蒼の季 向夏-23.書架
本の匂いは落ち着く。
窓から入る光は角度を調整されて、同じ明るさに維持されている。
久しぶりに来た書庫は、相変わらず人が少ない。
リシェは息を飲み、目の前の景色に目を奪われている。
どこを見ても、連なった本棚にはびっしりと本が並ぶ。
何度も通っているルティナでさえ、まだこの書庫の広さが把握できていないのだ。
「すごい……」
ぽつりとこぼれた言葉は、消えるほど小さな呟きだ。
リシェは見渡すように首を回し、徐々に表情が綻んでいく。
「王都で、一番心が躍り、落ち着く場所かもしれません」
「ルティナらしい」
小さく笑ったリシェは、書庫の奥へと足を向けた。
鉱石や石関連の本はすぐに見つけられた。
鍛冶や冶金技術、採掘や地学と並び、その奥に鉱物や鉱石の棚があった。
植物や魔獣に関する棚よりも、本の数はずっと多い。
アルデニアは、他国に比べて魔導鉱石の採掘量が群を抜いている。
魔導石や魔導具も広く使われ、技術力も高い。
そのせいで、鉱石を使う他の技術も、自然と根付いたのかもしれない。
棚に並ぶ本に目を滑らせ、食い入るように見つめるリシェの目は真剣だ。
この辺りの本は、リシェにとっては宝の山だろう。
ルティナは、『石の性質と分類』『アルデニア地誌』『古き石の伝承』を選んだ。
石の詳細と、土地に関すること、もしかしたら伝承の中にそういう石が描かれているかもしれない。
リシェも何冊か手に取っている。
その背表紙を見て、思わず笑ってしまった。
陰陽石のことはきっと頭から抜けている。
持っている本は、『石工技法集』『四素と石』『宝飾細工の歴史』。
視点が違う方が、逆に良いということもある。
もしかしたら、思いもよらないところから見つかるかもしれない。
本を抱えて、いつもの窓際の席に腰を下ろす。
いつもなら足元に座るフウだが、今日は離れたところで伏せた。
その隣に、ラウラが身体を寄せる。
身体はラウラの方が大きいが、後をついて行くのはいつもラウラの方だ。
いつの間にか、フウがお兄さんになっているのが、微笑ましい。
それを横目に見ながら、本を置く。
「目移りしちゃって選べなかった……」
リシェは持って来た本に手を重ね、大切そうに表紙を撫でる。
「リシェのお家にも本はありますか?」
「母さんが大切にしてる。でも、石の本は少なくて、地層とか地学が多い。イグドラではそういうのが盛んみたい」
「イグドラの生まれなのですね」
「そう、イグドラは獣人も多いんだって」
イグドラは、アルデニアの北西、連なる山脈を越えた先だ。
「父さんは石も好きだけど、専門は天然石を使った魔装具。最近は魔導石を使った魔装具の方が多いけどね」
「魔装具……」
「武具の方ね」
「なるほど」
「魔導石は誰にでも扱いやすいけど、天然石は人を選ぶ。でも、合う石に出会えれば効果は数倍になることもある。父さんはそういうのが好きみたい」
「リシェは……装飾の方が好きですか?」
「どうだろう……石の音を感じやすかったから、自然に扱うようになったけど……父さんみたいに一生かけてやりたいと思うかって言われると……分からない」
うつむくリシェは、静かに本を見つめる。
「これから、探すところですね」
「……うん」
「父は、森の環境や植物が専門でした。もちろん、わたしもそれが根底にありますが、父とは少し方向性が違います」
「うん、それはなんとなく分かる」
「世界が変わるなら、変わり続ける世界を追う。父が言っていた言葉ですが、わたしは人もそうだと思います。積み重ねた時間が、その人を作りますから。……これからが楽しみですね」
リシェは本を見つめて頷いた。
彼女に言った言葉のようで、これは自分にもしっかり返って来る。
頁を捲る心地よい音が、書庫の空気に吸い込まれていく。
ルティナは静かに本を開いた。
1冊を読み終えて顔を上げると、外はまだ明るい。
夕方の鐘は鳴ったのだろうか。
セラは離れた席で、何か書き物をしている。
ルティナの視線に気付くと、すぐさま立ち上がり歩いてくる。
「何かありましたか?」
膝を折って、囁くように話す。
「夕方の鐘は鳴りましたか?」
「少し前に……」
「……そうですか」
やはり、まったく気づいていなかった。
リシェは目だけを動かし、ひたすら本の文字を追っている。
まだここにいても良さそうだ。
「しばらくは……日が暮れるまではここにいますので、何か用事があれば済ませて来ても構いませんよ」
セラは周りを眺めてから、小さく頷いた。
「提出する書類があるので、内務区画へ行って参ります。すぐに戻ります」
「大丈夫です。フウもラウラもいますから」
他の場所では離れることはないが、書庫だけは別のようだ。
ここは入れる人が限られるからなのか、必要があれば出掛けて行く。
セラは書類を手に、足早に書庫から出て行った。
「ルティナ……これ」
顔を上げたリシェが、本をこちらに向けて差し出した。
その頁は、石に魔素が蓄積する過程を考察する内容が書かれている。
属性の影響を受けた魔素が、不純物の少ない石に継続して触れることで蓄積する。
属性によって相性があり、同じ環境でも石によって受ける影響が異なる。
属性ごとに、相性の良い石の一覧が表で記されている。
その下。
別枠で書かれた3行。
母晶――母層から育つ極めて純粋な結晶。
蒼石――青白く染まった母晶。
煌石――淡黄に染まった母晶。
「これは……陰陽石のこと……ですね」
「うん。この本、書いてあることが、今の考え方と少し違うの」
表紙を見ると、『四素と石』という本だ。
この装丁は見覚えがある。
魔獣のことを調べたときに見つけた、あの3冊と似ている。
裏表紙から捲っていくと、編纂されたのは550年ほど前だ。
「この本……わたしが以前見つけた本と、同じ人……もしくは、同じ人たちが書いたものかもしれません」
「……この本、四素って書いてあるけど、それに属さないものも分類として書いてる。霊素とは書かれていないけど、四素ではない素として認識してる感じがする」
「わたしが以前見つけた本では、しっかりと霊素と書いてありました」
「……550年前には認識されていて、ちゃんと名前があったんだね……」
リシェの声が、寂しげに響く。
ルティナも、前にあの本を見つけたときに、同じように感じたのを思い出す。
人は世代を重ねるごとに、少しずつ何かを忘れてしまうのかもしれない。
「……記憶の力が人に効かないのって、これが理由なんじゃないかって思った」
「根底にある記憶……」
「うん……説明がすごく難しいんだけど……記憶の力って、一番深い所にあるものに触れる感覚なの。人って、すごく純粋で……まっさらなんじゃないかって……いや、ごめん、分かんない……」
リシェの言いたいことは分かる気がした。
人は、この世界の中で中庸に近い種族だ。
数で考えれば一番多く、それが一般的に思えてしまう。
でも、一つの種族として捉えるなら、それは稀有な存在だと思う。
人のような、中庸の生き物はとても珍しい。
他の種族も、魔獣も、動物も、植物も、ある程度は属性や陰陽を持っている。
まっさらなのは、忘れるから。
忘れることで、変わらずにいることを選んでいるのかもしれない。
少しの間、お互いに何かを考えていた。
「でも、陰陽石……母晶のことは分かったね。母層があるところに出来るなら、決まった場所というわけではなさそう。地学とか地層の本を探してみる」
リシェは本を閉じて、立ち上がる。
「リシェのお母さまなら、この辺りの地層に詳しかったりしませんか?」
その言葉に足をぴたりと止め、ゆっくりと振り返った。
「……多分、ものすごく詳しい……」
やけに力のこもった声と、大きく開いた目は、言い得ぬ圧を感じる。
「え、と、あまり頼らない方が良いでしょうか……?」
「ううん、すごく嬉しがると思う。ただ……ちょっと度を越えてるかも」
「ふふっ。お話しできたら楽しそうです」
「母さんが、ルティナに会いたいって言ってた。遊びに来て欲しいって」
「行きたい……ぜひ!」
リシェの母とも会ってみたいが、誰かの家に遊びに行くというのは初めてだ。
全身がそわそわする。
頬が熱を持っているのが分かる。
「あははっ、うん、わかった。じゃあ、いつにするかは相談しよう」
肩を揺らして笑いながら、リシェは大きく頷いた。
「何やらとても楽しそうですね」
突然、後ろから声を掛けられて振り向く。
そこには、美しく整えられた姿で、淡い笑みを浮かべたミオルが立っていた。
ロイとは違い、柔らかい布で仕立てられた正装は、線の細いミオルによく似合う。
「ミオル様、なんだかとても……久しぶりな気がします」
「そうですね、ここのところ、あなたの食事を頂けていませんね」
「……あまり召し上がっていないのではないですか? 顔色が……」
「忙しかったもので。でも、ようやく落ち着きました。しばらくは、ゆっくり眠れそうです」
疲れが溜まると、ミオルはどんどん儚げになっていく。
今日の装いのせいかと思ったが、間違いなく疲れている。
「そちらのお嬢さんが……なるほど、不思議な空気の方ですね」
リシェは小さくお辞儀をする。
優し気に笑いかけるミオルは、いつもと変わらない空気だ。
「ミオル様? 夜会があると聞きましたが、参加されないのですか?」
眼鏡の奥で目を泳がせて、机にある本に目を向ける。
どうやらあまり聞かれたくない話題のようだ。
「……ユアンには挨拶をしましたから、問題ないでしょう」
「……抜けてきたのですか?」
「誰も、ぼくがいないことなど気にしませんよ」
「ロイ様はご存じなのですか?」
「いつものことなので、そのうち探しに来ると思います」
相変わらず、ロイは大変そうだ。
このやり取りで、なんとなく状況を察したように、リシェがくすりと笑う。
「初めてお目にかかります、この書庫を管理しているミオルです」
「リシェです」
「ロイが渡した鍵を、そのまましばらくお使い下さい。その鍵の方が、何かと便利ですから。出入りも自由にして頂いて構いません」
ロイから話は聞いていたのだろう。
「……ありがとう、ございます」
ふわりと笑うリシェは、ミオルに対しても緊張はしていない。
ミオルの空気は、人を安心させるのだ。
「珍しい本を……見つけていますね……」
ミオルの視線は、先ほど読んでいた『四素と石』に向けられている。
「珍しい……?」
リシェが小さく呟く。
ミオルは裏表紙を捲って何かを確認し、頷いた。
「これは、一般に出回っている本ではなく、古い時代にリュサールが編纂した資料のようなものです。あまり数は多くありませんが」
「リュサールが……」
それが本当なら、リュサールは600年前に陰陽の概念を持っていたことになる。
以前読んだ3冊は、霊素と魔素の存在を理解し、この世界の大きな巡りに対する考え方が一貫していた。
この本も、霊素という言葉は使っていないものの、その存在は理解しているように感じられる。
それが、今の時代にはまったく伝わっていない。
リュサールがその概念を持っていたなら、全てではなくても、ある程度伝わっていてもいいような気がする。
ルティナは以前見つけた3冊の本と、この本に書かれていることを話した。
ミオルは驚きながら、時折何かを考える仕草をしながら、耳を傾ける。
「なるほど……そんな資料があったのですか……」
ミオルですら内容を把握していないのだろうか。
彼は『四素と石』を捲りながら、文字の上に指を滑らせる。
ルティナはその指先を追いながら、口を開く。
「わたしはこの本が、リュサールの方によって書かれたとは……あまり思えません」
「なぜですか?」
「……考え方が……どちらかと言えばアマヒトや、霊素を感じられる異種族の考え方に近いと思うからです。霊素を感じる力は、持って生まれた素質です。人が感じられるようになることはありません。ですが、この本は間違いなく、感じることが出来る側の視点です」
ミオルは近くの椅子に腰掛け、目を閉じる。
「ぼくはまだ、その本を読んでいないので分かりませんが、ルティナ殿がそう感じるのならそうなのでしょう。ですが、この装丁や編纂の記録を見る限り、間違いなくリュサールで書かれています。だとするなら、こうは考えられませんか? 今のあなたと、ぼくたちのような関係が、この本が書かれた時代にあった……」
ゾクッと、肌の上を走る感触がした。
あり得ない話ではない。
現に今、自分自身がそうしているのだから。
「この本を編纂した人間は、意図的にその人のことを隠しているのかもしれない。記されている名前にも、リュサール以外の名はありません。……ですが、ぼくが編纂者だったとしても、同じことをすると思います」
流れ込んでくるミオルの思いが、鼓動を速くする。
「本として後世に残すのなら、その本が誰に読まれ、どう解釈されるか分かりませんから。その人を守るためには、表に出さないのが一番です。……きっと、声を大にして、その人の存在を伝えたかったでしょうけれど」
ミオルは静かに目を開き、ルティナを見つめた。
吸い込まれそうなその瞳は、何かを確信しているようだ。
「……大切に、してたんだね」
リシェは、本に手を当てて目を細める。
その通りだ。
きっと、600年前の編纂者は、その人のことをとても大切に思っていた。
「……リュサールの編纂した本を集めてみます。数は多くないと思いますが、ぼくも目を通しておきたいので。この書庫から探すので、少し時間がかかると思いますが……」
「わたしもできる限りお手伝いします。ぜひ、読ませていただきたいので……」
「ははっ、大丈夫です。さすがに一人でやろうとは思いません。ちょうど仕事が一段落して、手が空いている者が多いのです。のんびり過ごしてもらうつもりでしたが、働いてもらいます」
ミオルには、いつも大変なお願いばかりをしているような気がする。
忙しい中、絶対に無理だと言わずに手を貸してくれる。
「何か美味しいものを作って、差し入れに参ります」
「おや、それはやる気が出ますね」
満足そうに儚げな笑顔を見せるミオルは、目の前の本を手に取って読み始めた。
白い肌に、目の下には薄いクマが浮かんでいる。
疲れると睡眠に出る人だ。
明日にでも、食事と香を差し入れに来よう。
ミオルを交えてひとしきり本を読んだ後、リュサールを後にする。
外はすっかり陽が落ちているが、空気は体温より高い。
「この家の人は、すごく澄んでるね」
書庫の余韻に浸るように、リシェは預かった鍵を手の中で握る。
「王都に来て、最初に親しくなったのがミオル様でした。いつも気にかけて下さって、時には叱ってくれます。素敵な方です」
「うん。あの人が、ルティナをすごく大切にしているのが伝わって来た」
「なぜか、不甲斐ない所ばかりを見られてしまって……」
「お互いに、気遣ってるのが分かるよ。音が似てる」
ミオルには、気兼ねなく頼ってしまうかもしれない。
受け止めて、包んでくれる人だ。
「この鍵も、すごく綺麗な音がするよ」
「これも、石ですか?」
「作られた石だね。自然の音がしない分、持っていた人の気配が馴染んでる」
「ロイ様も、とても素敵な方です」
「分かるよ。あの人は水なのに軽やかだった」
リシェが人の音について嬉しそうに話すのを、あまり聞いたことがない。
確かに、ロイの気軽な雰囲気は、リシェの空気を和ませてくれそうだ。
彼女の交友関係も、これからどんどん広がっていくのだと思うと、不思議な感覚だ。
一緒に本を読んで、料理をして、考えて……
これからどれくらい、こういう時間が過ごせるだろう。
少なくとも蒼の季いっぱいは、リシェとたくさん一緒に過ごしたい。
「リシェ、エールを買って帰りましょうか」
リシェは満面の笑みで頷き、2人並んで、市場へと足を向けた。




