蒼の季 向夏-31.母
高い位置から見下ろす静かな視線を感じる。
こんなに掴みにくい気配は初めてだ。
体躯はラウラと変わらないくらいだろうか。
存在感のある尾が、より身体を大きく見せる。
子ヤクモよりも毛色が濃く、顔も長く鋭い印象を受ける。
青白い光を放つ瞳は、月から降る霊素の色に近い。
「綺麗ですね……」
思わず声が出た。
スヴェルフが雄大な自然を思わせる雰囲気なら、ヤクモは神秘的だ。
チノワもそうだったが、主張が薄い。
陰の霊獣だからというのも関係していそうだが、空気に溶け込んでいる。
「野生動物は、立ち姿が美しいですね。景色に馴染む」
その通りだ。
彼らがいて、ここの景色が完成する。
この山の一部として存在している。
きっと、この山の巡りに、彼らは欠かせない存在なのだ。
「あの子が、ジェイドといつもケンカしてる子。多分、群れのリーダーかな。今はその気はなさそうだね」
じっとフウと見つめ合っている。
五尾のヤクモが、ひと鳴きした。
身体の芯に響いたのは、使い込まれた竹笛のような、細く伸びる声だ。
子ヤクモはその声に促されて、山の方へと帰っていく。
光る瞳の余韻を残し、五尾は後ろに振り返る。
大きな尾をゆらりと振ると、見えていたはずの五尾の姿を見失った。
再び気配を追っても、もうヤクモたちは感じ取れない。
「ははっ、すごい……な……」
ユアンは頬を引き上げて、深い息を吐く。
「彼らが敵でなくて良かったですね……こんな力、対応できませんよ」
レイランも、感嘆を込めた苦笑いだ。
ヤクモがいなくなったのを確認して、フウはルティナの元に戻って来た。
屈んでいるルティナの背中から、頭をぐりぐりと押し当てる。
甘えているというより、持て余した感情を溢れさせているようだ。
フェンの足に身体を添わせ、8の字を描くように歩き回る。
かと思えば、ユアンの正面に回って後ろ足だけで立ち上がる。
「楽しかったか? 次はもっと上手く遊べると思うぞ」
ユアンに頭をくしゃくしゃに撫でられて、ぶんぶんと尾を振って言葉に応える。
こんなにはしゃいでいるのを初めて見た気がする。
フウは、ひとしきり発散するように動き回って、ようやく落ち着いたようだ。
ルティナの横にぴたりとついて、尾を巻きつける。
「行きましょうか。通って良いと言ってもらえた気がします」
「そうだな」
ここにはまた遊びに来よう。
スヴェルフにも、フウを連れて会いに行ってみよう。
人と居る時間が長いフウに、素に戻れる時間をもっと作ってあげたい。
この旅は、きっとフウにとっても良い旅になる。
そんな予感がした。
緩やかな登りだった山道が落ち着き、平坦な道に入った。
小さな峠になっているその場所からは、山の景色が見渡せる。
薄茶色一色だった景色に、こんもりとした木々の緑が見える。
この岩山に点在しているいくつかの林は、鳥や動物たちが休むための憩いの場だ。
「案外早く着いたね。我が家だよ」
リシェが林の方を指差す。
道から外れて少し下ったところに、うっすらと煙が上がっている。
リシェの家に続く道は、少し急な下り坂だ。
アベリスの兵士は馬車から降りて、荷台を支えながらゆっくりと進む。
道幅は、馬車がぎりぎり通れるほどだ。
林に入ると、岩山とはまるで違う空気だった。
この林そのものが家の敷地であるかのようで、ルティナたちは馬から降りた。
乾いた風が木々の間を抜けて、やわらかな湿り気を帯びる。
小さな動物や小鳥たちも、ここに集まっているようだ。
地面が柔らかい。
草を踏む感触が、硬い地面に慣れた足を包み込む。
木々が自然の目隠しのように囲う奥に、いくつかの建物が見えた。
林の中の広い広場は、真っ青な空の下にあった。
自然の広場に建てられた家は、ルティナの家の空気と似ている。
周りの景色に馴染んで、この山と共に暮らす家だ。
2階建ての大きな母屋と、広い庭に面した別棟がいくつか建てられている。
1つはアーグリンネたちの寝床だろうか。
手前にあるのは、外用の調理場のように見える。
調理場の脇には、自然の湧水が引かれた水場がある。
そこには、女性の後ろ姿があった。
リシェと同じ焦げ茶色の長い髪をひとつにまとめ、茶色の尾と耳が見える。
「ただいま」
リシェが声を掛けると、その女性は振り向き、にっこりと笑顔を向ける。
「早かったのねぇ。ヤクモは大丈夫だったでしょ?」
おっとりした話し方は、リシェとは似つかない。
でも、その静かな空気は、リシェと同じだった。
「うん。フウとラウラと遊んでた」
「あの子はいた?」
「見に来てたけど、すぐ帰っちゃったよ」
「ジェイドがいなければ何もしてこないのよね」
リシェの母は立ち上がり、ゆっくりとこちらに歩いて来る。
獣人にはあまり会ったことがないが、リンネ族はとても人に近い容姿だ。
耳と尾が無ければ、人と見分けがつかないだろう。
淡い褐色の肌に、アーグリンネと同じ灰色の瞳は、天然石のように澄んでいる。
リシェの肌は母譲り、瞳は父譲りのようだ。
「皆さん、ようこそ。ここまで遠かったでしょう? お迎えできて嬉しいわ。母のミリアナです」
浅くお辞儀をしながら、尾がゆらりと弧を描く。
ラウラが機嫌がいい時と同じ動きだ。
「初めまして……ルティナと申します」
なぜか……とても緊張している。
ミリアナと目が合いそうになって、思わずうつむいてしまった。
「……お会いしたかったわ。ゆっくりお話をしたいけれど、まずは少し休んでからにしましょう」
声と一緒に感じる感触が柔らかい。
慣れないその感触に、身体の奥がむずむずしてしまう。
顔が、上げられない。
「大勢で押しかけてしまって申し訳ありません。お心遣い感謝いたします。ユアンです」
「レイランです。こちらはセラ、身の回りの世話を任せています」
ミリアナは小さく頷いて、それぞれに会釈を返す。
「まずはゆっくり休んで下さい。魔獣たちは庭で自由にさせて構いませんから。馬車を引いている子達も放してあげてね。リシェ、男の方たちは裏の家に案内してあげてくれる? 女性は母屋の客間に泊まってもらいましょう」
リシェは頷いて、母屋の裏へと歩いて行く。
ユアンとレイランはそれに続き、彼らの後ろから、荷物を下ろしていたアベリス兵がついて行く。
セラも荷物を取りに馬車へと行ってしまった。
ミリアナと2人になり、余計に言葉が出て来ない。
身体が硬くなっているのが分かる。
それが何故なのか、自分でもよく分からないのだ。
無言のままうつむいていると、目の前に大きな影が飛び降りた。
身体が跳ね上がり、息が止まる。
その影は、ルティナの周りを回った後、身体を寄せて隣に座った。
ルティナを見上げるのは、ラウラよりも色の淡いアーグリンネだ。
落ち着いた様子も、纏う空気も、ミリアナにそっくりだ。
頭を撫でると、手に吸い付くようなすべすべの毛並みだ。
その感触で、どこかに浮いていた心が戻ってくるような気がした。
大げさに尾を揺らして、安心させようとしているのが伝わって来る。
「ネフィというの。ラウラの母親なのよ」
「優しい子ですね」
屈んで目を合わせると、ネフィはペロッと手を舐める。
少し離れたところにいるフウの視線に気付くと、ネフィはフウの方に歩いて行く。
様子を伺っているフウにすたすたと近付いて、フウの耳をペロッと舐めた。
フウはぴゅっと飛び退き、背中の毛を逆立て身構える。
ネフィはお構いなしに近付いていく。
そこからはネフィの追い込み漁のようだった。
フウが逃げるとすたすたとついて行く。
走ったり飛び付いたりはしないが、ついて行くのを止めない。
フウが屋根に登れば続いて登り、庭に降りれば後を追う。
最終的に、フウはルティナの隣にぴたりと身体を寄せ、離れなくなってしまった。
尾はルティナの身体にキュッと巻き付いている。
「フウちゃんは、押しに弱いのね」
「フウ、ネフィは歓迎してくれてるよ」
きっとフウも分かっている。
あまりにも唐突に距離を詰められて、驚いたのかもしれない。
フウは、普通の魔獣と雰囲気が違うのか、相手から距離を取られることの方が多い。
ネフィは、フェンと同じくらいぐいぐい行くタイプだ。
「ネフィと仲良くなっておけば安心ね。ジェイドはちょっと気難しいところがあるから……何かあっても、ネフィが守ってくれるわ」
ネフィは、調理場の屋根に上がりこちらを見下ろしている。
フウは耳だけをネフィに向けているが、視線には応えようとしない。
今まで見たことがない、フウのおどおどした様子も新鮮だ。
「ルティナさんは、お料理が上手なのでしょう? 今ちょうど、山鳥を燻しているところなの。今日の夕飯を一緒に作ってもらえないかしら……?」
調理場の隣には、小さな石積みの小屋がある。
屋根の隙間から、独特な香りの煙が上がっている。
「燻製を作る小屋でしょうか……」
「火入れもできるし、燻すこともできるの。何かと便利なのよね。大物でも吊るせる大きさだし」
狩りをするなら、鹿や猪なども手に入りそうだ。
一度に食べきれなくても、燻製にしておけば日持ちもする。
保冷棚に頼らずに保存できるなら、買いにくかった肉や魚も、もっと置いておけるようになる。
「いいですね……我が家にも欲しいです……」
「燻し終わったら、中を見てみたら? 気に入ったら、ザハルに頼めば作ってくれると思うわよ」
森の家にぜひ欲しい。
父なら作ってしまいそうだ。
適した石さえ手に入れば、自分で作れるだろうか。
「森の家に欲しいなら、裏庭に作ればいいんじゃないか? 畑の隣なら置けそうじゃないか?」
マントを外して身軽になったユアンたちが戻って来た。
4人はそれぞれ、王都から運んできたお土産を持っている。
「お世話になります。アベリス家の護衛を務めております、ヒュースです」
「同じく、アディオンです。アディとお呼び下さい」
彼らはミリアナの前に、いかにも重そうな箱を積み上げた。
2箱はエールだ。
「どこに運べばよろしいですか?」
残りの2箱は、ワインとシードルがいっぱいに詰められた箱が1つ。
もう1つには、白桃、黄桃、エールに合わせる柑橘類。
布に包まれているのは、珍しいバイソンの塊肉と、アーグリンネ用の骨付き肉だ。
「まぁ……すごいわね……!」
ミリアナの視線は、明らかにワインとシードルの箱に向かっている。
この辺りも、やはり親子だ。
「こんなに重い物を……ありがたく頂戴します。エールは今日飲み切ってしまいそうね。水場で冷やしておきましょう。果物とお酒はあちらの倉庫に。このお肉は……燻しながら焼きましょうか。ルティナさんにやり方を見せてあげるわね」
「森の家に燻製小屋を作るなら、リシアに行ってからも食べられるな」
エールの箱を水場に運びながら、ユアンは燻製小屋をしげしげと眺める。
好き嫌いなく何でも食べる彼だが、燻製は気に入ったようだ。
「何かすることはありませんか? 力仕事でもお手伝い出来ますが」
「男手が多いと頼もしいわね。じゃあ、燻し用の薪を割ってくれる? あっちの小屋に積んであるから」
兵士たちは頷いて、腕まくりをしながら歩いて行く。
「ザハルがじきに帰って来るから、それまではゆっくりしていて。エールでも飲みながら」
ユアンとレイランは顔を見合わせて、まんざらでもない表情を浮かべる。
「ルティナさんとセラさんとリシェは夕飯の準備ね。今日は人数が多いから、作りがいがあるわね」
ミリアナは調理場に火を入れる準備を始める。
広い庭では、フェンたちがのんびりと草を食んでいる。
青かった空は、傾き始めた太陽に照らされ、橙に染まり始めていた。
バイソンの肉は、ルティナの上半身と変わらない大きさだった。
今日食べる分を3分の1ほど切り分け、残りには塩と香辛料を擦り込む。
ルティナが使う森の香草とは違い、香辛料は数種類の木の実を砕いて混ぜ合わせたものだ。
「わたしが使う香草よりも、香りが強いですね……」
「燻す下準備に使うなら、少し強めの方が良いかもしれないわね。あと、保存性も高くなるの」
「なるほど……」
確かに、燻すなら淡い香りでは負けてしまう。
香辛料はあまり詳しくないが、使い分けられるようになれば料理の幅が広がりそうだ。
「香辛料の扱いはリシェも分かるから、興味があったら聞いてみてね。畑があるなら育てられるものもあるから……種を分けてあげるわね」
「嬉しいです!」
森で育てられるなら、余計に燻製小屋が欲しくなる。
この香りなら、普通に料理に使っても良いアクセントになりそうだ。
「このまま一晩寝かせて、塊肉を燻すのは明日ね。こっちの切り分けた方は、鉄板に乗せて香りを纏わせながら焼きましょう。キノコや野菜も一緒に焼けば、肉の脂がそのまま調味料になるわ」
ミリアナは、バイソン肉を鉄板の中央に乗せる。
小さなナイフ一本で、手に持った野菜の皮を剥き、そのまま切り分けていく。
机に置かずに、鉄板の前に立ったままだ。
「かっこいい……」
「ルティナのかっこいいは簡単だね」
リシェは笑いながら、ミリアナと同じようにナイフで切り分けていく。
「これなら、野外でも料理しやすいですね」
「あまり硬い物は無理よ? けがしないように注意してやってみたら?」
ミリアナに渡された小さなナイフは、よく研がれている。
力を入れたら曲がってしまいそうに薄い刃だ。
「こんなに薄くて軽いナイフ……」
「すごく切れるから、気を付けてね。リシェもよく手を切っていたから」
借りたナイフを、見よう見まねで使ってみる。
驚くほど切れる。
根菜の皮も、薄い刃だと滑らせるだけできれいに剥けていく。
力を入れる方向がずれるだけで、身の方に食い込んでしまう。
「難しい……」
「ナイフの方じゃなくて、野菜の方を動かしてみて」
言われるまま、野菜を回すように動かし、刃の角度だけを調整すると上手くいく。
「そうそう、上手ね」
褒められると、背中がむずむずする。
思い返してみれば、こういう日常の中ではあまり褒められた覚えがない。
父はあまり言葉にする方ではなかった。
何も言わないのが、認めているという表現だった気がする。
母親というのは、父親とは感触が違うものなのだ。
もやもやと考えながらナイフを滑らせると、注意されたばかりなのに、あっけなく指先を掠めた。
鋭い刃は容赦なく指先を切り、赤い血が玉のように溢れて来る。
「あら、切っちゃった?」
ミリアナはルティナの手を引いて、水場で洗い流す。
指先からは赤い血が止めどなく流れて来る。
「大丈夫です。このくらいなら、すぐに治りますから」
手を引っ込めようとすると、目の前に光が灯った。
彼女の周りに浮かぶ魔素が、ミリアナに寄り添い、彼女の色に合わせて染まる。
「ちょっと動かないでね」
ミリアナは、身体の巡りを強くする。
ルティナの指先を中心に、山吹色に染まった魔素が遊ぶように舞う。
記憶の力――。
リシェが見せてくれたのと同じ。
連鎖するように、魔素がルティナの身体に寄って来る。
身体の上を飛び跳ねる光の粒が、ルティナの存在を確かめるように動く。
指先の傷が、消えた。
「これでいいわ」
「ありがとう……ございます……」
見ていた全員が呆気に取られている。
ミリアナは、皆の視線を不思議そうに受け止める。
「記憶の力は、知っているんじゃなかったかしら?」
「知っています……が、人には効かないと……」
すぐそばに腰を下ろしていたユアンが、ルティナに駆け寄って指に触れる。
「治ってる……」
ユアンの瞳は震えている。
彼から溢れ出す感情が、ルティナの心に押し寄せる。
「ルティナには……治癒魔法が一切効かないんです。傷も、病も、自己治癒に任せるしか方法がないと……」
瞳の震えが、声を、握った手を、感情までも震わせる。
ユアンの言葉を静かに受け止め、ミリアナは視線を落とした。
「……そうなのね。この力は、普通の人には効かないわ。でも、ルティナさんの記憶はとても深い。彼女にとっては、治癒魔法よりも高い効果があるかもしれない。記憶の力は、術者の技量もだけれど、対象の記憶に強い影響を受けるの」
ミリアナは、淡い笑みを浮かべてリシェを見つめる。
「ルティナさんはきっと、この世界に強く結びついているのね。私でも、ルティナさんの深層には届いていない。何かあったときに助けられるのがこの力なら……リシェはもう少し頑張らないとね」
リシェは、ミリアナの胸に飛び込んだ。
ミリアナはリシェを抱き止めて、そっと頭を撫でる。
リシェから、ユアンから、レイランから。
その場にいる人たちから溢れた空気が、ルティナを包む。
その温かさが心地よい。
「うん。頑張るよ。ずっと一緒にいたいから」
ミリアナの腕の中で零れたリシェの言葉が、ルティナの胸の奥底で、波紋となって響いた――。




