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オル・トア ―精霊の往く先―  作者: 流留架
―その声が届く日―
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103/117

蒼の季 向夏-21.音色。

 ルティナの指先が動くたびに、今までとは違う音が鳴る。


 これが、聞こえているということなのか、分からない。

 内側に伝わる振動と重なって、別の何かが混ざる。


 届いては消え、また届く。


 後ろからは、ルティナの息遣いを感じる。

 指先が触れているからだろうか。

 それは、今までと変わらない振動として身体に響く。



 ルティナが手を離した。

 左側へ動いていくのが、床から伝わる振動で伝わる。



「――リシェ」



 ――音が届く。

 意識外から飛んでくる音に、身体が反射で強張る。


 音が、やって来る。

 音には、距離がある。


 世界は、自分の外側にあった――。



 初めて自分の耳で聞いたのは、父の声だった。


 父の声が、遠かった。

 その距離が、少しだけ寂しい。

 内側から聞こえる声よりも、ずっとずっと、柔らかかった。



「父さん」


 自分の声が近い。

 自分の声が、世界で一番近い音だ。


「リシェ」

「うん」

「……リシェ」

「父さんの声が、遠い」


 みるみる顔が歪んでいく。

 ぐしゃぐしゃになった顔で、目の端から伝う涙を気にも留めず。

 床を踏み鳴らして駆け寄ってくる。

 その音は自分のすぐそばで止む。


「リシェ……」


 ぎゅうぎゅうに抱き締められ、耳元で聞こえた父の声は、それでもまだ遠かった。






 音が耳に届き、目が覚める。


 父の声が大きいのは、想像通りだった。

 母の声は小さくて、遠くまで届く。 

 音の届き方で、どこにいるかが分かるのは便利だ。



 あれから3日ほど過ごした。

 世界には音が溢れているのかと思ったが、耳に届く音は意外なほど少ない。


 自分の感じる音は、人よりも少ないのだと思っていた。

 でも、そうではなかった。

 耳には届かない、音にならない振動が、世界には溢れている。


 風が吹く、水が流れる、木が軋む、土が動く。

 こういう自然の中にある気配は、耳には届かない。

 身体に届いて音になる。

 感じ方は今までと同じだった。


 自分の世界になかったのは、人の音だけだった。


 山の中にある家で過ごしていても、それほど違和感を感じない。

 意識の外から声が飛んでくるのにも慣れてきた。



 そう思うと、人はもっと静かな世界にいるのかもしれない。

 人が少ない森や山を、人が静かだと言うのは、そういうことだったのだ。


 身体に届く音が溢れているのが、人の少ない場所。

 耳に届く音が溢れているのは、人がたくさんいる場所。


 街に行くのが少し怖い。

 きっとあそこは、自分の知らない音が押し寄せて来る場所だ。



「おはよう」

「おはようリシェ。今日はよく眠れたみたいね」


 パンの焼ける香ばしい香りが、部屋いっぱいに立ち込めている。

 鍋の蓋がカタカタと音を鳴らし、蓋の縁から湯気が上がる。

 火を止めて振り返った母は、嬉しそうに尾を揺らした。


「うん、だいぶ慣れた。いい匂い。父さんは?」

「外で店に行く準備。今日はリシェも行くのね?」

「うん。あれから、まだちゃんと話せてない。心配してると思う」


 治療を終えた後、ルティナは気を遣ってくれたのか、すぐに帰って行った。

 父がぐしゃぐしゃになって、なかなか離れてくれず、お礼も言えないままだ。


 会いたい。

 ちゃんと聞こえるようになった姿を見せたい。


 ルティナの声も、ちゃんと聞きたい。



「ルティナさんに、会ってみたいわ。きちんとお礼も伝えたいし……遊びに来てくれないかしら」

「ここに?」

「遠い? 無理かしら」

「喜んで来てくれると思う」

「そう? じゃあ聞いてみてくれる? うちはいつでもいいし、何人でも、何頭いてもいいから」

「あははっ。そうだね。人と魔獣の数が同じくらいになりそう」


 母が人を呼ぼうとするのは珍しい。

 アルデニアには獣人が多くないせいか、嫌な思いもしたのだと思う。

 父と出会って、アルデニアで暮らすことを決めた頃に、山の中にあるこの家に移り住んだ。

 

 そんな母でも、ルティナには会いたいと思ってくれている。

 それが、なんだかくすぐったい。

 友達を親に合わせるというのは、こういうものなのだろうか。


「ジェイドは大丈夫かな……スヴェルフとヤクモの混血の子がいるの」

「大丈夫じゃない? ラウラは平気なんでしょ? だったら怒らないと思うけど」

「でも、ヤクモとはいつもケンカしてない?」

「ああ、あれはもう挨拶みたいなものでしょ」


 朝食を食べている横で、母はずっと笑っている。

 おおらかで、どこかふわふわとしている母は、我が家の癒しだ。

 母が家にいると、自然と動物や魔獣が集まって来るのは、彼らにとってもここが心地よい場所なのだろう。



「リシェ、そろそろ行くぞ」


 扉を開けた父は、すでに準備を終えたようだ。

 奥には鞍を付けたジェイドの姿が見える。


「気を付けてね。そろそろエールがなくなるわよ。帰りに買ってきたら?」

「分かった、樽はまだあるか?」

「ええ、まだ大丈夫」


 母は、扉の横にある引出しから何かを取り出した。

 手にあったのは、新しい耳当てだ。


「大丈夫ならいいけど、一応持って行きなさい。耳の所に、遮音の石を入れてあるから」

「うん、ありがとう」


 母が作ってくれた耳当ては、真新しい革の匂いがする。

 リシェに合わせて、少し小さめに作られた耳当てを首に掛ける。


「行ってきます」

「ルティナさんに聞いてね。楽しみにしてるって伝えて」

「わかった」



 ラウラに跨ると、風の音が聞こえた。

 乾いた風の音は、雨の季節の終わりを告げる。

 

 走り出したジェイドを追って、ラウラが走り始める。


 土を蹴る音。

 風が木を揺らす音。

 鳥の羽ばたく音。


 身体に届く心地良い振動は、いつもと変わらず音を伝えていた。




 王都の門が見えると、ジェイドはいつものように裏へと走る。

 店の裏の城壁を越えて、直接店がある裏道に入るのが彼らのルートだ。


 城壁に沿って走るだけで、人の音がする。

 家にいる時は気にならなかった、まだ知らない音だ。



 城壁を越え、店の屋根へ飛び移る。


 耳に届くのは、遠くのざわめきだ。

 遠くに見える景色のような音――この街の背景のような音。


 店のある裏道には人が少ないお陰で、それほど違和感は感じない。


 ルティナも、完全に回復は難しいと言っていた。

 聞こえるようになっても、すべては聞こえていないのかもしれない。



「おはようザハルさん、今日は早いんだねぇ」


 突然聞こえた声に、思わず身体が跳ねる。

 父に話しかけたのは、店の看板を持って出て来たショウだ。


「おう、おはよう。娘を慣らすためにな」

「慣らす? リシェちゃんがどうかしたのかい?」


 父の後ろを覗き込むように、ショウは不思議そうに首を傾げる。


「おはよう、ショウさん」


 ショウは笑顔で頷くだけだ。


「ショウさん、耳、聞こえるようになったの」

「ええっ? そりゃ……すごいじゃないか。良かったねぇ、そんなこともあるんだねぇ。シノ! ちょっと出ておいで」


 ショウの声は、少し掠れたいい声だった。

 父の声よりも控えめで、さわさわと鳴る葉擦れのような感触だった。


「はいはい、何どうしたの? あら、おはようございます」


 シノはふんわりと広がる声で、その場を包んだ。

 2人の声は、同じ質感で重なり合い、互いに響きを返すようだ。


「リシェちゃんがね、聞こえるようになったんだって」

「えっ? ええっ? 良かったわね、そんなことがあるのね」


 シノは軽い足音を響かせて、リシェの手を取ろうとする。


「あ、もう手を取っちゃだめね。聞こえるんだものね」


 恥ずかしそうに手を引っ込めるシノは、これでもかというほど目尻を下げて笑顔を見せる。


「聞こえるけど、手は取ってもいいよ。シノさんの手は優しいから好き」

「あら……嬉しいわ」


 シノは両手でリシェの手を握る。

 声だけでも充分伝わっていた感情が、体温と一緒に身体に染みる。


 温かい。

 シノとショウは、陽だまりのような人だ。


「ありがとう。2人の声が聞けて……嬉しい」


 人の声は、自分が思うよりずっと――

 その人それぞれの、感触と感情があった。




「あ、そうだ。昨日ね、ザハルさん早めに帰ったろ? その後訪ねて来た人がいたよ」


 看板を拭いていた手を止めて、ショウは思い出したように父を見上げる。


「そうか? 昨日は何も約束はなかったはずだが……」

「様子を見に来ただけだって言ってたから、また来るんじゃないかね? あの人はマメな人だから」

「どこの人だ?」

「アベリスの若い子だよ。畑のことで世話になったんだけど、それ以降ちょくちょく様子を聞きに来てくれるんだよ」

「ユアンか? レイランか?」

「レイランさんだよ。なんだ、知り合いだったのか……もしかして、リシェちゃんを治してくれたのは、銀髪のお嬢さんかい?」


 ショウは立ち上がり、何かが繋がったように声を大きくする。


「……ああ」


 父の短い返事に、ショウは深いため息とともに頷いた。


「あの子は……不思議な子だね。うちもお世話になりっぱなしだよ。シノの身体も治してもらって、駄目になりかけていた畑まで助けてもらったんだ」

「そうだったのか」

「うんうん、本当に……いい子だよねぇ」

「間違いねぇな」


 ショウと父の笑い声が重なった。

 その音から伝わる彼らの思いは、確かに、自分の中にもあった。




 午後の鐘の音は、空気を震わせて伝わる。

 その音は、耳で聞いてもそれほど違いはなかった。


 ルティナはどこにいるだろうか。

 最近は、午後には離れに戻ることが多いと言っていた。

 予定が分からない。

 会いに行ってもすれ違ってしまうかもしれない。


 それでも、早く会いたい。


「父さん、ルティナに会いに行ってくる」

「おいおい、まだ街には出てないだろ。……ひとりで大丈夫か?」

「母さんの耳当て持って行く。無理そうだったら戻るから」


 不満げなのは伝わるが、父は静かに頷いた。



 外に出ると、ここ最近では珍しく、空は真っ青に晴れている。

 遠慮のない陽射しが、肌に重く刺さる。


 アベリスの敷地に行くには、市場の端を抜けて城下を通る必要がある。

 たくさんの人がいる場所を通るのは、さすがに少し怖い。


 一歩近づくごとに、街のざわめきが大きくなっていく。

 聞き取れなかった声が、少しずつ輪郭を持ち始める。


 音が、迫って来る。


 自然の音と違って、人の声は方向がはっきりしている。

 ただそこに在るのではなく、何かに向かうのが声だ。


 自分の中を、無遠慮に通り過ぎていく音が、身体を揺らす。

 四方八方から飛び交う音が、勝手に耳に飛び込んでくる。

 

 すべてが同じ音量で、耳の奥でごちゃまぜになるようだ。


 ――頭の中が、ぐわんと大きく揺れた。

 喉の奥から何かが上がって来そうになるのを、必死に抑える。


 音の多さに、頭が、身体がついていけない。


 地面が揺れる。

 目の前が回る。


 立っていると倒れてしまいそうで、なんとか道の端に避けてしゃがみ込む。

 胸が苦しい。

 ゆっくりと息を吸おうとするが、なかなか入ってこない。



「お嬢さん、大丈夫ですか?」


 不意に背に手が添えられ、知らない声が聞こえた。


「……大丈夫、ちょっと気分が悪くなっただけ」


 必死に絞り出した声は、到底大丈夫な声ではなかった。

 背中に添えられた手から、ひんやりとした感触が身体を伝う。


「……落ち着きましょう。身体を起こして、ゆっくり息を吸いましょう。まずは浅くても大丈夫です。自分のリズムを思い出して」


 耳元で聞こえるその人の声に集中すると、不思議と周りの音が小さくなる。

 その声を頼りに、ゆっくりと息を吸う。


 呼吸に合わせて、背中から伝わる感触が身体に流れていく。

 静かな水が、詰まった音を流すように巡る。


「いいですよ、そのまま続けましょう。ゆっくり、少しずつ深く呼吸しましょう」


 数回繰り返すと、身体はだいぶ楽になった。


 顔を上げて、隣に目を向ける。

 眼鏡の奥の蒼藍の瞳は、静かにこちらを見つめている。

 肩から掛けられた藍色の布は、治療院の人が掛けているものに似ている。


「落ち着いたようですね。まだ顔色が悪いです、しばらく休んでいかれた方が良いでしょう」


 深い水のような声だ。

 この人が身体に触れているからか、この人の音がより強く聞こえる。


「……いえ、すぐ近くなので、向かいます」


 また市場へ戻るより、向かってしまった方が静かだ。

 いなかったら、どこかで休んでから帰ればいい。


「どちらに?」

「アベリスの離れに……」


 まったく動かなかった表情が、一瞬だけ反応した。


「離れ……ルティナ殿のお知り合いですか?」

「はい」

「今日はまだお戻りではないと思いますが……ちょうどいい、アベリスに帰る者がおりますので、付き添ってもらいましょう」


 その男性はゆっくりと立ち上がり、背中に手を添えたまま立たせてくれた。

 無表情だが、彼の音はとても穏やかで深い。

 眠りに誘われるような心地よさだ。


「レイラン! こちらのお嬢さんを、離れまでお送りして下さい」


 思わぬ名前に、全身が強張った。

 それが伝わったのか、その人は不思議そうにこちらに目を向けたが、気付かなかったことにした。


 小走りに近付いてくる足音で、その人だと分かる。


「……リシェ?」


 心臓が鳴った。

 彼の声は、耳からではなく、身体の奥で響く。


「お知り合いですか? 少々体調が優れないようなので、丁重にお送りして下さい。一応、軽く調えはしましたが、身体の不調ではなさそうです」

「……分かった。ありがとう、イアム」

「あなたにお礼を言われるのはなぜでしょうか?」

「え、いや……その……、なぜだろうな」


 無表情な彼は、ふっと笑って、浅く会釈をして歩いて行った。



 その背中を見送ったあと、レイランは呟くように呼んだ。


「リシェ……?」


 身体の奥で、レイランの声が響く。

 確かに耳から聞こえているはずなのに、感じるのは身体だ。

 身体に響いて、色を持つ。

 この人の声は、自然に近い音を奏でる。


「うん、聞こえる」

「……体調が悪い?」

「ううん、音に……酔ったみたい」

「そうか、そうだよな。市場はうるさいもんな」


 いつもより、レイランとの距離が遠い。

 手を取って会話するのが当たり前だったからか、この距離がやけに遠く感じる。

 境界が出来てしまったように感じるのは、なぜだろう。


 父さんの声が遠くなって、寂しかった。

 でも、レイランの声は、変わらず内側から聞こえる。

 それなのに。

 この距離が、こんなにも遠く感じる。


「慣れれば、大丈夫。初めて街に来るのに、ひとりは無謀だったみたい」

「徐々に慣らしていこう。まだ3日だろ?」

「うん。さっきの人にも、お礼を言えなかった……今度会いたい。すごく優しい音がして、落ち着かせてくれた」

「イアムか。最近はずっとアベリスの執務室にいるから、またすぐ会えるよ」

「そう……」


 なぜか、視線を上げることが出来ない。

 手を取っているときの方が、ずっと自然に話ができた。


 相手の感情が、前ほど分からないからだ。

 手を取っている方が、感情が強く伝わる。

 だから安心して会話が出来ていたのかもしれない。


 不安が胸に広がる。

 相手の感情が分からないと、こんなにも言葉が難しい。

 父にも、母にも、ショウやシノにも感じなかった。


 レイランに対して感じるこの不安を、どうすればいいのか分からない。



「リシェ」


 地面を見ていた視界に、レイランの手が見えた。

 それは以前と同じように、手のひらを上に向けて差し出された。


「こっちの方が……話しやすいのは、わたしだけかな」


 レイランの感情は分からないのに、なぜ伝わってしまうのか。


 せっかく聞こえるようになったのに。

 前のままの方が良かったと、思ってしまいそうだった。


 胸に広がった不安を押し流して、安堵が溢れ出す。


 震える手を、おそるおそる伸ばす。

 レイランの手の感触は、彼の感情そのままだった。

 手から伝わる大好きな音は、何も変わらずそのままだ。


「レイラン……なんか、鼓動が速くない?」

「なぜだか、緊張している」

「今さら?」

「手を繋ぐって、結構特別なことだと思う」

「手を、繋ぐ……?」

「ああ、今までは理由があって手を取ってた。これは理由なんてないだろ」

「理由がないと、手は繋がないものなの?」

「……どうだろう。わたしはリシェ以外の女性と、手を繋いだことはないが」


 レイランはほんの少し不満げに、目を逸らした。

 どうやら、彼は照れているらしい。


「……そういうものなんだ。手を取ると、手を繋ぐは、違うんだね」


 肩の力が抜けて、思わず笑みがこぼれる。

 手を引いて歩き出す彼の横顔は、ほのかに紅く見える。


「レイラン」

「ん?」

「声が聞けて、嬉しい」

「ああ」

「手を繋いでくれて、ありがとう」


 レイランは言葉を返さない。

 繋いだ手からは、しっかりと鼓動が波打つのを感じた。






     ―その声が届く日― 巡了



お知らせ


8月からは更新のペースを変更いたします。

毎日更新ではなくなりますが、

これからも一話一話を大切にお届けできればと思います。

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