蒼の季 向夏-21.音色。
ルティナの指先が動くたびに、今までとは違う音が鳴る。
これが、聞こえているということなのか、分からない。
内側に伝わる振動と重なって、別の何かが混ざる。
届いては消え、また届く。
後ろからは、ルティナの息遣いを感じる。
指先が触れているからだろうか。
それは、今までと変わらない振動として身体に響く。
ルティナが手を離した。
左側へ動いていくのが、床から伝わる振動で伝わる。
「――リシェ」
――音が届く。
意識外から飛んでくる音に、身体が反射で強張る。
音が、やって来る。
音には、距離がある。
世界は、自分の外側にあった――。
初めて自分の耳で聞いたのは、父の声だった。
父の声が、遠かった。
その距離が、少しだけ寂しい。
内側から聞こえる声よりも、ずっとずっと、柔らかかった。
「父さん」
自分の声が近い。
自分の声が、世界で一番近い音だ。
「リシェ」
「うん」
「……リシェ」
「父さんの声が、遠い」
みるみる顔が歪んでいく。
ぐしゃぐしゃになった顔で、目の端から伝う涙を気にも留めず。
床を踏み鳴らして駆け寄ってくる。
その音は自分のすぐそばで止む。
「リシェ……」
ぎゅうぎゅうに抱き締められ、耳元で聞こえた父の声は、それでもまだ遠かった。
音が耳に届き、目が覚める。
父の声が大きいのは、想像通りだった。
母の声は小さくて、遠くまで届く。
音の届き方で、どこにいるかが分かるのは便利だ。
あれから3日ほど過ごした。
世界には音が溢れているのかと思ったが、耳に届く音は意外なほど少ない。
自分の感じる音は、人よりも少ないのだと思っていた。
でも、そうではなかった。
耳には届かない、音にならない振動が、世界には溢れている。
風が吹く、水が流れる、木が軋む、土が動く。
こういう自然の中にある気配は、耳には届かない。
身体に届いて音になる。
感じ方は今までと同じだった。
自分の世界になかったのは、人の音だけだった。
山の中にある家で過ごしていても、それほど違和感を感じない。
意識の外から声が飛んでくるのにも慣れてきた。
そう思うと、人はもっと静かな世界にいるのかもしれない。
人が少ない森や山を、人が静かだと言うのは、そういうことだったのだ。
身体に届く音が溢れているのが、人の少ない場所。
耳に届く音が溢れているのは、人がたくさんいる場所。
街に行くのが少し怖い。
きっとあそこは、自分の知らない音が押し寄せて来る場所だ。
「おはよう」
「おはようリシェ。今日はよく眠れたみたいね」
パンの焼ける香ばしい香りが、部屋いっぱいに立ち込めている。
鍋の蓋がカタカタと音を鳴らし、蓋の縁から湯気が上がる。
火を止めて振り返った母は、嬉しそうに尾を揺らした。
「うん、だいぶ慣れた。いい匂い。父さんは?」
「外で店に行く準備。今日はリシェも行くのね?」
「うん。あれから、まだちゃんと話せてない。心配してると思う」
治療を終えた後、ルティナは気を遣ってくれたのか、すぐに帰って行った。
父がぐしゃぐしゃになって、なかなか離れてくれず、お礼も言えないままだ。
会いたい。
ちゃんと聞こえるようになった姿を見せたい。
ルティナの声も、ちゃんと聞きたい。
「ルティナさんに、会ってみたいわ。きちんとお礼も伝えたいし……遊びに来てくれないかしら」
「ここに?」
「遠い? 無理かしら」
「喜んで来てくれると思う」
「そう? じゃあ聞いてみてくれる? うちはいつでもいいし、何人でも、何頭いてもいいから」
「あははっ。そうだね。人と魔獣の数が同じくらいになりそう」
母が人を呼ぼうとするのは珍しい。
アルデニアには獣人が多くないせいか、嫌な思いもしたのだと思う。
父と出会って、アルデニアで暮らすことを決めた頃に、山の中にあるこの家に移り住んだ。
そんな母でも、ルティナには会いたいと思ってくれている。
それが、なんだかくすぐったい。
友達を親に合わせるというのは、こういうものなのだろうか。
「ジェイドは大丈夫かな……スヴェルフとヤクモの混血の子がいるの」
「大丈夫じゃない? ラウラは平気なんでしょ? だったら怒らないと思うけど」
「でも、ヤクモとはいつもケンカしてない?」
「ああ、あれはもう挨拶みたいなものでしょ」
朝食を食べている横で、母はずっと笑っている。
おおらかで、どこかふわふわとしている母は、我が家の癒しだ。
母が家にいると、自然と動物や魔獣が集まって来るのは、彼らにとってもここが心地よい場所なのだろう。
「リシェ、そろそろ行くぞ」
扉を開けた父は、すでに準備を終えたようだ。
奥には鞍を付けたジェイドの姿が見える。
「気を付けてね。そろそろエールがなくなるわよ。帰りに買ってきたら?」
「分かった、樽はまだあるか?」
「ええ、まだ大丈夫」
母は、扉の横にある引出しから何かを取り出した。
手にあったのは、新しい耳当てだ。
「大丈夫ならいいけど、一応持って行きなさい。耳の所に、遮音の石を入れてあるから」
「うん、ありがとう」
母が作ってくれた耳当ては、真新しい革の匂いがする。
リシェに合わせて、少し小さめに作られた耳当てを首に掛ける。
「行ってきます」
「ルティナさんに聞いてね。楽しみにしてるって伝えて」
「わかった」
ラウラに跨ると、風の音が聞こえた。
乾いた風の音は、雨の季節の終わりを告げる。
走り出したジェイドを追って、ラウラが走り始める。
土を蹴る音。
風が木を揺らす音。
鳥の羽ばたく音。
身体に届く心地良い振動は、いつもと変わらず音を伝えていた。
王都の門が見えると、ジェイドはいつものように裏へと走る。
店の裏の城壁を越えて、直接店がある裏道に入るのが彼らのルートだ。
城壁に沿って走るだけで、人の音がする。
家にいる時は気にならなかった、まだ知らない音だ。
城壁を越え、店の屋根へ飛び移る。
耳に届くのは、遠くのざわめきだ。
遠くに見える景色のような音――この街の背景のような音。
店のある裏道には人が少ないお陰で、それほど違和感は感じない。
ルティナも、完全に回復は難しいと言っていた。
聞こえるようになっても、すべては聞こえていないのかもしれない。
「おはようザハルさん、今日は早いんだねぇ」
突然聞こえた声に、思わず身体が跳ねる。
父に話しかけたのは、店の看板を持って出て来たショウだ。
「おう、おはよう。娘を慣らすためにな」
「慣らす? リシェちゃんがどうかしたのかい?」
父の後ろを覗き込むように、ショウは不思議そうに首を傾げる。
「おはよう、ショウさん」
ショウは笑顔で頷くだけだ。
「ショウさん、耳、聞こえるようになったの」
「ええっ? そりゃ……すごいじゃないか。良かったねぇ、そんなこともあるんだねぇ。シノ! ちょっと出ておいで」
ショウの声は、少し掠れたいい声だった。
父の声よりも控えめで、さわさわと鳴る葉擦れのような感触だった。
「はいはい、何どうしたの? あら、おはようございます」
シノはふんわりと広がる声で、その場を包んだ。
2人の声は、同じ質感で重なり合い、互いに響きを返すようだ。
「リシェちゃんがね、聞こえるようになったんだって」
「えっ? ええっ? 良かったわね、そんなことがあるのね」
シノは軽い足音を響かせて、リシェの手を取ろうとする。
「あ、もう手を取っちゃだめね。聞こえるんだものね」
恥ずかしそうに手を引っ込めるシノは、これでもかというほど目尻を下げて笑顔を見せる。
「聞こえるけど、手は取ってもいいよ。シノさんの手は優しいから好き」
「あら……嬉しいわ」
シノは両手でリシェの手を握る。
声だけでも充分伝わっていた感情が、体温と一緒に身体に染みる。
温かい。
シノとショウは、陽だまりのような人だ。
「ありがとう。2人の声が聞けて……嬉しい」
人の声は、自分が思うよりずっと――
その人それぞれの、感触と感情があった。
「あ、そうだ。昨日ね、ザハルさん早めに帰ったろ? その後訪ねて来た人がいたよ」
看板を拭いていた手を止めて、ショウは思い出したように父を見上げる。
「そうか? 昨日は何も約束はなかったはずだが……」
「様子を見に来ただけだって言ってたから、また来るんじゃないかね? あの人はマメな人だから」
「どこの人だ?」
「アベリスの若い子だよ。畑のことで世話になったんだけど、それ以降ちょくちょく様子を聞きに来てくれるんだよ」
「ユアンか? レイランか?」
「レイランさんだよ。なんだ、知り合いだったのか……もしかして、リシェちゃんを治してくれたのは、銀髪のお嬢さんかい?」
ショウは立ち上がり、何かが繋がったように声を大きくする。
「……ああ」
父の短い返事に、ショウは深いため息とともに頷いた。
「あの子は……不思議な子だね。うちもお世話になりっぱなしだよ。シノの身体も治してもらって、駄目になりかけていた畑まで助けてもらったんだ」
「そうだったのか」
「うんうん、本当に……いい子だよねぇ」
「間違いねぇな」
ショウと父の笑い声が重なった。
その音から伝わる彼らの思いは、確かに、自分の中にもあった。
午後の鐘の音は、空気を震わせて伝わる。
その音は、耳で聞いてもそれほど違いはなかった。
ルティナはどこにいるだろうか。
最近は、午後には離れに戻ることが多いと言っていた。
予定が分からない。
会いに行ってもすれ違ってしまうかもしれない。
それでも、早く会いたい。
「父さん、ルティナに会いに行ってくる」
「おいおい、まだ街には出てないだろ。……ひとりで大丈夫か?」
「母さんの耳当て持って行く。無理そうだったら戻るから」
不満げなのは伝わるが、父は静かに頷いた。
外に出ると、ここ最近では珍しく、空は真っ青に晴れている。
遠慮のない陽射しが、肌に重く刺さる。
アベリスの敷地に行くには、市場の端を抜けて城下を通る必要がある。
たくさんの人がいる場所を通るのは、さすがに少し怖い。
一歩近づくごとに、街のざわめきが大きくなっていく。
聞き取れなかった声が、少しずつ輪郭を持ち始める。
音が、迫って来る。
自然の音と違って、人の声は方向がはっきりしている。
ただそこに在るのではなく、何かに向かうのが声だ。
自分の中を、無遠慮に通り過ぎていく音が、身体を揺らす。
四方八方から飛び交う音が、勝手に耳に飛び込んでくる。
すべてが同じ音量で、耳の奥でごちゃまぜになるようだ。
――頭の中が、ぐわんと大きく揺れた。
喉の奥から何かが上がって来そうになるのを、必死に抑える。
音の多さに、頭が、身体がついていけない。
地面が揺れる。
目の前が回る。
立っていると倒れてしまいそうで、なんとか道の端に避けてしゃがみ込む。
胸が苦しい。
ゆっくりと息を吸おうとするが、なかなか入ってこない。
「お嬢さん、大丈夫ですか?」
不意に背に手が添えられ、知らない声が聞こえた。
「……大丈夫、ちょっと気分が悪くなっただけ」
必死に絞り出した声は、到底大丈夫な声ではなかった。
背中に添えられた手から、ひんやりとした感触が身体を伝う。
「……落ち着きましょう。身体を起こして、ゆっくり息を吸いましょう。まずは浅くても大丈夫です。自分のリズムを思い出して」
耳元で聞こえるその人の声に集中すると、不思議と周りの音が小さくなる。
その声を頼りに、ゆっくりと息を吸う。
呼吸に合わせて、背中から伝わる感触が身体に流れていく。
静かな水が、詰まった音を流すように巡る。
「いいですよ、そのまま続けましょう。ゆっくり、少しずつ深く呼吸しましょう」
数回繰り返すと、身体はだいぶ楽になった。
顔を上げて、隣に目を向ける。
眼鏡の奥の蒼藍の瞳は、静かにこちらを見つめている。
肩から掛けられた藍色の布は、治療院の人が掛けているものに似ている。
「落ち着いたようですね。まだ顔色が悪いです、しばらく休んでいかれた方が良いでしょう」
深い水のような声だ。
この人が身体に触れているからか、この人の音がより強く聞こえる。
「……いえ、すぐ近くなので、向かいます」
また市場へ戻るより、向かってしまった方が静かだ。
いなかったら、どこかで休んでから帰ればいい。
「どちらに?」
「アベリスの離れに……」
まったく動かなかった表情が、一瞬だけ反応した。
「離れ……ルティナ殿のお知り合いですか?」
「はい」
「今日はまだお戻りではないと思いますが……ちょうどいい、アベリスに帰る者がおりますので、付き添ってもらいましょう」
その男性はゆっくりと立ち上がり、背中に手を添えたまま立たせてくれた。
無表情だが、彼の音はとても穏やかで深い。
眠りに誘われるような心地よさだ。
「レイラン! こちらのお嬢さんを、離れまでお送りして下さい」
思わぬ名前に、全身が強張った。
それが伝わったのか、その人は不思議そうにこちらに目を向けたが、気付かなかったことにした。
小走りに近付いてくる足音で、その人だと分かる。
「……リシェ?」
心臓が鳴った。
彼の声は、耳からではなく、身体の奥で響く。
「お知り合いですか? 少々体調が優れないようなので、丁重にお送りして下さい。一応、軽く調えはしましたが、身体の不調ではなさそうです」
「……分かった。ありがとう、イアム」
「あなたにお礼を言われるのはなぜでしょうか?」
「え、いや……その……、なぜだろうな」
無表情な彼は、ふっと笑って、浅く会釈をして歩いて行った。
その背中を見送ったあと、レイランは呟くように呼んだ。
「リシェ……?」
身体の奥で、レイランの声が響く。
確かに耳から聞こえているはずなのに、感じるのは身体だ。
身体に響いて、色を持つ。
この人の声は、自然に近い音を奏でる。
「うん、聞こえる」
「……体調が悪い?」
「ううん、音に……酔ったみたい」
「そうか、そうだよな。市場はうるさいもんな」
いつもより、レイランとの距離が遠い。
手を取って会話するのが当たり前だったからか、この距離がやけに遠く感じる。
境界が出来てしまったように感じるのは、なぜだろう。
父さんの声が遠くなって、寂しかった。
でも、レイランの声は、変わらず内側から聞こえる。
それなのに。
この距離が、こんなにも遠く感じる。
「慣れれば、大丈夫。初めて街に来るのに、ひとりは無謀だったみたい」
「徐々に慣らしていこう。まだ3日だろ?」
「うん。さっきの人にも、お礼を言えなかった……今度会いたい。すごく優しい音がして、落ち着かせてくれた」
「イアムか。最近はずっとアベリスの執務室にいるから、またすぐ会えるよ」
「そう……」
なぜか、視線を上げることが出来ない。
手を取っているときの方が、ずっと自然に話ができた。
相手の感情が、前ほど分からないからだ。
手を取っている方が、感情が強く伝わる。
だから安心して会話が出来ていたのかもしれない。
不安が胸に広がる。
相手の感情が分からないと、こんなにも言葉が難しい。
父にも、母にも、ショウやシノにも感じなかった。
レイランに対して感じるこの不安を、どうすればいいのか分からない。
「リシェ」
地面を見ていた視界に、レイランの手が見えた。
それは以前と同じように、手のひらを上に向けて差し出された。
「こっちの方が……話しやすいのは、わたしだけかな」
レイランの感情は分からないのに、なぜ伝わってしまうのか。
せっかく聞こえるようになったのに。
前のままの方が良かったと、思ってしまいそうだった。
胸に広がった不安を押し流して、安堵が溢れ出す。
震える手を、おそるおそる伸ばす。
レイランの手の感触は、彼の感情そのままだった。
手から伝わる大好きな音は、何も変わらずそのままだ。
「レイラン……なんか、鼓動が速くない?」
「なぜだか、緊張している」
「今さら?」
「手を繋ぐって、結構特別なことだと思う」
「手を、繋ぐ……?」
「ああ、今までは理由があって手を取ってた。これは理由なんてないだろ」
「理由がないと、手は繋がないものなの?」
「……どうだろう。わたしはリシェ以外の女性と、手を繋いだことはないが」
レイランはほんの少し不満げに、目を逸らした。
どうやら、彼は照れているらしい。
「……そういうものなんだ。手を取ると、手を繋ぐは、違うんだね」
肩の力が抜けて、思わず笑みがこぼれる。
手を引いて歩き出す彼の横顔は、ほのかに紅く見える。
「レイラン」
「ん?」
「声が聞けて、嬉しい」
「ああ」
「手を繋いでくれて、ありがとう」
レイランは言葉を返さない。
繋いだ手からは、しっかりと鼓動が波打つのを感じた。
―その声が届く日― 巡了
お知らせ
8月からは更新のペースを変更いたします。
毎日更新ではなくなりますが、
これからも一話一話を大切にお届けできればと思います。




