蒼の季 向夏-28.旅の前に
料理を運び始めると、リシェはエールの準備を始めた。
「ルティナはどうする? エール? それとも樽酒を飲んでみる?」
並んだ料理を眺めて、最初はエールを頼んだ。
リシェが最高というのなら、ぜひ試してみたいところだ。
「今までの料理とは雰囲気が違うね。香りも……」
ユアンもレイランも、並んだ料理に興味津々だ。
燻製肉の香りは、焚き火の煙を思い出す。
木煙のほろ苦さを纏わせた肉には、独特の野性味を感じる。
「鹿肉の燻製だよ。我が家の定番」
リシェは串焼きを皿に取って、はふっとかぶり付く。
もぐもぐ口を動かし、飲み込んですぐにエールを流し込む。
コップ1杯を一気に飲み干して、幸せそうに息を吐く仕草は、言葉以上に美味しさを伝える。
ルティナもリシェに倣って同じようにかぶり付いた。
口いっぱいに燻製肉の香りが広がる。
脂の乗った鹿肉を噛みしめると、じゅわっと肉汁が溢れてくる。
想像よりずっと柔らかい。
飲み込んでからも、燻製の風味は口の中で強い余韻を残す。
そこにエールを流し込むと、ほどよい炭酸が残った脂をすっきりと消してくれる。
「確かに、エールがぴったりです」
「でしょ? 脂っこい料理もエールだと食べやすくなる」
リシェは顔いっぱいで嬉しさを表している。
自分の家の味を喜んでもらえるのは、嬉しいものだ。
ユアンもレイランも夢中で頬張り、エールを飲み干す。
男性には、このくらい濃い味付けのほうが好まれるかもしれない。
「一緒に刺した野菜にも肉の味が染み込んで、これがまた旨い」
「かなりガツンと来る味だけど、エールがあると進むな」
「このラヴネも濃厚で美味しいです。燻したチーズも初めてですが美味しいですね」
「ラヴネが野菜とも合うのが意外だったよ。これも母さんに作ってあげたい」
初めての味を楽しむうちに、皿の料理はあっという間に消えていく。
品数は多くないが、妙に満足度が高い。
この濃厚な味わいと香りのお陰だろうか。
お腹が落ち着くと、ゆったりと心地良い会話の時間になる。
ルティナはエールから、リシェの母おすすめの樽酒に変えた。
これは、燻したチーズとの相性が抜群だ。
「燻製はイグドラに多いのでしょうか」
燻したチーズを口に運びながら、ルティナはリシェを見る。
「イグドラは冬が永いから、燻製とか発酵させた保存食は多いみたい。今は魔導石が普及したから楽になったけど、昔は大変だったみたいだよ」
「北のウェナ山脈は、夏でも雪が残ってるもんな」
「あの山脈を境に、気候も随分違うみたい。だから寒さに強い獣人が多いんだと思う」
確かに、獣人は人よりも身体の巡りが強い。
過酷な環境でも暮らせるように、順応している種族も多そうだ。
「国によって違う食べ物を調べるのも面白そうです。東の料理も、シノさんに教えていただきたいのですが……」
「シノさん料理上手らしいよ。一緒に行きたい」
「今度お願いしてみましょうか」
旅から戻ったら、お願いに行ってみよう。
梅干しの作り方も、きちんとメモして帰りたい。
会話が途切れると、ユアンが話を切り出した。
「リシェ、ちょっと聞いて欲しい話があるんだ。いいかな?」
リシェは座り直し、耳を傾ける。
ユアンは言葉を選びながら、リシェの負担にならないように気遣いながら話していた。
あまり驚く様子もなく、リシェは静かに聞いていた。
こういう時の彼女は、とても落ち着いている。
話を聞き終わってしばらく考え、リシェは口を開いた。
「それを受けたら、今の生活は変えないといけない? 今まで通り、父さんはあそこで店を続けられる?」
「もちろん。今までと何も変わらないよ。陰陽石を作ることを無理強いするつもりもない。もし協力してくれるならありがたい。でもこれは、アルデニアが国として、君自身と君の技術を守りたいという意思表示だ」
それを聞いて、リシェは肩の力を抜いた。
心配していたのは、自分のことよりもザハルのことだったようだ。
「陰陽石がそれだけ必要なもので、それがこの国に、陰陽の知識と一緒に残ってくれるなら、協力したい。ただ……」
「うん?」
「ルティナと同じ身分ってことは……王城に行くことも……ある……?」
言葉を途切れさせながら言った彼女は、表情を曇らせている。
ユアンはその意図を測ろうとしているのか、リシェを見つめている。
「嫌なのか?」
横からレイランが端的な言葉を投げる。
レイランは、リシェに対してまっすぐに言葉を使う。
ルティナにこういう話し方をすることはほぼ無いだろう。
ルティナは何故か、これにほっとした。
リシェにとっては、この方がきっと話しやすい。
「嫌……というか、苦手。うちの店は、貴族の人の依頼を受けることも多い。父さんの技術って、アルデニアよりも他国の方が高く評価されるから。そういう人たちと接していると、思っていることと違うことを言われたり、言わなきゃいけなかったりする。心にない言葉は、嫌なの」
「相手のことはどうにもならないから、言われることはあるかもしれないけど、リシェは言わなくていい。心にあることだけ伝えればいい」
レイランの言葉には、一切の迷いがない。
心のまま、澄んだ本心だ。
「でも……それで相手を不快にさせたりしない?」
「させればいいんじゃないか? 心にない言葉を使わなければいけない相手には、嫌われたってどう思われたっていいだろ」
あまりにも明瞭だ。
もう少し言葉を選んだほうが良いのではないかと、ルティナが思うほどだ。
でも、リシェがそれを気にしないのも分かる。
レイランの鋭い言葉とは裏腹に、彼から感じる感情はとても優しい。
きっと、感じる音も、とても優しく響いているのだ。
「一緒に仕事をする相手かもしれないでしょ」
「リシェ、相手は選んでいいんだ。今までよりもたくさんの人と接することになる中で、全ての人とうまく付き合うのは難しい。でも、国の仕事だろうと、相手が貴族だろうと、リシェが対応を変える必要はないよ。君の本心からの言葉なら、そのまま伝えて構わない。不快にさせるのが嫌なのか? それとも、嫌われるのを避けたい?」
「どっちもだけど、自分の心にないことを言う方が、嫌」
「うん、だったら言わなくていい。相手が不快になろうと、嫌われようと、それは仕方ない。全部が思う様にならないなら、一番大切なものを守るしかない」
リシェは、相手の心の音を感じ取ってしまう。
自分の耳のこともあって、人から向けられる不快感に敏感なのだろう。
その気持ちは、ルティナにもよく分かる。
ユアンは、レイランの言葉を補うように、柔らかな声で続けた。
「リシェ、相手の心を思うのと同じように、自分の心も守っていいんだ。相手を不快にさせないために言った言葉で自分が傷つくなら、傷付かないように守っていい。相手と同じだけ、自分を思っていい。それを許すくらいには、俺はリシェを知っているつもりだよ。だから、この話を受けて欲しいと思ってる」
うつむいていたリシェは、顔を上げてユアンを見る。
その表情は、とても穏やかだ。
「うん、わかった。それなら大丈夫」
リシェから溢れる感情からは、迷いがなくなっていた。
「それにしてもさ……レイラン、お前……そんなに言葉選び下手だった?」
「は? そうでしたか?」
「言いたいことは分かるし、間違ってはないけど……もう少し言い方を考えた方が良い」
「……リシェ、気になったか?」
レイラン自身、まったく自覚がなかったようだ。
それも、なんだか面白い。
彼は出会ってからずっと、完璧な人だった。
礼儀正しく丁寧で、物腰も柔らかく、常に冷静で、判断も的確。
そんな彼が、リシェに対してだけ、何かが抜け落ちている。
「ん? ううん、レイランはいつも、こんな感じだから」
当のリシェは、これをあまり気にしていないから、余計に歯止めが効かないのだ。
「……いつもこんなに剥き出しの言葉で話してるの?」
ユアンは呆れたようにため息を吐く。
今回ばかりは、レイランをかばう言葉が見つからない。
「剥き出しの……あまり意識したことがありませんでした……」
反省しているというより、レイランは真剣に考えている。
それを見て、リシェが小さく笑う。
「ユアン様、レイランの音は、ずっと……誰よりも優しい音だから。大丈夫」
その言葉に、ユアンと顔を見合わせる。
リシェは目を閉じて、音を追いかけるように、耳を澄ます。
その横顔は穏やかで、ただ美しかった。
彼女はレイランの心の音を、ずっと信じている。
そんな彼女の姿を見て、レイランが耳まで真っ赤になったのを、リシェにも見せてあげたかった。
朝の澄んだ空気の中、薬草と向き合うのは久しぶりだ。
採取に出掛ける機会が少ない王都では、調合に使う薬草がなかなか手に入らない。
旅に出るなら、薬や香は持って行きたい。
手元にある薬草で作れる分だけでも、あれば安心だ。
何より、山を抜けて進むのなら、現地で採取できるかもしれない。
知らない植物や、森に育つ植物の亜種に出会える可能性だってある。
薬草師なら、気持ちが逸って当然だ。
頭の中で想像が膨らみそうになるのを抑えて、作った薬と香を丁寧に紙で包む。
採取道具の整理をしながら、旅に持って行く物を仕分けていく。
荷物はできるだけ減らしたい。
一番小さな採取鞄に入る分だけの道具を吟味し、旅の荷物とまとめておく。
着替え、外套、携帯食は、明日に多めに作るとして……
気になっているのは靴だ。
森歩き用の軽いブーツと、普段履いている布の靴しかない。
岩場を歩くなら、靴底が厚く滑りにくいブーツを用意した方が良いかもしれない。
起きてきたリシェと簡単な朝食を済ませると、朝の鐘が聞こえてくる。
鐘の音も澄んだ音になった。
空気が乾いて、響く音色にも透明感が増している。
「今日はどうしますか?」
リシェは湯呑みを両手で包み、温かいお茶で和んでいる。
食後にお茶を飲むのも、随分馴染んでくれたようだ。
「旅の準備しなきゃだね。ルティナは何か必要な物ある?」
「靴を……探した方が良いのではないかと思うのですが……」
リシェが、ルティナの足元に目を向けた。
今履いているのは、街歩き用の軽い布の靴だ。
夏用に通気性が良い素材で、脱ぎ履きしやすいように紐も付いていない。
「その靴、涼しそう……欲しい……」
心底羨ましそうな声を出した。
アルデニアでは革靴がほとんどのようで、確かに夏場は蒸れてしまいそうだ。
「作りましょうか? 森で採れる材料で作っているので」
「手作りなの!?」
「はい、父が何でも作る人で……」
「すごい……でも、欲しい」
「じゃあ、材料が揃ったら……作り……ます」
作るという自分の言葉が、自分に刺さる。
この付近の森では手に入らない材料だ。
リシェに渡せるとしたら、リシアに戻ってからだろう。
「うん……楽しみにしてるね。ルティナ、確かブーツも履いてたよね?」
リシェが何事もなかったように話題を変える。
いちいち引っかかってしまう自分を恨めしく思いながら、ルティナは部屋にブーツを取りに行く。
「森歩き用のブーツはあるのですが、かなり軽くて柔らかい革のブーツで。岩場や山歩きには、少し心許ないと思うんです」
「そうだね……足首がしっかり固定できて、靴底も厚みがあって滑りにくい方が安心かも。新調するならノルヴァが良いよ。種類も豊富だし、何より良い物を扱ってるから。見に行くなら付き合おうか?」
「お願いできますか?」
「昼の鐘の頃にノルヴァで待ち合わせよう。一度店に行って、昨日の話をしてくる。さすがの父さんも驚くと思うし」
それはそうだ。
昨日ドワーフの洞窟で宴会して、今日突然この話をとなれば誰だって驚く。
リシェは笑っている。
不意に、胸の奥から浮かび上がってくるのを感じる。
言葉にしないまま沈めて、見ないふりをしてきたものだ。
「……わたしは、アルデニアの人たちに出会って、世界の見え方が変わりました。リシェに出会えたことにも、とても感謝しています」
この国にお返しがしたい。心からそう思っている。
でも、リシェを巻き込んでしまったという思いも、ないとは言い切れない。
「同じことを、ルティナに対して思ってる。あなたに会って、世界が変わった。ここにいるのは、自分で選んだから。自分の意思で、あなたと一緒に居たいと思ってる。それだけは、絶対に知っていて欲しい」
リシェには、全部伝わってしまう。
それは、受け取ることを躊躇っていないからだ。
言葉にするのを躊躇ったのに、彼女はちゃんと言葉にして伝えてくれる。
「わたしも、リシェと一緒に、居たいです」
「一緒に、リシアに行っちゃおうかと思うくらい」
冗談めかして笑い、リシェは視線を湯呑みに戻した。
微かに滲んだ寂しさは、ルティナの心にしっかりと届いた。
午後の鐘に合わせて、ノルヴァへ向かう。
市場は、ちょうど昼時というのもあって、昼食を買いに来た人たちで賑わっている。
昼時は、食べ物を売る屋台が盛況だ。
匂いが広がる食べ物を売っている屋台は、どの店も人が並んでいる。
人を避けながら歩いて行くと、大きく手を上げながら声を張り上げる店主が目に入る。
ひと際鮮やかで、瑞々しい野菜には覚えがある。
荷車の横でこちらに呼びかけているのは、以前トマトを買った店の店主だ。
今日も相変わらず、美味しそうな野菜を荷車いっぱいに並べている。
「よう、お嬢さん! 覚えてるかい? 前にトマトを買ってもらったんだが」
はつらつとした店主は、手に真っ赤なトマトを持って顔の横に並べてみせる。
その笑顔は、トマトと並んでも違和感がないほど瓜二つだ。
思わず笑うと、店主は陽気に話し続ける。
「こんにちは。あのトマト、濃厚で甘みがあって、とても美味しかったです」
「そうかい! そりゃ良かった。ハナノメはどうだった?」
「あれも好評でした。あまり火を通しすぎると崩れてしまうので、別で茹でて最後に入れる方が良さそうでした。蕾の間に出汁が染み込むので、スープ物とは相性が良いと思います」
「なるほど。火の通りも早いもんな……。他に何か食べ方浮かぶかい?」
味にクセもないし、大きさも調整できる。
何にでも合うと思うが、それでは参考にならないだろう。
「そうですね……これから暑くなりますし、冷やしたサラダは食べやすいと思います。塩茹でして、鳥肉を茹でて割いたものを加えて、ハーブ油で和えたり。チーズを加えてもコクが出て良いと思います。それを具材にして、パンに挟んでも良いかもしれませんね」
「……お嬢さん、それ、美味そうだな……」
ちらりとこちらに向いた顔には、食べてみたいと書いてある。
店主ははっとして目を逸らしたが、もうしっかり見てしまった。
「明日……まとめて携帯用の保存食を作るつもりなので、ついでに作って持って来ましょうか?」
「良いのか!? 保存食って何作るんだ? うちで用意できるものがあったら、明日届けるよ! もちろんサービスで!」
「そうですね……ハナノメと合わせるなら、きのこと丸ネギ、食感の楽しい木の実も良いかもしれません。日持ちするジャムも作りたいので、おすすめの果物は何かありますか?」
「今なら出始めの柑橘と、黄桃もいいな。定番のベリーもあるが、黄桃の方が絶対美味い」
「それを練り込んでパンを焼くのもいいですね」
「じゃあ、麦粉も持ってくよ! 知り合いから安く買える。木の実もうちで準備できるよ。適当に見繕って朝一で届けるから、場所を教えてくれ」
後ろに控えていたセラが、すっと前に進み出た。
「アベリス家の門から入り、離れに届け物だと伝えて下さい。失礼ですが、お名前だけ先にお伺いできますか?」
「アベリス……?! そ、そうかい。ああ、俺はマルコだ」
表情豊かなマルコは、目を白黒させながら苦笑いだ。
「わたしはルティナと言います。野菜と果物、よろしくお願いします。代金はきちんとお支払いしますので、多めにお願いします」
「わかった! 朝の鐘が鳴る頃に届ける。お嬢さん、ありがとな」
手を振るマルコにお辞儀を返し、店を後にする。
明日の料理は、半日はかかる大仕事になりそうだ。
どうせなら、多めに作って、ミオルやエデュードにも届けよう。
大量に料理を作るのは、良い気分転換になる。
リシェと一緒なら、面白い料理も思いつきそうだ。
明日のことを考えながら歩いて行くと、ノルヴァの前に立つリシェの姿が見えた。
気付いて手を振るリシェが、笑顔を向ける。
「お待たせしました」
「大丈夫」
さっきよりも、随分とすっきりした空気だ。
ザハルと話をして、吹っ切れたのかもしれない。
「行きましょうか」
「うん。自分のも買って来いって、父さんに言われた。新しい靴は、旅立ちに縁起がいいって」
旅立ち。
リシェにとって、この旅が始まりになる。
それはきっと、自分も同じだ。
そう思うと、ほんの少し背筋が伸びる。
リシェと2人、旅立ちの靴を選ぶ。
ただそれだけの時間が、いつか特別な思い出になる気がした。




