蒼の季 向夏-27.北の地
「ユアン様、ご相談したいことがあるのですが……」
エイダの隣に座ったユアンは、用意した冷茶を一気に飲み干した。
離れに人が集まると、机の大きさも椅子の数もギリギリだ。
今までは感じなかったが、リシェがここで過ごし始めるなら……考えた方が良さそうだ。
「どうしたの?」
ユアンはようやく落ち着いたようで、いつもの空気に戻っていた。
ルティナは、書庫でのことを詳しく話した。
ユアンとレイランは、さすがに予想外だったようで、目を丸くしながら頷く。
「600年前に、霊素の概念がアルデニアにあったのか……」
「ミオル様のおっしゃることも納得できますね。ルティナ様のような人が、以前にもこの国に……」
「それでも、現在には伝わっていないんだな」
これについて寂しさを覚えるのは、皆同じだ。
「……伝わっていないのではなく、伝えられなかったのでは?」
エイダの声は、相変わらず平温に響く。
「人は、この世界では短命種です。知識や概念を根付かせようとするとき、それは大きな壁になる。知識を持った当人がいなくなった後、十数年経ってしまえば、残された資料を読んでも理解できる人は既におらず、見ることも感じることもできないものは、存在を認めることすら難しくなる」
彼の言うことは、ルティナも思ったことだった。
リュサールの編纂者は、きっと書き残すことで伝わると思ったのだと思う。
でも、本という伝え方は受動的だ。
読まれないまま、いつの間にか存在すら忘れられてしまった。
「リシェと話していたのですが……記憶の力というのは、その種の根源に近い部分に触れる感覚なのだそうです。彼女曰く、人はとても純粋で、まっさらな生き物なのではないかと。わたしは、人は忘れることで、この世界では稀な中庸の種を保っている。そんなことを思いました……」
人がこの世界の巡りの一部なら、中庸の種を保つことが、この世界に必要ということかもしれない。
「もしかしたら……ずっと昔から、人は何度も霊素を知っているのかもしれないね」
「根付かせるなら、教育に組み込むのが一番かもしれません」
レイランは机に視線を落とし、声を強くした。
彼は、知識が失われること、人に届かないことに、もどかしさを感じる人だ。
「果たしてそれが必要か、というのもあります。それを必要だと感じられるか、と言った方がいいかもしれませんが。この国の教育は、人がこの国で生きるために必要な知識や技術を、最低限学ぶための仕組みです。そこに並列に置く内容か、必要があるのか」
「都下に広がった不調などは、人の暮らしや命に繋がる問題です。必要だと思います」
「知識が要らないと言っているのではありません。本当に教育が最善であるかということです。広め、根付かせるのは時間がかかるものです。まずは、今ある知識と概念を残すこと。本では繋がらなかった、それは人が手に取らなかったからです。専門の研究室を立ち上げ、人から人へ直接繋いでいくという仕組みを作るのが、現実的な方法ではないですか」
エイダから、愁いを感じた。
彼は人というものを、深く理解しているのかもしれない。
もしかしたら、彼はそう思わざるを得ない出来事を経験したのではないか。
エイダに感じた愁いと同じものを、父から感じたことがある。
“人はすぐに、忘れてしまう”
この言葉を言った父は、遠い目をしていた。
350年生きた末に感じた愁いだ。
エイダは、どんな時を歩み、何を見てきたのか。
人には限界がある。
思いも、記憶も、それは確かに存在した。
それでも失われた。
それなら、補うための仕組みを作る。
それが――彼の思いなのかもしれない。
レイランは顔を上げ、エイダと目を合わせ、力強く頷いた。
「昨夜その本を書庫で見つけ、先ほどリシェと一緒にバドゥ様に会いに行ってきました。手に入る可能性がある洞窟が、少し遠い所にあるのです。ドワーフでは見分けがつかないから、確実に手に入れたいなら行った方が良いと言われました……」
「俺とルティナ、リシェも分かるか……。それはどこなのか分かる?」
「北にあるアズラム山の麓だそうです。ドワーフが拠点を作っているから、洞窟内は案内できると言っていただけました」
「アズラム山か……」
ユアンは、考えるように腕を組む。
「片道で2日くらいか」
「リシェの家から丸1日だと……ザハルさんは、家で一泊して早朝に出発すれば夜には着けると言っていました」
「それはありがたいけど……往復で、余裕を持って5日は必要かな……」
「やはり、難しいでしょうか……」
ユアンは黙ったまま考え込んでしまった。
彼自身がそこに行くことが許されるとは思えない。
ユアンは過保護なほど心配してくれる。
行かせてくれるとしても、5日というのは彼の許容範囲なのだろうか。
「……リシェも、ラウラと一緒について来てくれるそうですし、フウもいますから……わたしでも……行けるのではと……」
「リシェも行くのですか?」
レイランは驚いてこちらを向く。
「はい、もともとは、リシェの採掘について行きたいという話から始まったので」
「……なる、ほど」
「リシェがいれば、採掘の心配はありませんし、ドワーフも協力してくれるとのことでしたので……わたしたちだけでも、きっと……大丈夫……です」
黙っていたユアンが、ふと顔を上げた。
「え? 何で?」
「え?」
「ルティナたちだけを行かせるわけないだろ? 俺だって母晶見たいし。ちょうど兄上とも陰陽石の話をしてきたところだから、ちょうどいいよ」
さも当然のように言うが、ユアンが行くとなると色々大ごとになるのではないか。
同行する護衛や、日程調整も大変そうだ。
この忙しい時に、こんなことを頼むのを躊躇ってしまう。
「大丈夫なのですか……? お忙しいのでは?」
「うーん……出発まで、数日準備の時間を貰ってもいいかな? なんとかするから」
“なんとかする”という言葉が胸に刺さる。
リシアの準備の上に、陰陽石のことまで積み上がっているのだ。
きっと無理をさせてしまう。
「ユアン様の負担になるのなら、ドワーフに依頼しても……」
「出発は3日後、予定は調整いたします」
エイダの声が、ぴしゃりと響いた。
「3日で足りる? それまでに、兄上にリシェを会わせて、諸々の手続きを済ませたいと思ってるんだけど」
「諸々の手続きとは?」
「ああそうか、兄上に呼ばれてたのはそのことなんだ。兄上は、リシェにもルティナと同じように、個人として国が保証する身分を持ってもらいたいと言っているんだ」
身分……?
頭の中に、ユアンの言葉が留まる。
「わたしは……身分があるのですか?」
「そうだよ? 印章を貰っただろう? あの印章は、俺たちと変わらない権限を持つ身分証だよ。個人が渡されるのは前例がなかったみたいだけど」
「え?」
ユアンと変わらない身分とは、一体どういうことなのか。
書庫に出入りできる鍵くらいのものだとばかり思っていた。
「そう、です……か」
知らぬ間に、大変なものを受け取っていた。
いや、あの時でさえ、大変なものだと思っていた。
それどころではなかった。
「まぁ、あまり気にしなくていいんじゃない? 今までと変わらず過ごしていればいいよ。……それと同じ身分をリシェにもと、兄上は考えている」
それも大きな話だ。
陰陽石はこれからとても大きな意味を持つものだろう。
リシェの技術がなければ作れないというのも事実だ。
それを踏まえても、話の進みが早過ぎる気がする。
「兄上は、陰陽石が石だということを重く捉えている。正しく使えば、それはこの国を今後数百年と助けてくれる物になり得る。さっきの話とも繋がるね、知識を残すことが前提になるから、それを人が繋げていく研究室を立ち上げることも一緒に考えたい」
確かにそうだ。
調律や響律は、ルティナとユアンがいなくなればできなくなる。
だが、人がいなくなっても、石はずっとそこに残り続ける。
今だけではなく、未来のアルデニアを守ってくれるものだ。
「アルヴィン様の英断ですね。研究室の在り方については、ユアン様が出掛けている間に私が考えておきます。おそらく、リシアに置くことになるでしょうから」
「やっぱりそうなるか?」
「王都に置いたとして、誰がそれを進めるのですか?」
「だよね……」
ユアンとエイダは、噛み合わないようで、実はとても噛み合っている。
ユアンの思考は、誰かと語らうことで巡っていく。
頭に籠り、1人で深く潜っていくルティナとは正反対だ。
「そうすると……リシェにもリシアに来て欲しくなるんだよな……」
ぼそっとこぼしたユアンの呟きに、心が疼いた。
リシェがそれを望むかどうか。
望むなら、きっと現実になる。
「でも、この話は国としての勝手な願いだ。リシェの気持ちが最優先であることに、何も変わりないよ」
アルデニアは、人の意思を考えてくれる国だ。
リシェが選ぶことができるなら安心だ。
3人が明日以降のことを話すのを、ぼんやりと眺めていた。
まだ、実感が湧かない。
母晶を探しに行きたいと思った。
でも、実際に行けるとはあまり思っていなかったのかもしれない。
目に入った窓の外は、すでに陽が傾き始めている。
リシェがそろそろ戻って来る頃だろうか。
「じゃあ、3日後に出発するつもりで準備しよう」
「私はイアムに伝えてから、アルヴィン様と話を進めます。明日は同じ時間に執務室でよろしいですか?」
「ああ、よろしく」
エイダはこちらに視線を向けて、美しくお辞儀をし、帰って行った。
ユアンはその後ろ姿を見送り、こちらに振り向いた表情は嬉しそうだ。
「エイダとすっかり打ち解けてたね」
「言葉が分かりやすく、とても話しやすい方でした」
「多分、そう思うのはルティナだけだと思うよ……」
そう言いながら、ユアンは上機嫌だ。
彼がエイダを慕っているのが、話している様子から伝わって来た。
信頼しているのはもちろんだが、単純に彼の人となりが好きなのだろう。
「リシェに話をしたいんだけど、もう店にはいないかな?」
「もうすぐここに来ると思います。リシェはしばらく、ここに泊まることになりました」
「そうなの? じゃあ、ここでさっきの話をしても構わない?」
「もちろんです。夕食もご用意してよろしいですか?」
2人は同時に頷き、目を輝かせた。
きっと、今日からはそれが日常になる予感がした。
今日は何を作ろうか……。
2人が着替えに戻ってすぐに、ラウラの足音が聞こえた。
ラウラに乗せられた荷物は、一人分とは思えないほどの量だった。
「すごい……荷物ですね」
リシェは気まずそうに笑い、手際よく荷物を下ろしていく。
「母さんがね、あれもこれもって色々持って来ちゃって……ルティナに会えるのを楽しみにしてたよ」
「わたしも楽しみなので、嬉しいです」
ラウラには、お酒や食べ物、ラウラのご飯、フウとフェンへのお土産までが、一つの箱に詰め込まれていた。
これだけの荷物を運べるラウラは、相当な力持ちだ。
「強いお酒が好きなら、絶対これも好きだって……母さんが飲む樽酒の小さいやつ。エールも持たされそうになって、それは置いてきた」
「ふふっ、今日はこれを飲みます。ユアン様とレイラン様も後から来ます。リシェに話したいことがあるそうです」
「そうなんだ。何作る? 食材も結構持たされたから、使えるのがあったら良いんだけど……」
リシェは箱を抱えて火床へ向かう。
残された大きめの鞄を持つと、それは意外なほど軽い。
これだけがリシェ自身の荷物なのだと思うと、それはそれでリシェらしい。
ルティナはその鞄を両手で抱えて、リシェの後を追った。
箱の中には、アルデニアではあまり見ない、燻製にした食材が入っていた。
鹿肉や兎肉、チーズも燻してある。
布に包まれているのは、発酵乳を水切りしたものだろうか。
見たことがない瓶詰めの調味料もある。
「初めて見る物ばかりで……どれも面白そうです……」
知らない食材が目の前にあるだけで、どんどん想像が膨らむ。
燻製や発酵させた物が多いということは、保存食の文化が強い。
「燻製の肉は塩気が強いから、これだけでもしっかり味が出るよ。スープに入れたり、刻んで炒め物に入れたり、厚切りにして炙るだけでもエールには最高」
「じゃあ、燻製の鹿肉を、野菜と一緒に串に刺して炙りましょう。あと、これはリシェが言っていたラヴネですよね? これをサラダにしてみます」
リシェは興味津々な顔だ。
発酵乳なら、生の野菜と合わせてハーブオイルで和えるだけでも、きっと美味しくなる。
「美味しそう。うちの食材をルティナが使うだけで、新しい料理になるね」
2人で準備をすると、夕食の支度も捗る。
リシェは、肉の表面を薄くそぎ落としてから角切りにしていく。
ルティナが切った根菜やきのこを間に挟み、ひょいひょいとリズムよく串に刺していく。
肉の焼き加減をリシェに任せて、ルティナはサラダに取りかかる。
ひと口サイズに切った夏瓜とトマトは、軽く塩を振って素焼きにする。
水分と青臭さがほどよく抜けて、しっとりと美味しくなる。
瑞々しい葉物野菜は、食べやすい大きさに手で千切る。
水分が抜けた素焼きの野菜とラヴネ、細かく刻んだ燻製チーズも使ってみよう。
保冷棚で冷やしておけば、食べる時にハーブ油で和えるだけだ。
「夜ここに来ると、いつもいい匂いがするね」
楽な服に着替えた2人は、何やら荷物を抱えて入って来た。
レイランが抱えているのは、紛れもなくエールの箱だ。
ユアンの持つ籠には、ふっくらとした大きな白桃が積まれている。
「見事な白桃……!」
「エール!」
同時に出た言葉は、リシェとは違っている。
顔を見合わせて、ひとしきり笑ったのは言うまでもない。
「リシェのエール好きは相当だな」
笑いが止まらないレイランは、箱を保冷棚まで運び、中へ詰めていく。
リシェは串焼きを返しながら、不満げだ。
「レイランだって飲むでしょ。燻製ディアはエールに最高だよ」
「いい匂いはこれか。エールを持って来て正解だったな」
笑いあっている2人の姿は微笑ましい。
白桃の籠を受け取ると、すでに食べ頃の甘い香りが漂っている。
胸いっぱいに吸い込みたくなる、大好きな香りだ。
「ははっ、白桃が好きなんだね?」
よっぽど嬉しそうな顔だったのか、ユアンは察したようだ。
「実は……大好きです。果物で一番好きかもしれません」
「そうなの? もっと早く言ってくれればたくさん届けたのに」
「なかなか見かけないものなので……」
「まだ市場には少ないかもしれないね。でも、来年からは増えると思うよ。ウィランのお陰で、王都でも育てやすくなったみたいだから」
「そうなのですか!?」
ウィランの農業魔法の研究に、心から感謝を送りたい。
新しく構築される魔法の中でも、運用できるようになるのはとても少ないそうだ。
誰よりも魔法と向き合い続けている彼だからこそ、こうやっていくつもの魔法を形に出来るのだ。
ウィランの研究にかける熱量と、向き合う姿勢は見習いたいと思うところだ。
「色々、根付いているのですね」
「実感するのはこれからだよ。ようやく動き出して、これからどんどん目に見える形になっていく。ルティナが王都を離れる前に、いくつかは君に見せたいって、みんな張り切っているからね」
その言葉は、じんわりと胸に響く。
そんな風に思ってくれるとは、夢にも思っていなかった。
彼ららしい。
彼らの思いが嬉しい。
「そうだ、ラクサールにも新しい発見があったんだよ」
「貯水湖の……ラクサールですか?」
「うん。土に潜る時にさ、土を柔らかくして身体を沈みこませていただろ? その土が、どうやらとても肥えているらしい。あの辺りの植物がよく育つのは、ラクサールの影響もあるみたいでね。それを役立てられないか、家畜として飼うことは出来ないかって、アベリスで検討中だよ」
自分の知らないところでも、こうやって新しいことを見つけていく。
王都に来て、持ちきれないほどたくさんのものを受け取った。
それに見合う何かを、きちんと返せているか、考えてばかりだった。
自分の持つ知識や感覚は、種のようなものかもしれない。
それは知らないうちに芽吹き、枝葉を伸ばし始めている。
それがいつか、想像もつかないほど大きく育つとしたら。
少しは彼らの役に立てていると、思って良いだろうか。




