蒼の季 向夏-19.信頼
4人で食卓を囲んで食べ始めると、あっという間に食器は空になった。
よほど空腹だったのか、ほとんど話をしないまま食べきっていた。
リシェの作ったアオの酢締めは、絶妙な半生で驚くほど食べやすかった。
森暮らしのルティナにとって、魚はあまり馴染みがない。
ぜひ覚えておきたいレシピだ。
食べ終わってようやく落ち着くと、今度は会話と共にエールが進む。
気付くと、箱で買ってあったエールはほとんど飲み切ってしまっている。
ユアンもレイランも、エールを飲んでいるのを見た覚えがない。
エールは、どちらかと言えば庶民が好む飲み物だと思う。
でも、今の時期にはワインよりも絶対にエールが良い。
爽やかな苦みと喉越しの良さ、強くないお酒というのもあって、ぐびぐび飲める。
何よりも、暑い中動き回る彼らには、この塩が良いのだと思う。
アベリス家のエールの消費は、今年から数倍になりそうだ。
「このエール、夏には欠かせなくなる気がする……」
ユアンは、何杯目かも分からないエールの、最後のひと口を飲み干した。
「ユアン様がそこまでお酒を飲むのは珍しいですね。あまり好きじゃないのかと思っておりました」
「嫌いじゃないんだけど、そこまで飲みたいとは思わなかったんだよなぁ。でも、このエールはいくらでも飲める」
4人で会話をしようとすると、どうしてもリシェが話しにくくなる。
でも、リシェは音から判断しているのか、ある程度の空気で分かるのか、口数は少ないものの会話を楽しんでいるように見えた。
「父さんは、瓶に直接塩を入れて、八つ切りの柑橘を飲み口に差し込んで飲んでるよ。わざわざコップにつぐのが面倒みたい」
「外ならその方が楽かもな」
「うちは、外の湧水でエールを箱ごと冷やすから、夕飯は外で食べることが多いかも」
「似合い過ぎるな。飲む量もすごそうだもんな……」
リシェはエールを飲み切って、残った柑橘だけを口に含む。
直接食べるにはかなり強い酸味のはずだが、リシェの表情は変わらない。
「父さんも飲むけど、母さんの方が飲むよ。母さんは途中から、大麦の蒸留酒になるけど。うちには、蒸留酒が樽で置いてあるんだ」
ユアンとレイランは目を丸くして、声を上げて笑った。
「リシェのお酒好きが分かったので、明日はおつまみ系を作りますね。父がお酒をよく飲んでいたので、そういう料理の方が得意かもしれません」
隣に座っているリシェは、目を輝かせ、満面の笑みで抱き付いてくる。
リシェはずっと上機嫌で、食べ終わってからも、ずっとぴったりと身体を寄せている。
お酒で楽しくなるタイプだ。
「仲が良いとは思っていましたが、随分と打ち解けましたね」
エールをのんびりと飲んでいるレイランは、食後の気怠さに浸っている。
レイランも、ここでは姿勢を崩して過ごすようになった。
レイランの言葉の雰囲気を感じ取ったのか、リシェは笑顔のまま、ルティナの肩に頭を乗せる。
お酒に酔ったというより、この雰囲気に酔っているのかもしれない。
全身から純粋な楽しさが伝わって来る。
その姿を、3人が同じ視線で見つめていた。
楽しく話をして、お腹も落ち着いてくる頃には、いい時間になっていた。
ルティナに寄りかかったリシェの身体は、完全に力が抜けきっている。
とろんとした目は今にも閉じてしまいそうだ。
明日のことを考えるとそろそろ解散した方が良いと思うが、リシェはどうするのだろう。
このまま寝かせてあげた方が良い気もする。
リシェの様子を気にしていたレイランが立ち上がる。
「リシェ? そろそろ送って行くぞ」
「うん……」
全力で不満げな声を出す。
「リシェ? 泊まっていきますか?」
半分閉じかけている目を必死に開けて、リシェは首を振った。
「店にラウラがいる……今日はラウラと一緒に店で寝る……」
「寝る所はあるのか?」
「2階に……長椅子がある。ラウラもあったかいから。今から帰るのは無理……」
やっとのことで身体を起こしたリシェは、小さく息をついた。
水を1杯渡すと、それを半分ほど飲んでから、意を決したように立ち上がる。
思ったよりも、真っ直ぐ立てている。
やっぱり、酔っているというわけではなさそうだ。
「歩けるか?」
「大丈夫」
帰ることを意識したのか、リシェはいつもの静かな雰囲気に戻ってしまった。
なぜか少し残念に感じるのは、無防備な姿を見られた特別感だろうか。
「ルティナ、ごちそうさま。楽しかった。本当に……明日も来ていいの?」
「もちろんです。明日は泊まれるように準備して来たらどうですか? その方がゆっくりできそうですし……少し、相談したいこともあるので」
「……わかった。そうする」
微かに笑って、握っていた手を名残惜しそうに離した。
「では、リシェを送ってきます。明日、エールを箱で持ってきます」
レイランは冗談っぽく言ったが、きっと本気だ。
「ユアン様、明日も来る?」
「ん? ああ、今日よりも早く来られると思う」
「じゃあ、また明日ね」
「ああ、気を付けて」
レイランはユアンと目を合わせてから、リシェの手を引いて離れを後にした。
「リシェ、空気がほぐれたね」
食器を洗うルティナの後ろで、空き瓶を箱へ片付けて、ユアンは戸口の外へ箱を運ぶ。
「お酒は相当強そうですが、今日は楽しい雰囲気に酔っていたみたいですね」
「ずっと距離が近かったもんね」
「エールを飲み始めてからずっと……慣れ始めた猫のようでした」
「ははっ、確かに。ルティナの隣が定位置になってたね」
片付け終わってひと息つくと、いつもの離れがやけに静かに感じる。
人の余韻は、そこに人がいたことを思い出させる。
それと同時に、帰ってしまった後の、がらんとした空気も際立たせるものだ。
「明日もいらっしゃいますか? 夕食をご一緒出来るなら、おつまみ以外も用意しておきますが……」
「来るつもりだよ。明日は山の様子を見に行って、帰ってきてからはずっと執務室だと思う。山はルティナも一緒に行く予定になってたよね? 戻ってからは部屋に籠るから、軽い食事でも構わないよ」
明日はエデュードたちと一緒に、山の経過を見に行く日だ。
早いもので、ヒユイベニシダを植えてからもう三巡だ。
山の土や植物に、そろそろ大きな変化があってもいい頃だと思う。
「……あの、ずっと考えていることがあるのですが、聞いて頂けますか?」
「もちろん」
ルティナはユアンの横に座る。
「タヤ様やヨダ様に、何かお返しをしたいとお話していたと思うのですが……石、はどうでしょう?」
「石? 天然石ってこと?」
「いえ、魔素が馴染んだ石ではなく……霊素が留まっている石です」
ドワーフの洞窟で、フウの石に身を寄せていたチノワを見て思ったことだ。
チノワの身体に集まっていた陰の霊素が、石飾りで散ったように思えた。
霊素に効果があるのなら、大きくなる前の霊素溜まりにも効果があるのではないだろうか。
「陰の石と陽の石。片方だけでは、逆に偏りの原因になってしまう可能性があります。でも、両方一緒にしておくと、お互いに作用し合って中庸に保たれる。これなら、保管しておくことに危険はありません。森に暮らす彼らであれば、小さな変化に気付けるはずです。溜まりが育つ前に対処することができれば、調律や響律が必要なほど大きな問題にならないのではないかと……」
「なるほど」
ユアンは顔を上に傾けて、考えるように目を閉じた。
まだ、実際に試せていない。
霊素の溜まりは、そう頻繁に見かけるものではない。
だが、タヤの森と平原、短い期間で2回も出会っている。
自然の濃い場所に暮らすドリアードは、どうしても霊素の異変に出会うことが多くなってしまう。
巡りの中で生まれた石なら、彼らにとって邪魔なものにはならないのではないか。
「あの陰陽石って、リシェが持っていたものだよね? ドワーフから買い付けたんだっけ?」
「そうだと思います。リシェも珍しい石だと言っていました。多く出回るものではないのかもしれませんが……霊素を感じない人にとってはただの石ですし、使い道もそうありません。採掘されていないということもあり得ると思います」
「そうか、必要がなければ、ただの綺麗な石だもんな」
どこで採掘されたのかは分からないが、その近くにもチノワがいたのではないだろうか。
チノワであれば霊素に反応するはずだ。
「まずは確かめてみたいね。溜まりじゃなくても、霊素にどう影響するかが分かれば予測はできるし、山で試してみよう。フェンとフウも一緒ならちょうどいい」
彼は自信ありげに笑った。
ユアンが同じように考えてくれるのなら、これは間違っていないと思える。
霊素のことを相談する相手が身近にいるのは心強い。
「ありがとうございます。ほっとしました」
頭の隅で考えていたことに先が見えて、ふっと肩から力が抜ける。
緊張していたのに気付いていたのか、ユアンは安心したように表情を緩めて立ち上がる。
「じゃあ、明日の朝迎えに来るよ」
「はい、ゆっくりお休みください」
「ありがとう。ルティナもね」
ユアンはルティナの髪を撫でて、屋敷へと戻って行く。
彼の距離感も、以前よりも近くなった気がする。
“ユアン様”と呼んでしまいそうで、名前を呼ばなくなっているのも気付かれているだろう。
見えなくなった背中を気配で追いながら、自然に呼べるようになるにはまだ時間が必要だと、小さく息を吐いた。
深夜に降った雨が山を潤し、土の匂いが立ち込めている。
白い靄の残る景色には、吹き抜ける風の道が見える。
落ち葉が丁寧に混ぜ込まれた土は、あの頃とは比べようもないほど柔らかだ。
足に伝わる感触が優しい。
土の中に、小さな命を感じる。
大きく息を吸いこむ。
思わず深呼吸したくなるような、澄んだ空気だ。
「巡り始めていますね。土も、風も、この山を感じます」
「……今、ルティナ殿の言っていたことが改めて理解できる。確かにここはずっと眠っていたのだと」
エデュードはルティナの隣で、動き始めた山を全身で感じている。
ずっと見守って来た山だからこそ、その違いが分かるのだろう。
「動物や魔獣の気配はありませんが、鳥の声が……聞こえますね」
後ろで感覚を澄ませていたファムは木々を見上げる。
確かに、以前は居なかったはずの鳥がいる。
「ええ、鳥たちが戻って来たのなら……動物も暮らせる環境になっているはずです。ここからは自然に任せていれば、うまく巡っていくはずです」
もう、人の手は必要ないだろう。
止まった巡りを動かすのが大変なように、動き出した巡りも止まることはない。
魔素噴出から、わずか2年でここまで回復するなど聞いたことがない。
彼らの献身が、この山を導いた。
「それを聞いて安心いたしました。今後は、貯水湖の定期調査の折に、経過を見ていこうと思います」
エデュードたちはひとしきり麓の調査をして、貯水湖へ向かって行った。
この麓一帯は、山全体の中でも陰が強い。
木が茂り、陽射しを遮るからというのもあるが、風の動き方にも理由がありそうだ。
平原の風は山には回らず、貯水湖に降る陽射しは湖が受け止める。
麓の大地は、山に降った雨を蓄えて、陰に寄っているのかもしれない。
「陰が濃い場所で、陽の石からの反応を確認しよう」
ユアンはアウリスから降りて、感覚を広げていく。
水場の先、ひと際大きな木の根元で、ユアンは立ち止まった。
「フウ、ちょっと来てくれ」
ユアンの声に耳を向けると、フウは軽く地面をひと蹴りして木の根元に降りた。
じっと彼を見つめ、理解したようにその場所に伏せた。
ユアンが離れるのを待ってから、ルティナは目を凝らす。
偏っているというほどの濃さではない。
肌がひんやりとする程度の陰が、木の根元に漂っているだけだ。
しばらく見ていると、徐々にフウの周りの色が変わっていく。
集まった陰の霊素が解けて、はらはらと散っていく。
陰が薄れたところには、陽の霊素が引き寄せられているようだ。
まるで、とても淡い天楔のようだ。
陰陽石は、律月と天楔の力を、とても淡くしたような効果があるのかもしれない。
「すごいな、ルティナの言った通りだ。強い力ではないけど、霊素に作用している」
「はい、この石がどれほどの強さなのかも知りたいです。特別に強い石なのか、もっと強い石があるのか……」
「そうだね。一度ドワーフに聞きに行ってみよう。これが使えるなら、ドリアードの役にも立ちそうだ……」
ユアンの声が、曇った気がした。
その意味は分かる。
いくら淡いとはいえ、扱いには注意が必要なものだ。
間違えれば、霊素溜まりを作ってしまうこともあるかもしれない。
渡す相手も、扱い方も、充分に考える必要がある。
そして、これを作ったリシェのことも。
「ユアン様、この石……リシェが加工をしているのです。最初に触れたときは感じませんでしたが、今は石の中で霊素が巡っています……石に直接というより、石を嵌めている台座の方に……記憶の力を感じます」
ユアンとレイランは目を見開き、言葉を失っている。
「その加工がないと、こうはならないってこと?」
額を手で押さえ、目を伏せるユアンは、やれやれといった表情だ。
「ならないとは思いませんが……効果は高くなっていると思います」
「ルティナはいつ、それに気付いた?」
「ドワーフの洞窟から帰った後、フウの石飾りを改めて確認して……」
「……陰陽石じゃないと、意味がない加工?」
「はっきりとは分かりませんが……魔素を遮断しているようなので、他の石だと逆に良くないのではないでしょうか」
レイランは堪えきれずに、深い深いため息を吐いた。
「女性の技術者というのは……新しい技術を生みやすいのでしょうか……」
「いや、ルティナとリシェが、たまたまそうだっただけだろ……」
「確かに似ていますね。凝り性で、妥協をせず、突き詰めたくなる性分……」
「……兄上に報告することが増えたな……」
「リシェの紋も、そのうち必要になる気がしますね……」
2人は目を見合わせ、呆れたように笑い出した。
「ルティナ、このことは心の中だけに留めておいて。リシェに話をするときは、俺とレイランも同席する。できればザハル殿にも聞いてもらった方がいいかもしれない」
「……アルヴィン様に話す前に、リシェに状況を説明してはいけませんか? 大変なことになるなら、今後これを作らずに、今のままの生活をしたいと考えるかもしれません。……以前のわたしだったらそう考えると思いますし、わたしの父も、きっとそう願ったと思います」
その言葉に、ユアンは一瞬止まった。
「そうだね。リシェの気持ちを聞く前に、勝手に進めるところだった。すまない」
ルティナは首を振る。
最近のことを考えると、話を前に進めるのを優先したくなるのは理解できる。
自分ならそれでいい。
そうすることを選んだからだ。
でも、リシェはまだ何も知らない。
自覚もないと思う。
この技術がリシェにしかないものなら……
彼女の周りの環境が、大きく変わってしまうかもしれない。
陰陽石の需要がどの程度になるのかは分からないが、国としてはある程度の数を用意したいと考えるはずだ。
とは言え、用意したところで使える人は限られる。
霊素を感じられないのであれば、見える者がいないと使うことができないものだ。
ドリアードはおそらく、はっきりと見えてはいないが、感じることはできる。
ドワーフはチノワを通して認識し、知識として理解していた。
人以外の種族の方が、扱いやすいものかもしれない。
それを、どう判断して託すのか……。
ドリアードへの贈り物とすることさえ、大ごとになりそうだと思えてきた。
ユアンとレイランが真面目な顔で話すのを眺めながら、彼らと出会った頃のことを、ぼんやりと思い出していた。




