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炭化水素はCHAOSの始まり

 深夜に差し掛かった頃、ウィグナー邸のある貴族街には既に人影も無く、動くものといえば信号が時折刻む緩やかなパルスと、野生生物に反応したセンサーライトくらいであった。気まぐれに瞬きを繰り返す電光は、遠く瞬く恒星にも似ていた。


ベッドに腰掛けたまま、二時間ほど彫像の如く動かなかったカティは、ふと膝の上のタブレットから顔を上げ首を回した。その細いうなじから、意外なほどに大きく、関節が鳴る乾いた音が響く。

傍らで寝そべっていたツルバミは、顔だけもたげてカティを見上げた。


「もう眠りな、カティ。明日に障る。五家の前で欠伸を披露したいなら別だがね」

「ん、続きは明日の朝に読むね。ふわぁ……」

「緊張で眠れないってわけじゃないみたいだね」


ツルバミは体を起こし、真新しいタブレットを覗き込む。


「一体何をそんなに熱心に……?」

「これは有機化学。飛び級しようと思って」

「てっきり、明日のプレゼンに備えてるのかと」

「意味がないでしょ?あの人たちが知りたいのは、私が何をしたいかじゃないわ。『何が出来るか』ですらない――『何が出来るようになるか』、その資質よ、きっと。知らないこと、判らないこと、出来ないこと、今はまだ出来ていないこと。それを自認出来る人間かどうか。わたしが、育てるに値する存在かどうか」

「ならあんたはもう、五家の試問に合格したようなもんさ。……育てる価値か。人間の寿命を考えりゃ、まぁ、そうなるね」

「そこに向き合えない人間に伸びしろなんてないし。人間の脳は、そういう風に出来てるんだから」

「……脳というか、理解体系スキーマだね。なんとなく出来てるつもり、判ってる気分の奴が一番使いものにならん。自覚が無いから始末に負えない。あんたの言う通りさ」

「関わりたくないよね、そういう人。色々無責任で、自分勝手で、能力も無いのに無駄にプライドばっか高いんだもん。つっこむと大抵、『具体的に』って言葉から逃げるし。もしかして意味を知らないのかな?」


カティはぴょんと軽く勢いをつけて立ち上がり、窓辺に駆け寄ると、遠くに見える尖塔を指差した。


「まずはちょっとでもお兄ちゃんに追いつかないと。ねぇツルバミさん。明日、行くのはあの辺り?確か、王宮には専用の宇宙港があるんでしょ?そこに五家の別宅があるって、お兄ちゃん言ってたし」

「どこを指してるんだい?」

「あれ。管制塔かなって」

「ありゃ馬場のそばにある警備用の塔さ。管制塔は……こっからじゃ木の陰で見えないね。明日、面会の場になるのはパウリか、ルペルティエのとこだろう。いきなり内宮ってこたぁ無かろうし」

「だよね。どんなとこなのかな。ちょっと楽しみ」


カティはカーテンを閉め、そそくさとベッドに潜り込んだ。


「カティ。伯爵を継いで長官になるなら、嫌でも『下々』――数の濁流と関わらにゃならんよ。彼らにとって重要なのは、自身の成長や更新じゃない。誰かに『丸を付けてもらうこと』そのものさ。どんなに間違いだらけでも、認めたくない、認められない。普通なんて概念で誤魔化してるうちに、どんどん差が開いていくことすら気付けずに」

「だから衆愚、凡愚、って単語がどの言語にもあるんでしょ。……誠実じゃないから愚かなのか、愚かだから誠実じゃないのか、どっちが先なんだろ……あふ……」


問いかけの形をした独白は欠伸に飲み込まれ、カティはそのまま寝息を立て始めた。


ツルバミは、毛布の海に沈んだ背中をじっと見つめる。

認識のエラーを認め、シナプスを組み換える痛みに耐えることを、アップデートに抗う脳の恒常性ホメオスタシスと戦うことを、カティは「誠実」と呼んだ。だがその痛みを知らぬ者たちを導き、守ることもまた、彼女が望んだ地位に付随する責務である。


「……おやすみ、策士リトル・プロット。あんたの望む道には、泥も溜まれば虫も湧く。覚悟は……もう出来てるんだろうがね」


ツルバミはカティの家庭教師役でもある。明日の朝は早々に叩き起こされるのだろう。タブレットを見た限り、進み具合はベンゼン環の構造式が出てきたあたりか。


「……さ……」

「ん?」

「さぁ参上、目医者と、ササン朝ペルシャって、似てるー……にゃんにゃんロック、てしてしペルシャ猫」

「似てるかね?226年成立(にゃんにゃんろ)、首都はクテシフォン……あんた化学やってたんじゃないのかい?」

「ん……ホームセンターは管見記かんけんき……ある近所でアセチレンたいてあんず飴売ってます……」

「鎖式HC(炭化水素)のアル『カン』・アル『ケン』・アル『キ』ンってことかい?アセチレンは『アルキン』……語呂としちゃ管見記が微妙っつか、なんであんず飴?」


闇の中、すっかり目が冴えてしまったツルバミに応える声は無かった。




「ちっちっちー♪ベンゼン・トルエン・mーキシレン♪Oh、フェノール、どうしてあなたは微妙なの~」

「……フレデリコ?」

「なお水出してフェノキシド~、ほっこみしたらまた戻る~」

「もう、フレデリコ!」

「あ、エリーザさん」


奇妙な節をつけて歌っていたフレデリコはエリーザに肩を叩かれ、観客のいない独演会を終わらせた。


「ナイジェルは?一緒じゃないの?」

「あいつはジェスターと二人でヴィレンの歴史を調べ直しに行ってる。たぶん会議室でデータベース漁ってんじゃね?俺は別行動。視点を分けるにはまず居場所からって言うだろ」

「聞いたこと無いけど。歌ってたのは有機の語呂合わせね?」

「そ、受験勉強の時に作った奴。結構、自信作。トルエン仮面推しで参加したら、お料理できましたー、とか。コーチさん、玉乗りで汗散る気分……用があるのは俺?」

「フレデリコは入試で、化学を選択したのね」

「物理ともう一個、受けなきゃいけなかったから。ナイジェルは生物で受けてたらしいぜ」

「そう。ならフレデリコに、相談したいことがあるの」


薬学部生のエリーザは、フレデリコの歌を即座に芳香族化合物の語呂合わせと察した。用件はその話を続けることではない。だが、フレデリコが相談相手として、必要な基礎知識を備えていると判断するに足る、十分な材料にはなった。


「なら、って――化学ばけがく系の相談とかじゃないよな?専門外だぜ、俺」

「どうかなぁ」

「何その本気で迷ってる空気。どういうこと?」

「いいからちょっと付いてきて」

「うぇーい」


エリーザはフレデリコの腕を引っ張って歩き始めた。


「あの、エリーザさんや。そっち、立入禁止(Restricted)区域(area)なんですけど」

「別にこっち、機密に関するものは無いわよ?……あー、女性用の個室があるから……まいっか。私の部屋で話したいことなの」

「それこそノーエントリーでオフリミッツでアウトオブバウンズでキープアウトだっつの!俺の命が危ないんで、勘弁して。マッコイ提督に吊るされちまう」

「じゃあ、フレデリコの部屋で」

「結果は同じじゃねーか!せめてフルフルさん呼んで、頼むから」

「ならフルフルの部屋で」

「最初からそうしてくれよぉ……心臓に悪いっての。ついでにコロも呼ぶわ。つか、コロはどこ行ってんだ?」


フレデリコはバングルで現在地を知らせつつ、エリーザに導かれるまま居住区の通路を進んだ。しばらく歩いていくと、とある扉の前でちょこんと座っているコロの姿が見えてきた。おそらくそこがフルフルの部屋なのだろう。


「おーい、コロ」

「ちょうど良かったの。コロもお話したいことがあるの。中で話すの」


コロがドア横の操作パネルに尻尾を伸ばしたちょうどその時、ぷしゅっと圧縮空気の音がした。金属製のスライドドアが中から開けられ、不機嫌を隠そうともしないフルフルが顔を覗かせる。


「おめーら、人の部屋の前でごちゃごちゃと……」


認証パネルのわずか数センチ手前で静止している、コロの尻尾を見たフルフルは、さらに一段階眉間の皺を深くした。


「勝手に開けようとしてんじゃねえ!……まぁいい、とっとと入れ。まったくどいつもこいつも……」

「あー!コロも来たんだ!」

「フレデリコとエリーザまで……あ、お茶淹れようか?何飲む?」


フルフルの個室の中、ベッドの上であぐらをかいたナイジェルと、彼の膝の上で腹を撫でられるジェスターの呑気な声が、フレデリコたちを出迎えた。


「俺の部屋で、我が物顔で寛ぐな」


はー、とわざとらしくフルフルは息を吐いたが、追い出す気は無さそうだ。


「しみずおくる、ちょーおくる、しみずおくるゆっしー、なおさんとグリセリンが席捲する」

「なにそれ」


テウメッサ族に語呂合わせなど必要ないから、ジェスターにはフレデリコがただただおかしな言葉を呟いているようにしか映らない。困惑が声と揺れる尻尾に滲んでいた。


「フレデリコの脳内が化学チャンネルに占拠されてるだけよ」

「CHだけにチャンネルってか?冬休み明けに小テストやるって教授が告知してきてさぁ」

「そういう理由なのね。なら薬学生から一つ言わせてもらうわ。『おくる』は『OCR』なんでしょうけど、そこ、厳密には『COR』だからね?エーテル結合とカルボニル基でエステル結合作ってるんだから」

「うぃ、さんきゅー。今のツッコミで頭に叩き込まれたわ」

「何しに集まってきたんだよほんとに……」


フルフルはぼやきながらも部屋の明かりを二段明るくし、若者たちが『会議』しやすい環境を整えてやった。


「何しにってそりゃあ……ヴィレンをぶっ壊す相談しかないっしょ?」

「は?一体何を言って……」


フレデリコの言葉に一瞬、ぴしりと尻尾の先まで硬直したフルフルは、他のメンバーを見回した。ナイジェル、ジェスター、エリーザ、コロと順に様子を確かめるが、全員が平静そのものだ。


「うん、大体そんな感じだね」

「なぁんだ。でも気付いたのは俺様が一番早かった! 名探偵だろ? エリーザは?」

「私? 捜査の途中でそうなっちゃうかも、とは思ってるわ。コロは?」

「コロも。ジオフェンス・メッセージは演算のパラメータに加えてないの。ずるしてないの。〈ルサールカ〉のデータベースにも侵入してないの。ちょっとジルチナーダ・ステーションの通信ログを全部、洗わせてもらっただけなの。ぎりぎり合法なの」

「……マッコイを呼ぶ。いいか。奴が来るまで!一切!喋るんじゃねえぞ!」

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