蒼の季 向夏-29.印象
ルティナが朝食の準備を始める水の音で、目が覚める。
もうしばらくすると、いい香りが漂って来るはずだ。
朝に弱い方ではないと思う。
それでも、ルティナはいつも、いつの間にか起きて動き始めている。
朝陽の気配を感じると、目が覚めてしまうそうだ。
その割に、夜早くに寝てしまうわけでもない。
睡眠時間はそれほど長くないはずなのに、疲れた様子も見せない。
彼女は本当に、よく働く人だ。
身支度を整えて、いつもの靴を履きそうになって手を止める。
旅に出るなら、靴を慣らしておいた方が良いかもしれない。
ノルヴァで選んだのは、今回は少し厚手の革のブーツだ。
別々に探していたのに、最終的にルティナと色違いになったのには笑ってしまった。
よく鞣した上質な山羊革は、渋い赤茶色に染められ、履き込むほどに育ってくれそうだ。
作りは丈夫だが、今までのブーツより軽いのも嬉しい。
足を入れるか、悩んでしまう。
当日に下ろしたい気持ちもある。
でも、馴染んでいない靴で歩くのは怖い。
こんなことで悩んでいるのも、なんだか新鮮だ。
1人で肩をすくめ、新しいブーツへ足を入れた。
「お嬢さん! お望み通り、たくさん持って来たぜ!」
簡単なスープでお腹を満たし、片づけを済ませた頃、外から声が聞こえた。
山ほどの食材を積んだ荷車が、離れの前に見える。
引いてきた大柄な男性は、荷物を下ろしながら得意げに笑っている。
いったい何人分の携帯食を作るのか。
「マルコさん、おはようございます。すごい量ですね」
「おうよ! これだけあれば、俺の分もあるか?」
「ふふっ、もちろんです。ちゃんとお届けします」
「今日は日暮れまでいつもの場所で店やってるから、楽しみにしとくよ」
よく通る張りのある声を残して、マルコと呼ばれた男性は荷車を引いて戻って行く。
気持ちのいい人だ。
マルコの背中を見送り、ルティナは積み上がった箱の中を、満足そうに覗き込む。
その向こうでは、セラが大きな机を離れに運び込んでいる。
「ルティナ……今日は……誰に、何を……作るんだっけ?」
箱を抱えたルティナは、笑顔のまま振り向いた。
よほどこの食材が嬉しいらしい。
「旅に持って行く携帯食を作るつもりだったのですが……新種の野菜を使った料理を考えて欲しいと、先ほどのマルコさんに頼まれまして。考えているうちにどんどん増えてしまいました。どうせならたくさん作って、ザハルさんやショウさんにも届けようかと。ミオル様やロイ様にも……ユアン様もレイラン様もあれば召し上がるかもしれませんから……」
「……うん、わかった。頑張る」
積み上がった箱を持ち上げ、ルティナの後を追う。
その後ろ姿は、いつもよりも弾んでいる。
思わず笑いが込み上げる。
ルティナらしい。
ルティナの足元も、昨日買った真新しいブーツだ。
自分のとは違い、生成りに近い自然な色がルティナによく似合っている。
それにしても……この食材を使い切るなら、今日の料理は大仕事になりそうだ。
「何を作る? 携帯食なら……水分の少ないもの?」
2つ並べた机の片方に、ずらりと並んだ食材に目を走らせる。
トマト、きのこ、丸ネギ、黄桃に夏柑、見たことのない不思議な野菜もある。
野菜や果物は、どれも採れたてらしく、瑞々しく艶めいている。
その隣には、大量の麦粉と数種の穀物、木の実、ミルクや卵も用意されている。
ここはルティナ料理店さながらだ。
「長旅ではありませんし……木の実やハーブを練り込んだ平パンと、果実を煮詰めたジャム、クラカンは多めに作りましょうか。当日の朝に、その日食べる分のパンには、具材を挟んで持って行きましょう」
「ジャムはたくさん作っても日持ちするし、届けやすいね。じゃあ、ジャム担当する。クラカンとパンは、ルティナが作ってるのを見ながら覚える」
「セラは平パンをお願いできますか? わたしは頼まれたハナノメの方から始めます」
セラは、この量の食材にも動じる様子がない。
無言で頷きだけ返し、上着を脱いで腕を捲り始めた。
セラが身なりを崩すのを初めて見たかもしれない。
きっとセラも、胸の内では気合いを入れているのだ。
机をいっぱいに使いながら、順調に作業が進む。
パンは竈で、ジャムは大きな鍋で煮詰め始めた。
その隣で野菜を茹でる頃には、離れの中は徐々に熱気が籠り始めていた。
「火の口が足りませんね……」
「何をしたいの?」
「鳥を茹でたいのですが……」
「焼くんじゃだめ? 竈の中に石板入れたら焼けそうだけど」
「なるほど、そうします」
ルティナはすぐさま2枚の石板を竈の端に入れて、鳥を焼き始める。
焼き加減が気になるのか、竈のそばを離れずに何度も覗き込む。
竈の熱に当てられて、色白の頬は真っ赤に火照ってしまっている。
セラの作る平パンも、焼きを待つ生地が増えてきた。
「これでも足りないかも……」
「平パンは本邸の調理場で焼いてもらいましょう。この時間なら、皆のんびりしているでしょうから」
「大丈夫でしょうか? 焼かせていただけるなら、お裾分けしてきて下さいね」
セラが外に出ようとしたところで、慌てて声を掛ける。
「ジャムもお願いできないかな? 大鍋1つ頼めるとすごく助かる」
「かしこまりました。呼んで参ります」
戻って来たセラの後ろには、調理服の男性2人、メイド服の女性2人が並んでいる。
さすがセラだ。人手も増やしてくれた。
「出来上がった生地は調理場の竈で焼いて下さい。生地はここで作りますので」
セラの言葉に頷いたメイドたちは、持って来たトレイに粉を敷いて、手際よく生地を並べていく。
「ジャムは、このまま水分が飛ぶまで煮詰めればよろしいですか?」
「煮詰めの最後に、レモリアの果汁を少し加えていただけますか?」
「かしこまりました。これも本邸の調理場で進めます」
生地と大鍋を持って、メイドたちが戻って行く。
「よろしければ、僕たちは生地作りをお手伝いさせて下さい。作ってみたいです」
「ぜひお願いします」
若い男性2人は、見よう見まねで平パンを作っていく。
さすがに手慣れた様子で、生地のできる速度が一気に3倍ほどになった。
「ルティナ、こんなに作って大丈夫? もうかなりの量だよ?」
「本邸の方にも食べていただけるなら、まだ足りないくらいじゃないでしょうか」
「あははっ、うん、確かにね。どんどん作ろう」
ジャムを作り終え、平パン作りも一段落する頃には、手伝ってくれるアベリス家のメイドは6人に増えていた。
生地作りをしていた2人以外にも、本邸でジャムを煮たり、平パンを焼いてくれた人まで含めれば、アベリス家総出の保存食作りだろう。
「賑わってるから見に来たら、すごいことになってるね」
襟元を緩めた軽装で現れたのは、ユアンとレイランだ。
まだ顔の火照りが収まっていないルティナを見ると、ユアンは愛おしそうに目尻を下げる。
「ルティナ、顔が真っ赤だよ。ちょっと座って涼んだ方が良いんじゃない?」
「確かに、ちょっと熱いです。でも、手伝っていただけたので、たくさん作れました。今日は本邸の皆さんの分もありますから」
「うんうん、ありがとう。皆楽しみにしてたよ」
ユアンのルティナへの接し方は、たまに幼い子を相手にするような空気になる。
大切で、腕の中にしまっておきたくて仕方がないように見える。
そうかと思えば、ルティナになだめられて、子供のように駄々をこねているときもある。
この2人は、色んな意味で、お互いが唯一なのだと思う。
別の人の音が、これだけ綺麗に重なるのを、今まで聞いたことが無い。
「リシェ、ちょっといいか?」
煮詰めたジャムを冷ましていると、真剣な表情のレイランが隣に立つ。
何か言いにくいことのようだ。
レイランが、珍しく重たい音を鳴らしている。
「……明日、王城でアルヴィン様に会って欲しい。リシェの印章を渡すときに、一度会いたいそうだ」
「分かった。どうすればいい? ちゃんとした服とか持ってないけど」
「いつものままでいい。ルティナ様も、いつもと同じ格好で王城に来ているし、気にしなくていい」
「そう。時間は?」
「昼の鐘が鳴る頃に」
「直接王城に行けばいいの? ラウラはだめ?」
「ラウラも一緒で構わないよ。わたしとユアン様が付き添うから、離れまで迎えに来るよ」
「良かった、ありがとう」
レイランは、リシェが鍋を混ぜる手元をじっと見ている。
言葉にしなくても、彼の心は分かってしまう。
「大丈夫。心にないことは言わなくていいんでしょ? それなら、いつも通りだから」
「そうだな。できるだけ、こういう機会は少なくするつもりだ」
「レイランから見て、そのアルヴィン様は、心にないことを口にする人なの?」
「いや、そんな方ではないよ」
「だったら、何の心配をしているの?」
「本当だな……なんだろうな」
「……貴族や王族が嫌なんじゃない。心と言葉が一致しないのが苦手なだけ。その人がとても素敵な人なら、何度だって会いたいよ」
「何度だって……は逆に難しいかも……いや、アルヴィン様なら大丈夫か」
「冗談だけどね」
レイランが冗談を躱せないのは、余裕がないときだ。
それほど、自分の心配をしてくれていると、思っていいのだろうか。
「レイランがいてくれるなら、大丈夫。あなたはいつも、落ち着かせてくれるから」
一度だけ、音が大きく打って、いつもの音に戻る。
表に出さないだけで、彼の感情はとてもまっすぐだ。
「靴……新しくしたんだな」
視線を落としていたのかもしれない。
過剰に心配をさせてしまうのは、頼りなく見えるからだ。
この人たちと一緒にいたい。
だから、ちゃんと自分で立てるようになる。
「うん、昨日ね、ルティナとお揃いだよ」
「良い色だ」
「良い革だよ」
ようやく、レイランと視線が合った。
真っ直ぐに合わせた彼の瞳は、いつもと変わらず優しかった。
昨日と同じはずの王都が、今日は特別に感じた。
ついこの前までは、四家の敷地に入ることすら滅多になかった。
いつの間にかアベリスに出入りするようになり、離れに泊まるようになった。
そして、今。
一生入ることはないと思っていた、王城の廊下を歩いている。
深緑の絨毯は、靴底が沈み込むほど柔らかい。
足音が何重にも包まれて、自分の足音が遠くにある気がする。
たくさん人がいるのに、音が遠い場所。
王城の第一印象は、そんなところだ。
前を歩く2人の方が、緊張しているのではないだろうか。
ユアンは普段より張り詰めている。
昨日落ち着きを取り戻していたレイランも、今日はまた重たい音になっている。
これだけいつもと違うと、そのことばかりが気になってしまう。
今はその方が良いのかもしれない。
突き当たりの扉の前で、2人が足を止めた。
振り向いた顔は、引き締まっていると言えば聞こえはいいが、これはもう引きつっていると言っていいかもしれない。
「2人とも、大丈夫?」
こちらが心配になってしまう。
顔を見合わせた彼らは、上がっていた肩を下ろして、互いに笑った。
「リシェの方が頼もしいな」
ユアンは良い具合にほぐれたようだ。
「わたしは今までで一番緊張しています」
こんなレイランは初めて見る。
そんなに何かやらかしそうに見えるのだろうか。
「ほんとだね。そこまでだと、むしろ面白いよ」
不思議と、もう緊張がどんなものだったかも忘れてしまった。
平常心を通り越して、いつもより冷静だ。
隣にいるラウラは、興味津々に周りを見ている。
尾をゆらゆらと宙に浮かせて、好奇心が前に出ている。
ラウラのこの朗らかさが、この場の空気を柔らかくしてくれる。
レイランが中に声を掛けると、返って来た声が身体を撫でる。
この声で、もう大丈夫だと思った。
アルデニアの風そのものだった。
優しいとか、穏やかだとか、そういう類の感触ではない。
ただ、この風を知っている。
自由に国中を渡る、大きな流れだ。
部屋に入ると、入れ違いに出て行くのは、知っている顔だ。
「おや、リシェさん。珍しいところで会いますね。ああ、今日でしたか」
ふんわりと包むミオルの声は、何度聞いても良い声だ。
「リシェさん、近いうちに鍵を受け取りに行きますね。もう必要なくなると思いますから」
ロイの軽やかな空気は、自然と笑顔にさせてくれる。
「あ、返しに伺います。昨日ルティナと、山ほどパンを焼いたので、それを持って」
「それは楽しみです。しばらくは書庫におりますので」
その言葉に、思わず苦笑いが漏れる。
書庫の整理は、こちらが頼んだようなものだ。
「あれからいくつか資料が見つかったのですが、色々と面白いです。ルティナ殿と一緒に、またゆっくり話を聞かせて下さい」
小さく頷きを返すと、ミオルとロイは部屋から出て行った。
奥に進むと、その人は立ち上がった。
思ったよりも背が高い。
父と変わらないくらいだろうか。
彼の音は、とても弾んでいるようだ。
ラウラが間に入るように、リシェの前に身体を入れる。
警戒しているのかと思ったら、ラウラは目の前の人に興味津々だ。
「呼び立ててすまなかったね。ユアンがあまりにも急ぐから、今日しか時間が取れなかったんだ」
音の通り、奔放な雰囲気の人だ。
ユアンに近いだろうか。
「よく来てくれた。ユアンの兄の、アルヴィンだ」
兄……という言葉が、頭の中をぐるぐると回る。
兄という言葉の意味は、なんだっただろうか。
首を斜めにしたまま、じっとアルヴィンを見つめてしまう。
「……ユアン、伝えてないのか?」
「いや、あれ? 言ってなかった……か?」
おろおろしているのはユアンだ。
ため息を吐き、アルヴィンは呆れたように言葉を続ける。
「今はアベリスを名乗っているが、ユアンはアルデニアの末弟だ。紛らわしくてすまないね。正真正銘、私はユアンの兄だよ」
「……そう、ですか……。お目にかかれて光栄です、リシェイラと申します」
今度は横にいる2人が、驚いたようにこちらを見る。
「リシェ……イラ……?」
首を斜めにしたレイランが、言葉を詰まらせながら問いかける。
「あ、そう。リシェイラ。リシェって呼ばれるけど……」
「そう……なのか」
その場がしんと静まる。
このおかしな沈黙が、やたらと気まずい。
お互いに知らないことが飛び交って、3人とも混乱している。
この場はどうなるのかと思ったら――
やはり、救世主はいつだってラウラだ。
ラウラが、アルヴィンの手をペロッと舐めたのだ。
アルヴィンは、どうにかなってしまうのではと心配になるほど、音が跳ね上がる。
ラウラの前に屈んで、らんらんとした瞳でラウラを見つめる。
得意げにその場でくるりとひと回りしたラウラは、リシェの隣に戻って、お行儀よく座った。
「この子は……初めて見るのだが、とても美しい魔獣だね」
「アーグリンネといいます。北の山に住む魔獣なので、この辺りでは見かけないと思います」
「アーグリンネ……随分大きいが、もしかして騎乗できるか?」
「はい、いつも乗せてもらっています」
「なんと……羨ましい……」
その声は、どこまでも切なく響く。
なんて素直な人だろう。
ラウラは褒められるのが大好きだ。
きっとラウラも、この人を好きになったに違いない。
「ラウラ、傍に行っても良いよ」
ふるりと尾を揺らして、勿体つけるように少し大回りをしてから、アルヴィンの足元に座る。
澄ました顔は、なんとも偉そうだ。
「毛がすべすべだ。オルフェス、なぜアルデニアにいないのだろうか。こんなに美しい魔獣が……」
「気候が合わないわけでもなさそうですが……属性が合わないのかもしれませんね」
「そんなことはないだろう。地属性の魔獣だってアルデニアにはいるのだから」
「ふむ……詳しいことは分かりかねます。ちょうどいい、アベリスの魔獣研究に任せればよいのでは?」
「確かにその通りだ。ユアン、レイラン、頼むぞ」
2人は返事のしようもないだろう。
実際、アルデニアにいるアーグリンネは、我が家にいる3頭だけだと思う。
「あの……アーグリンネは、イグドラに多い魔獣です。野生のアーグリンネは、自分が認めた相手と生涯を共にしますから……まだ主を決めていない子に出会えたら、共に暮らせるかもしれません」
目を輝かせたアルヴィンと、アルヴィンから目を逸らしたオルフェスは、見事に対照的な反応をした。
「イグドラ……か……」
まるで子供だ。
純粋無垢、好奇心が何よりも前に来る。
この人が、今この国をまとめている人だ。
これだけ音が変わるのに、纏う空気は変わらず雄大だ。
アルデニアはきっと、これからどんどん良い国になるだろう。
漠然と、そう思わせる何かを、持っている人。
初めて会ったアルヴィンは、紛れもなく、とても素敵な人だった。
―繋ぎ伝えるもの― 巡了




