蒼の季 向夏-32.約束
エールの空き瓶が、次々と並んでいく。
2箱はさすがに多すぎるのではと心配したが、余るどころか足りなくなりそうだ。
おもむろに立ち上がったザハルは、バイソンの肉を頬張りながら母屋の方へと歩いて行く。
「エールを取りに行ったわね」
ミリアナはその後ろ姿を眺めながら、アーグリンネたちの骨付き肉をあおいで冷ましている。
王都からお土産に持って来た、大鹿の骨付き肉だ。
アーグリンネは生のままでも食べるが、表面を軽く焼いた方が彼らの好みらしい。
ミリアナのそばで、ネフィとラウラが今か今かと行儀よく待っている。
ジェイドはと言うと、少し離れた母屋の屋根に乗り、その様子を眺めている。
「ジェイドだって早く食べたいくせに、素直じゃないわね」
「ああ見えて、一番の人見知りはジェイドだもんね」
母屋の倉庫から、エールの箱を抱えて出てきたザハルが、ジェイドに声を掛ける。
「そんな所にいると、お前の分も食っちまうぞ」
ジェイドは不満げに鼻を鳴らし、前足の上に顎を乗せてひと鳴きした。
「フウが気になるのでしょうか」
ザハルは、運んで来たエールの箱を水場に沈める。
冷やしてある箱に残ったエールは、もう数本だ。
その中から1本を取り出し、栓を開ける。
「もう気にしてないだろ。あいつはあそこが定位置なんだよ」
「フウの方がジェイドの所に行きたそうだけどな」
ユアンは、ジェイドのいる屋根の下で寝そべっているフウを見ながら、瓶のままのエールを傾ける。
ネフィに追われてから、フウはずっとルティナのそばを離れなかった。
だが、ジェイドが帰って来てからは、付かず離れずの一定の距離でジェイドの近くにいる。
「フウちゃんは、ぐいぐい来られるのが苦手なのよね。ジェイドくらい放っておいてくれる方が落ち着くのよ」
ようやく冷めた骨付き肉を、ネフィとラウラに1本ずつ渡す。
ラウラは咥えて調理場の屋根に上がり、ネフィはその場で食べ始める。
「わたしがジェイドに持って行ってもいいでしょうか?」
「いいわよ。女の子には甘いから、降りてくると思うわ」
ミリアナから受け取った肉は、ずっしりと重い。
冷ましてあっても、香ばしい炭焼きの匂いがいかにも美味しそうだ。
母屋の下からジェイドを見上げると、彼は身体を起こしてこちらを見る。
「ジェイド、ご飯食べませんか?」
ルティナの足元に寄って来たフウが、一緒になって屋根を見上げる。
ジェイドは動かない。
「下りてこないなら、フウが食っちまってもいいぞ」
ザハルが豪快に笑いながら声を上げる。
気付くと、そこにいる全員がジェイドの行動を興味津々で見ているのだ。
これでは、ジェイドも下りるに下りられないのではないか。
「フウ、これをジェイドのところに持って行ってくれない?」
ジェイドの肉をフウに渡すと、意気揚々と屋根に飛び上がる。
少し離れた場所に上がり、肉を咥えたままジェイドとにらみ合う。
「フウ、頑張れ!」
「フウの分も持って行ったら一緒に食べられるんじゃない?」
「ジェイド! それ受け取らないとご飯ないよ」
眺める全員が、好き勝手に声を上げている。
「フウ、そこに置いて戻っておいで」
ルティナの声に耳だけで反応しているが、フウはじっとジェイドを見つめる。
フウも、よく食べずに我慢しているものだ。
フウにとってもあのお肉はご馳走だ。
ジェイドはひとしきりフウとにらみ合ったあと、ふわりと尾を振った。
フウはゆっくりと近付いて、ジェイドの横に肉を置き、少し離れて座る。
ジェイドはその肉を足の間に置いて食べ始めた。
「はい、これフウのね」
リシェが持って来たフウの肉は、ジェイドのより一回り小さい骨付き肉だ。
「フウ、取りにおいで」
屋根から下りて肉を受け取ると、再び屋根に上がり、ジェイドから離れた所で食べ始めた。
「あの微妙な距離は……心の距離?」
「どうせ喉が渇いて、水飲みに下りてくることになるのにねぇ」
「フウの粘り勝ちか?」
「ジェイドも負けてはないよね。あそこで食べてるし」
「引き分けか」
フウはジェイドの近くにいるし、ジェイドもご飯が食べられた。
彼らにとっては、このくらいの距離が心地よいのだろう。
男同士の距離感は、こういうものかもしれない。
「それにしても、美味しそうなお肉でしたね。フェンたちも果物を貰って嬉しそうでしたし、今日はみんなご馳走ですね」
「このバイソンも美味い! エールにもワインにも合う」
ザハルはすでに酔いが回り始めて上機嫌だ。
「お前らも、飲んでるか? まだまだ酒も肉もあるぞ!」
冷やしたエールを抱えて、兵士たちの方へ行き、地面にどかっと座る。
「このエール、最高ですね。この飲み方をなんで知らなかったのか……」
「そうだろう? 夏はこれがなきゃ始まらん」
「レイラン様たちも、早く教えてくれればいいのに!」
「はははっ! もっと飲め! あと3箱は買い置きがあるぞ!」
ザハルは大雑把に見えて、ちゃんと全員を気にかけている。
「山鳥の燻製も美味いよな」
ユアンがかぶり付いているのは、先ほどまでミリアナが燻していたものだ。
皮がパリッと香ばしく、中の肉はしっとり柔らかい。
しっかりと燻製にしたというよりも、煙の香りを纏わせて焼き上げたような仕上がりだ。
「これ、作ってみたいですね。やっぱり森の家に燻製小屋が欲しいです」
「チーズとかもいいね……茶葉って燻製にはしないのかな」
燻した茶葉は、一度だけ飲んだことがある。
父が貰って来たもので、そのままよりも、ミルクで煮出す方が美味しかった。
「燻した茶葉もありますね。陽が強くなりますから、冬場には身体が温まると思います……試してみたいです……」
「やっぱり、ここはザハルに頼み込んで作ってもらおう」
「でも、リシアまで来てもらうことになってしまうので……」
さすがに気が引ける。
作り方か、仕様書があれば、あちらに戻ってから作れないだろうか。
「お嬢の頼みなら、リシアくらい喜んでいくぞ! まだ何にも返せてないんだ、そのくらいはさせてくれ」
聞こえていたのか、ザハルはユアンの方へ向きを変える。
「他にも欲しい物があれば一緒に作るぞ? 竈、暖炉……家や厩を広くしてもいいな。知り合いの大工も連れていくぞ?」
確かに、厩は新しくしてもいいかもしれない。
家は今のところ困っていないが、燻製小屋を作るなら、外に調理台が欲しくなる。
竈も大きめの物があれば便利かもしれない。
「ユアンやレイランは森に住まないのか?」
「住みたいですが、さすがに難しいですね……」
レイランもユアンの向かいに腰を下ろす。
空になったエールの瓶を、リシェが新しい物と取り替える。
「なんだ、じゃあ森にはお嬢ひとりか?」
「フウが増えましたから、前より賑やかになりますよ」
「うーん、まぁ、フウがいれば安心だろうが……」
ザハルの視線は、ちらりとリシェへ向いた。
「まぁ、まだ時間はあるからな。帰る頃までに必要なものを考えてくれればいい。泊まり込みで作りに行くから、安心して任せてくれ」
それだけ言うと、ザハルは立ち上がってミリアナの方へ歩いて行った。
リシェは、多分ザハルの視線に気付いていた。
それでも何も言わないのは、それが頭にないということだろうか。
ルティナから誘っていいのか。
そもそも、来て欲しいと思っているのはこちらだけかもしれない。
そういう話をするにも、どう切り出せばいいのか分からない。
親子3人で笑う姿を見てしまうと、余計に言葉にするのを迷う。
リシェが何を望むのか。
それが何よりも優先したいことだ。
目の前に、エールの瓶が差し出された。
気付けばコップは空になっている。
「まだ旅は始まったばかりだから、焦らなくていいよ。ゆっくり考えよう」
ユアンは穏やかな声で、諭すように話す。
この場所は心地よい。
ここで暮らす日々は、きっとこの上なく幸せだ。
住み慣れた場所。
家族がいる場所。
思いが詰まった場所を離れるのは、勇気と覚悟がいる。
広い庭から、母屋の方へ、視線を滑らせる。
空は満天の星が瞬き、ちょうど半分になった月がこちらを見下ろす。
この月が満月になる頃には、蒼の季も終わりに近い。
きっとあっという間だ。
月の真下。
母屋の屋根の上で、いつの間にか、フウとジェイドが並んでこちらを眺めていた。
山で迎える朝は、森よりも太陽が元気で、王都よりも鳥の声がした。
母屋の2階にある客間のちょうど真上、屋根の上にフウとジェイドの気配がする。
隣にいることを許してもらってから、フウはジェイドのそばを離れなかった。
ラウラとネフィは庭に建てられた寝床で丸くなっていたが、ジェイドは屋根の上でフウと一緒に休んだようだ。
なんだかんだ、気が合うのかもしれない。
ルティナが動き出すと、必ず目覚めるセラが、今日はまだ寝息を立てている。
ずっと気を張っていたし、昨日はよっぽど疲れたのだろう。
その上、最後までザハルに捕まって飲まされていたのだから、身体が動かないのも無理はない。
身支度をして部屋を出ると、1階ではミリアナが忙しそうに動く音がする。
この人数の朝食を準備するのも大仕事だ。
「おはようございます」
大きな鍋を外に運ぼうとしている彼女は、爽やかな笑顔で振り向いた。
昨日あれだけ飲んでいたのに、お酒の名残はまったく感じない。
獣人はお酒に強いというのも、もしかしたらあるのかもしれない。
「おはよう、早起きねぇ。もっとゆっくりしていても良かったのに」
「朝はあまり寝ていられなくて……お手伝いします」
両手が塞がっているミリアナの前の扉を開ける。
「助かるわ。パン生地は昨日作っておいたから、あとは焼くだけなの。スープはこの大鍋で作りましょう」
外に出ると、清々しい朝陽が降り注ぐ。
山からの風は、少し涼しく感じる。
空が目の前に広がって、目線の下の方にサンカの森が見える。
遥か遠くのカルデラ湖が太陽を受ける。
湖が光を集め、もう一つの太陽のように輝きを放つ。
そこから溢れ出す光が、山を伝って森に注がれる。
森が――光の海のようだった。
陽生の山。
その由来を、今、目にした。
「ここからの景色に一目惚れして、住む場所をここに決めたのよ」
同じ景色を瞳に映すミリアナは、眩しそうに目を細める。
「あら、彼も早いわね。朝起きられるか心配だったけど、さすがだわ」
ミリアナの視線は母屋の方へ向く。
大きく伸びをしながら歩いて来たのは、ヒウブの山と同じ色を纏うユアンだ。
彼は足を止め、その景色を眺める。
「彼はとても大きな人ね。それでいて、とても人らしいわ」
「……はい、いつも助けてもらっています」
ミリアナは鍋を調理台に乗せて、薪に火を入れる。
「彼は……あなたと会って、人になれたのではないかしら。……彼の記憶も、あなたと同じでとても大きいの。あなたたちはとても似ているわ」
「……」
「あまりこういう経験はなかったのだけど、あなたと彼、2人の記憶は見ようとしなくても感じてしまう。ルティナさんも彼に会って、自分を生きられるようになったのではない?」
ユアンに会ってからのことが、頭の中を巡っていく。
彼に会って、自分の世界に人が現れた。
自分の世界に、自分を置けるようになった。
この世界に立っていいのだと、思えるようになった。
「そうかも……しれません……」
「きっと、彼も同じなのよ。暗い世界を光が照らし、遠かった世界に降り立つ。私が見たのは、そんな景色だった。どちらにも、深い孤独を感じたわ」
手を止めずに話す静かな声は、心の深いところを震わせる。
「あなたたちを出会わせたこの世界に……リシェと出会ってくれたあなたに、深く感謝しているの」
彼女から伝わる感情に、抱き締められているようだった。
「本当に、ありがとう」
ミリアナの思いが乗った“ありがとう”は、全身が震えるほど温かかった。
朝食を食べ終わり、後片付けと出発の準備を始める。
ここから先は、馬車で進むのが難しい。
馬車の荷台を預かってもらい、兵士たちも馬で進むことになる。
野営の道具や食料などを積み、極力荷物を減らす。
「ここからドワーフの集落までは馬で進めるが、洞窟の中は徒歩だ。ドワーフたちにはバドゥ爺が連絡してくれてるから、そこで馬は預かってもらえ」
ザハルは馬の準備を手伝いながら、こちらに目を向ける。
「ついて行きたいところだが……店がな……」
心底残念そうな声が漏れる。
ドワーフの採掘現場なら、ザハルだって行きたいに決まっている。
その横で、ジェイドがじっとフウを見つめている。
「父さんは納品があるでしょ」
リシェの言葉に、口をへの字にして黙る姿は、可愛らしい父親だ。
「石が見つかったときに、運ぶのが大変そうね……ラウラだけで大丈夫かしら」
「運びきれなければ、ドワーフたちに頼んで運搬してもらおうと思います」
レイランが、まとめた荷物をリズに乗せようと手を伸ばす。
と、その荷物をジェイドが咥えた。
「おぉ?」
ザハルの目が三角になる。
「お前がついて行ったら、俺はどうやって王都に行くんだよ」
ジェイドはふいっと横を向き、ユアンの足元に荷物を置いて座る。
「持ってくれるのか? でも、まずくないか?」
ジェイドは尾を振り抜いて、ユアンの脚を叩く。
早くしろ、と言っている。
ミリアナはザハルと顔を見合わせ、小さく笑う。
「王都へは、私がネフィと一緒に送るわ。ジェイドが行く気みたいだから、連れて行ってくれる? この子が一緒なら魔獣は近寄って来ないわ」
「ジェイド! ちゃんと守るんだぞ。俺の代わりに行くんだからな」
相変わらず、ふいっと反対を向いてしまう。
どうやら昨日のことを根に持っているようだ。
「助かるよ、ジェイド。よろしくな」
ユアンの言葉に、今度はさっきよりも優しく、尾で足を撫でた。
ザハルは、荷運び用の鞍をジェイドに乗せ、すごい量の荷物を積んでいく。
馬2頭分の荷物を乗せても、彼は気にする様子もなく立ち上がる。
「……すごいですね……」
「鉱石を詰めた箱でも問題なく運べる。左右のバランスだけ取ってやってくれ。ここを外すと荷物だけ下ろせる。魔獣と出くわしたら外してやれば、大抵のやつなら対処する」
「分かりました」
ユアンの影から、フウがジェイドを見つめ、控えめに尾を揺らす。
ジェイドは素知らぬ顔で遠くを見ている。
この子は……ザハルにそっくりだと思った。
不器用だが情に厚い。
今の状況を見て、そうする方がいいと判断したんだろう。
「アーグリンネは、人の言葉が全て分かっているようですね……」
フウもフェンも賢い子だ。
意思も通じるし、考えていることも伝わる。
だが、それはルティナだからという部分も大きい。
「だいたいのことは分かってると思うけど、それは長年一緒に過ごしてきたお陰ね。私の家系は、ずっとネフィの家系と共に暮らしているの。私たちは、世代を重ねて記憶を継いでいく」
素敵だ。
人と一緒に暮らし、共に子を育て、年を重ねていく。
こういう人と魔獣の関係もあるのだ。
「人も、そういうものだと思うの。今わからないことも、一緒に過ごしているうちに、ある日理解できるようになる。でも、人は言葉を話せるから、加減が難しいのよね。汲み取ることを疎かにしたり、言葉に頼り過ぎたり……」
ミリアナの視線はリシェを追いかけて、優しく微笑んだ。
魔獣は言葉を話さない。
だから、汲み取ることだけに集中できる。
言葉は、心を表そうとしても、正しく伝えられる言葉が見つからないことだってある。
言葉は相手を信じて放し、自分を信じて受け取るしかないのかもしれない。
「正解がないから、難しいし迷う。でも、その迷いもきっと、意味があるものとして伝わるし、受け取れるでしょう?」
心のままに。
言葉に心を乗せて放す。
大切な人ほどしたいのに、大切な人ほど難しくなってしまう。
「ありがとうございます。ちゃんと……話します」
ミリアナはルティナの手を取った。
手から伝わる柔らかい感触も、今なら素直に受け取れる気がする。
「気を付けて行って来てね。戻る頃には、昨日仕込んだバイソンの燻製が出来上がってると思うから。またみんなで食べましょう」
リシェに向けていたままの微笑みを受け取り、小さく頷いた。
フェンに跨って、後ろを振り返る。
ミリアナとザハルが手を振り、その横でネフィが尾を振っている。
彼らの向こうで、光が溢れるヒウブの山が、静かに見送っていた。




