、レイラン様もお座りになりませんか?」
レイランは一瞬迷ったように、でも動かない。
ユアンは顔を緩め、後ろを振り返る。
「レイラン、そうさせてもらおう」
軽く礼を取り、レイランはユアンの隣に腰掛けた。
「わたしはとめどなく語りますので、気になることがあればお声がけ下さい。出来うる限り、お答えいたします」
2人は頷いた。
その奥、フェンが休む庭には、いつもよりも明るい陽の光が、燦燦と降り注いでいた。




