蒼の季 向夏-26.お茶の時間
眼前に広がる平原は、強くなった太陽を受け止める。
地面を埋める陽の霊素は、黄金色の海のように大地を輝かせる。
山から吹き下ろす風が、湿った空気を追いやったようだ。
あれだけ強かった湿気はどこかへ行き、夏前の穏やかな昼下がりだ。
季節の変わり目に吹く風は、平原の色を変えていく。
王都の門の前で、リシェと別れた。
離れに滞在するための荷物を取りに、ラウラと共に家に戻って行った。
リシェは、いい具合に酔いが回ったザハルに、しばらく離れに泊まることを伝えていた。
二つ返事で頷いていたザハルだが、ちゃんと記憶が残っているかは定かではない。
王都にいるのだから問題ないと、リシェはお構いなしだ。
少しばかり気が引けたが、何か差し入れを持って、後日改めて会いに行くことにした。
「セラ、ユアン様は……今日は執務室でしょうか?」
フェンの鞍を外しながら、セラに問いかける。
「はっきりと聞いておりませんが、王城かもしれません。アルヴィン様に呼ばれているような話をしておられましたから。確認して参りましょうか?」
リシェのことだろうか。
陰陽石があれば、ルティナやユアンが王都を離れたとしても、小さなものなら対処できる可能性がある。
霊素が見えなくても、魔素が無いことで霊素の存在は認識できるだろう。
問題は、どうやって陰と陽を判断するか。
一番分かりやすいのは、温度だろうか。
陰陽石を使うところまで話が進むなら、判断する方法をきちんと整理しておいた方が良いかもしれない。
本来なら、霊素が視えるルティナとユアンは、別々の場所にいた方が良いはずなのだ。
それを、こちらの意を汲んで、一緒に過ごせるようにしてくれた。
王都を離れる前に、少しでも安心できる物を、残していきたい。
「できるだけ早くユアン様にご相談したいので、お願いできますか?」
「かしこまりました。こちらでお待ち下さい」
セラは、急ぎ足で本邸へ向かった。
火床の椅子に腰掛けて、ザハルの言葉を思い出す。
リシェの家から一日。
洞窟で陰陽石――蒼石と煌石がすぐ見つかるとは限らない。
何日か留まることになるかもしれない。
しかも、できればセットで置いておきたい。
霊脈には陰陽がどちらも流れている。
石にどちらかが蓄積するのには、何か条件があるのかもしれない。
考えられるのは、環境だろうか。
温度、湿度、地層の性質、水脈や魔脈の有無……
考えるほど、この石が生まれるのは奇跡に近いことのような気がする。
偶然が幾つも重ならないと生まれない石なら、そう幾つも手に入れるのは難しいかもしれない。
ヨダに一組、タヤたちに一組は、お礼として渡したい。
アルデニアに何組かは置いて行けるだろうか。
ユアンへの贈り物は……別の物を考えた方が良いかもしれない。
ぐるぐると考えていると、どうも落ち着かない。
ルティナは立ち上がり、鉄瓶に清水を注ぎ火にかける。
まずはゆっくり、お茶を飲もう。
茶葉の用意をしていると、セラが戻って来る気配がする。
一緒にいる人は、知らない気配だ。
戸口から外を見ると、セラの隣を見慣れない長身の男性が歩いてくる。
全身を黒に統一した装いに、腰まである淡い灰色の髪がなびく。
片手には杖を持ち、一切無駄のない動きはセラに近いものを感じる。
不思議な空気だ。
感じるのは、風の魔素に違いない。
だが、その身に纏うのは、静まり返った風だ。
フウが、おもむろにルティナの前に立つ。
警戒しているようには見えないが、彼の方をじっと見つめている。
「お待たせいたしました……ユアン様は王城へ向かわれたそうです。……こちらは……」
「セラ、紹介は必要ありません。自分で名乗ります。突然訪ったご無礼、どうぞご容赦を。ユアン様に付いてリシアへ赴くことになりました、エイダと申します」
セラ以上に完璧なお辞儀をする人が、この世界にいるとは思わなかった。
彼は、フウを刺激しない距離で、ぴたりと立ち止まった。
こちらに視線を合わせているようで、エイダの意識はここ一帯を広く捉えているのが分かる。
誰かが感覚を広げると、どうしても圧を感じるものだが、この人にはそれがまったくない。
平常心、平温。
常に揺らぎなく自分自身を保っている。そんな印象だ。
姿勢を変えないまま、フウがゆるりと尾を振り、緩い風をエイダに送る。
その風は、エイダの髪を揺らし、抜けていく。
エイダの方から、自然の風とも思える、静かな風が届いた。
風がフウの尾を揺らす。
風使いの挨拶みたいなものなのだろうか。
アルヴィンとも、同じようなやり取りをしていた。
フウはくるりと向きを変え、離れの中へ戻って行く。
どうやら、彼なりに納得したようだ。
「ご挨拶をありがとうございます。リシアから参りました、ルティナと申します。こちらでお世話になっております」
なぜだか分からないが、自然にアマヒトの礼を返した。
この人には、そうした方が良いと思ったのかもしれない。
エイダは小さく頷き、その場に立ったまま動かない。
何かを言う気配もなく、ただルティナを見つめている。
沈黙だけが静かに流れる。
これは、何の時間だろうか。
セラに視線を送っても、どうしようもなさそうに黙っている。
「あ、の……。何か御用でしょうか?」
どうしていいか分からず、沈黙を破る。
彼は特に表情も変えず、平温で答えた。
「ユアン様が王城へ向かわれ、なかなか戻って来られないので、手持ち無沙汰になり、散歩に出て参りました。セラを見かけたものですから、ご挨拶をと思いまして」
暇になったから散歩に出たら、セラがいたから付いてきた。
特に用事はない……ということだろうか。
ルティナは吹き出しそうになるのを、すんでのところで押し留めた。
飾らない正直過ぎるその答えは、欠片の嘘も含んでいない。
何一つ、余計な言葉を発しない潔さが、むしろ心地よい。
「そうでしたか。ちょうどお茶を淹れようと準備しておりました。よろしければ、ご一緒にいかがですか?」
一拍、間をおいてから、エイダは頷いた。
「ありがとうございます。それでは、ご一緒させていただきます」
エイダの後ろで、セラが大きく顔を歪めたのを、ルティナは見逃さなかった。
火床に戻ると、鉄瓶から風の音が鳴り始めた。
火を弱め、そのまましばらく煮る。
「こちらでお待ちください」
ルティナが火床の椅子を案内すると、一瞬躊躇ったのち、そこに腰掛けた。
フウは、エイダの足元からほんの少し離れたところに伏せる。
この距離は、心の距離だろうか。
「良い音がします」
エイダは鉄瓶に視線を向ける。
「鉄瓶から鳴る音は、“風の音”と呼ばれることもあります。湯の沸き具合で音が変わるので、その変化も一緒に楽しむものだそうです」
「……火を、止めないのですか?」
「鉄瓶で湯を煮ることで、角が取れて丸くまろやかになります。茶の風味も変わるので、もうしばらくだけ……」
エイダからは、鼻から息を抜く音だけが聞こえた。
火床の端に立つセラは、妙な緊張が漏れている。
ユアンが言っていた、オルフェスの師匠という人は、彼なのだろう。
確かに少しとっつきにくさを感じる人はいるかもしれない。
表情があまり変わらず、読みづらいからだろうか。
ルティナの目から見た彼は、極限まで無駄を省き、飾らず、ただ正直に言葉を使う人だった。
茶葉は、森の家で作ったものを選んだ。
四家に配られた香立は、エイダもすでに飲んでいるだろう。
せっかくお出しするなら、別の物を試してもらいたい。
鉄瓶を火から下ろし、湯呑みを温めてから、急須に入れた茶葉に湯を注ぐ。
立ち上る湯気は、懐かしい森の香りがする。
この香りを懐かしいと思うくらい、王都での日々は目まぐるしかった。
少し蒸らし、3つの湯呑みに順番に注いでいく。
小さなガラスのコップに冷えた清水、小鉢にはキノコの梅和えを準備し、エイダの前に並べる。
「お待たせいたしました。セラの分も用意したので、良かったらこちらで飲んで下さい」
セラは静かにお辞儀をして、火床の端に置かれた椅子の方に移動した。
ルティナはエイダの斜め向かいに腰を下ろした。
湯呑みを口に近付けると、ほわんと感じる甘苦い香りが鼻に届く。
苦みの後に甘みが残るお茶は、午後のひとときによく飲んでいたものだ。
「……程よい苦みが良いですね」
ゆっくりと味わいながら飲む所作も、完璧以外の言葉が見つからない。
「恐れ入ります」
エイダとの会話は、ぽつり、ぽつり、と繋がらないようで繋がっていく。
「この……キノコは……」
「ささやかな口直しですが……夏によく作り置くものです」
「これは……とても良い」
「酸味がお好きですか?」
「最近は少々すっきりしませんから」
「……身体の芯に熱を感じるときは、柑橘や梅はとても良いです」
「覚えておきましょう」
「思い切り汗をかくのも、すっきりします」
「随分と、汗をかいた覚えがありませんね」
「……汗は熱を逃がしますから、過ごしにくければご検討ください」
エイダは、とても丁寧に言葉を使う人だ。
過剰に汲み取ることも、過剰に説明することもない。
あるがまま、思ったことを過不足なく言葉にする。
これは、とても難しいことだと思う。
ルティナはいつも、きちんと当てはまる言葉を探している気がする。
もしかしたら、シンプルな言葉の方が、しっくりくるものなのかもしれない。
「……ユアン様は、今もお忙しいでしょうか?」
ふと、エイダに問いかけた。
この人が一番、ユアンの現状を知っている気がしたのだ。
こちらに向けた視線は、先ほどと変わらない平温の視線だ。
「やることはありますが、手が足りないということはありません。彼が忙しくしているだけです」
その答えに、しばらく考えた。
そして、エイダの横顔を見て、なんとなく理解した。
「わたしがお願いごとをしたら、もっと忙しくなってしまいそうですね」
「変わらないでしょう。彼は、仕事の総量に応じて、処理速度が変わる。自分で切り替えることが苦手なようです。だから常に忙しい」
「隙間に、心を入れてしまうということですか?」
エイダの目が、少し大きくなった。
「その表現は興味深いですね。少し詳しく聞かせて下さい」
ルティナは持っていた湯呑みを置き、頭に浮かぶ言葉を拾っていく。
「……ユアン様は……とても心遣いが細かい方で、色々と感じ過ぎてしまうところがありますから。余裕があればあるだけ、細かいところまで考えてしまうのだろうと思いました。余った時間分だけ、心を挟む。その時間を、自分のために使おうと思わない人、でしょうか」
「確かに、それであれば、処理速度が変わるのも説明がつきます。仕事が少ないと、本気を出せないのかと思っていましたが……ですが、あまり推奨できることではありませんね。忙しさによって対応が変わるのは、公平ではありません」
確かに、その通りだ。
同じようなことを、ルティナも父に言われたことがあった。
どんな時、どんな状況でも、同じように向き合えと。
それはなかなか難しい。
「耳が痛いです」
「思い当たることがありますか?」
「わたしなど、常にそうだと思います」
「それだと、長く続けばどこかで負担になりませんか?」
「自分では、そう思っていないのですが……」
「……実際、あなたはそれで倒れていますね」
「おっしゃる通りです……」
微かに、笑った……だろうか。
これを笑ったと捉えていいのか、真剣に考えてしまうほどの、淡い心の揺れだ。
「ルティナ殿は、相手のことを思うのですね。では、一つ考えてみてください。自分が、相手の立場だったとしたら。そこまで心を尽くしてくれる相手に、感謝をしながらも、恐縮してしまうのではないですか?」
「……そう……ですね」
「相手が恐縮するほど、心を込めるのを悪いとは言いません。でも、それは普通だとは思いません。仕事ならば尚のことです」
「普通……」
「普通というのは、いつ、どんな状況でも、同じようにできること。……私は、人は、良くも悪くも慣れる生き物だと思っています」
「慣れる……」
その通りだ。
頭では分かっているのだ。
「相手が恐縮するほど心を込めた仕事が、相手にとって普通になる。それが出来ないとき、相手は普通を下回る仕事だと受け取ることになる。厚意に慣れると、それはやがて普通になります。それ自体は悪いことではありません。問題は、普通が普通ではなくなることです。本来なら普通であった仕事が、相手にとっては期待通りではなくなり、そこには不満や罪悪感が伴うこともあるでしょう。それは、生まれる必要のなかった感情です」
「基準がずれてしまうことで、どちらも傷付くこともある、ということですね」
心を込めるなら、いつでも同じく込められるように。
それが何よりも誠実だと、彼は言っている。
まったくその通りだ。
「すべての人が、あなたやユアン様のように、考えるわけではありません。もしそうなら、この世界に美しさはなくなってしまう」
すべてが美しければ、それは普通になる。
すべてが美しいわけではないからこそ、美しさを感じられる。
考えてみると、寂しい話だ。
だが、それは人も、世界も同じだ。
「エイダ様は……人を研究しているのですか?」
「……研究しているつもりはありませんが、観察することは多いです。人は、とても興味深い生き物です」
「わたしは、人と世界は同じだと、思うようになりました」
「ふむ……」
「人を見て世界を理解し、世界を見て人を理解する。今日の話も、です」
「なるほど。あなたは、興味深い捉え方をしますね」
エイダは湯呑みを口に運び、戸口の方へ目をやった。
「ユアン様が戻って来られたようですね。もうすぐこちらに来られるでしょう」
言われて感覚を澄ますと、確かにユアンの気配がする。
エイダの感覚は、一体どこまで捉えているのか。
とても、不思議な人だ。
静かで、鋭くて、深くて、それが常に変わらない。
走って来る2つの足音が、戸口の前で止まった。
ユアンとレイランは中の様子を見て、しばらく立ち尽くしていた。
「……えー、と。これはどういう状況?」
戸惑いを隠せないユアンは、レイランと顔を見合わせながら入って来る。
「ユアン様がなかなか戻られないので、散歩に出たらたまたまセラを見かけまして」
エイダがこちらに視線を向ける。
「お時間があるようでしたので、お茶にお誘い致しました」
頷きながら答えると、さらに困惑したユアンは言葉を詰まらせる。
後ろに立っているレイランは、どこか楽しそうだ。
「エイダ殿、お茶を楽しまれましたか?」
「ええ、とても良いお茶でした。キノコの梅和えはとても美味しいですよ」
「ルティナ様のお料理は、どれも絶品ですから」
エイダは静かに頷き、梅和えを口に運ぶ。
完璧な所作は、ここでも崩れることはない。
「これを頂きに、また訪ねたいと思うのですが構いませんか? 事前にご連絡差し上げた方がよろしいでしょうか」
「わたしはいつでも構いませんが、出掛けていることもありますので……ご連絡いただけると助かります」
「分かりました。そのように」
ようやく時間が動き出したユアンが、大きなため息を吐いた。
「……エイダが座ってるところを、初めて見たよ」
「そうでしたか? 座らねば、お茶が頂けませんので」
ユアンから滲んだ感情は、なぜだか分からない悔しさを含んでいた。




