第10話:審判の森(中編)
第三章
再開発の波からも見放され、地図から消えかけた都市の果て。
福島夫妻は、重い鉄の扉を軋ませ、深淵へと続く漆黒の館に足を踏み入れた。
地下へと続く階段を下りた先には、地上とは断絶された異界が広がっていた。
壁一面を埋め尽くす重厚な革装丁の本棚、微かに揺らめくシャンデリアの灯火。
大理石の床に落ちる影は、まるでそこに集う者たちの業を写し取っているかのようだった。
その奥、時代から取り残されたようなアンティークチェアには、二組の男女が身を預けていた。
彼らの顔からは生気が消え、絶望という名の深い皴が刻まれている。
俊彰は、彼らの指先が自分と同じ漆黒の手紙を握りしめているのを見て、すべてを悟った。
「私は、福島俊彰と申します。……あなた方も、私たちと同じ……家族を奪われた、遺族の方々ですね?」
絞り出すような俊彰の声に、一人の男が力なく会釈を返した。
「……鈴木充昭です。娘の紗菜は、看護師でした。ある日突然、職場での『急死』を告げられたんです」
鈴木は震える拳を膝に突き立て、血を吐くような思いを言葉に乗せた。
「上司の霧島という医者は、あろうことか遺体は本人の生前の希望で『献体』に回し、既に解剖実習に使ったと言い放った。……病院から突き返されたのは、娘の骨壺と、形ばかりの感謝状……。あの男の、慈悲を装った薄汚い笑みが、今も頭から離れない……!」
もう一人の男、佐々木昌樹も、怒りに焼かれた声で続いた。
「息子は、九条院副大臣の周辺を探っていたライターでした。……あの日、家宅捜索に現れた警視庁の久世という男……。奴は私の耳元で、冷酷に囁いたんです。『息子さんは、身の程を知らないからゴミになったんですよ』と。あの子は消されたんです! 無実の罪を着せられ、名前も、尊厳も、すべて泥を塗られて……!」
鈴木と佐々木の妻たちの、魂を削るような嗚咽が、冷たい館の空気に虚しく反響する。
長く、凍りつくような沈黙。
その静寂を鋭く切り裂いたのは、部屋の最奥、濃密な影の底から響いたノワールの声だった。
「御三方、お揃いになられましたね。私、ノワールと申します…。ようこそ『黒の審判』へ」
部屋の奥、ベルベットの椅子に深く腰掛けたノワールが、優雅に、そして酷薄なまでの静謐さを湛えて微笑んだ。
その手元では、羅針盤の針が不吉な鈍い光を放ち、傍らには月光を閉じ込めたような水晶のデキャンタが置かれている。
「遺体を弄ばれ、名を汚され、存在そのものを歴史の塵として消された皆様のご子息たち……。しかし、加害者たちは今この瞬間にも、皆様の絶望を肴に、美酒を味わっていることでしょう」
ノワールが指を鳴らすと、闇の中で真鍮の羅針盤が、骨を削るような不協和音を奏で始めた。
「さて、福島様、そして皆様。この館には、三つの出口がございます。今からそれを指し示しましょう」
ノワールの瞳が、ヴェールの奥で冷たく燃えた。
「一つ目は『純白の門』。法の正義と潔白を信じ、残りの人生と財産をすべて投げうち、巨悪と対峙する道。長く険しく……そして、おそらくは何一つ報われぬまま、乾いた砂を噛んで終わる道です」
「二つ目は『灰色の門』。権力に屈し、あれは不運な事故だったと自らに言い聞かせる。灰色の安寧と、死んだような静寂の中に身を沈め……やがて静かに朽ちていく道です」
「そして三つ目――『漆黒の門』。自らも闇の住人となり、彼らが皆様に与えた地獄を、そのまま彼らの心臓へ突き立てる道。神を気取った者たちから、その身分も、未来も、そして命すらも根こそぎ奪い去る…修羅の道です」
「さあ、道は指し示されました。何を選択されるかは……皆様の『魂』次第です」
静寂が部屋を支配した。
俊彰の喉が、熱い塊を飲み込むように動く。
「子供の……良樹の敵が討てるのなら、闇の住人だろうと何だろうと構わない……! だが、そんなことが本当に可能なんですか!? 相手は副大臣に、警察…大病院?国そのものを相手に戦うようなものじゃないか!」
俊彰の悲痛な叫びに、ノワールはデキャンタを持ち上げ、琥珀色の液体をグラスへと注ぎ始めた。
トクトクと、心臓の鼓動のような音が響き、濃厚で芳醇な、どこか血の匂いを孕んだ香りが館を満たしていく。
「ご自身の手を、黒く汚す覚悟があるのならば問題ございません。しかし、彼らを正当に裁くには、皆様も彼ら以上の『傲慢』を知らねばならない」
ノワールは、溢れんばかりの液体に満ちたグラスを差し出した。
「これは『傲慢のブランデー』。さあ、お飲みなさい。彼らが神を気取り振るったその『傲慢』を、今度は皆様が、彼らを屠るための力に変えるのです」
遺族たちは、互いの顔を見合わせた。言葉は不要だった。
その瞳には、人間としての平穏を捨てた者の、悲壮な決意が宿っている。
俊彰が、震える手でグラスを煽った。
喉を焼く熱い衝撃。
その瞬間、心に巣食っていた権力への畏怖は霧散し、代わりに溢れ出たのは、万物を支配する王のような全能感――そして、冷徹極まる傲慢の濁流だった。
第四章
高級マンションの最上階。
防音の施されたリビングでは、三人の子息たちが最高級のワインを傾けながら、大型モニターを眺めていた。そこに映し出されているのは、隠しカメラが捉えた福島夫妻の姿だ。
良樹の惨劇に絶叫し、嗚咽をもらす夫婦の姿を、彼らは最高のエンターテインメントとして消費していた。
「ギャハハ! 見ろよあの惨めな顔!狩りもいいけど、遺族にDVDを送ってその反応を特等席で見るのは格別だな。『ひいいぃ良樹ぃ!』だってよ。滑稽すぎて腹が痛ぇ」
久世が、下卑た笑いと共にグラスを揺らす。
「……下劣だな、君の趣味は。こんな低俗な感情の観察に何の意味がある?」
霧島が、冷たく澄んだ瞳でモニターを切り捨てた。
「僕は、生体でしか得られない精密な反応の方がよほど有意義だよ。拍動し、悲鳴を上げる被検体を解剖してこそ、真の解剖学を会得出来る…。この前も無能な看護師を一体、僕の礎になってもらったところだ」
「……しかし、狩りも遺族の反応も、最近は少々マンネリだな」
九条院が、ため息交じりに指を鳴らした。
「退屈は罪だ。私の退屈を凌ぐのは、国民の義務と言ってもいい。ただ逃げるだけの獲物ではなく、もっと私の支配欲を芯から満たしてくれるような刺激は無いものか?」
その時、リビングの影から、音もなく一人の男が現れた。
後藤――。彼ら子息たちの不始末のみならず、その親たちの汚れ仕事全般を裏で取り仕切る冷徹なフィクサー。
「皆様。通常の狩りにご満足いただけないようでしたら、次回は私が趣向を変えてご提供いたしますが、いかがなさいますか?」
「趣向……? どんな趣向だ、後藤」
九条院の問いに、後藤は深々と頭を下げ、その眼鏡の奥で怜悧な光を宿らせた。
「皆様がなさっている狩りは、ただ逃げ惑う弱者を追うのみ。お飽きになられるのも当然です。ならば――獲物に『牙』を持たせ、現場の緊張感を高めてはいかがでしょう」
「牙だと? 相手に武器を持たせるってのか? こっちが反対にやられるのは御免だぜ」
久世が眉をひそめる。
「武器といっても、精々ナイフ程度のものです。牙を持つ獲物を、圧倒的な武力で蹂躙する……古代の貴族が嗜んだ『ライオン狩り』のようなものとお考えください」
「ほう。反撃能力を持った被検体が、死の間際にどのような攻撃的行動を選択するか、非常に興味深いな。事前に興奮剤を過剰投与して、理性を剥ぎ取ってみたいものだ」
霧島が、獲物を解剖する想像に口元を歪めた。
「私も賛成だ。死に物狂いで襲いかかる獲物を、公的な制裁として狩る。……それも一興だな」
九条院が満足げに頷く。
「かしこまりました。では近日中に、最高級の『牙』を持つ獲物と、特別な舞台を手配させていただきます」
後藤が再度、深々と一礼し部屋を後にした。
後藤の提案した『ライオン狩り』。それは、彼らの予想を遥かに超えた「刺激」への招待状だった。
第五章
漆黒のリムジンが、見慣れた狩場とは逆方向の、荒れ果てた山道を深く沈んでいく。
「おい、後藤。どこへ行く? いつもの場所じゃないのか?」
九条院が退屈そうに窓の外を眺め、問いかける。
「それでは、いつも通りで面白味に欠けます……今回の趣向はこうです」
バックミラー越しに、後藤の瞳が凍てつくような光を放った。
「新しい狩場となるこの森に、三人の『武器を持った獲物』を放ちました。彼らにはそれぞれGPSを取り付けてあります。皆様は常時スピーカーフォンを繋ぎ、お一人ずつ獲物を追い詰め、無力化していただく。そして三地点同時に、一斉に狩る。…いかがです?」
「なるほどな。お互いの獲物が死に物狂いで足掻く様をライブで聞きながらの一斉射撃か。スリルがあって面白そうじゃんか」
久世に、サディスティックな笑みが広がった。
森に放たれた三人は、それぞれ愛用のライフルを手に獲物を追った。
枯れ草が踏みしだかれる乾いた音の中、暗視ゴーグルの微かな燐光が、死を告げる鬼火のように夜の闇を揺らす。
やがて、久世の視界に目出し帽を深く被り、猿轡を噛まされた男が捉えられた。
その右手には、無骨な大型ナイフが粘着テープで厳重に括り付けられていた。
男は久世を視認した瞬間、必死に左手を振り、止めてくれと懇願するようなジェスチャーを見せる。
「おいおい、ナイフ持ってるくせに最初から逃げ腰かよ。興醒めだぜ」
久世がスピーカーフォンを起動し、他の二人に呼びかける。
『こちらの被検体も似たようなものだな……』
霧島の、冷ややかな声が混じる。
『極限状態での闘争本能を期待したが、期待外れだ。興奮剤の投与量を増やすべきだったか?』
『私の方も戦意なし、だ。だが、追い詰めればネズミも牙を剥くかもしれん。……よし、やるぞ』
「よっしゃ。現時刻26時23分……武器携帯による公務執行妨害と判断、容疑者の制圧にかかるぜ!」
久世のライフルが火を噴き、獲物の上腕を正確に抉った。鮮血が夜の闇に飛び散り、腐葉土の上に夥しい染みを作る。
「ぐもおおぉっ!」
男は猿轡に阻まれたくぐもった絶叫を上げ、必死に泥を蹴って逃走を開始した。
「ははっ! 二人とも今の聞いたか? 『ぐもおお』だってよ! 傑作だ!」
『僕も始めよう。被検体は五十代前後の男性、これより覚醒下での動態解剖を執り行う。術野の確保は完了だ』
『私は現在、獲物を追跡中だ……二人ともまだ殺すなよ。同時に仕留めるのが今回のルールだ』
静寂に包まれた森に、獲物を追い立てる猟犬のような銃声が断続的に響き渡る。久世は故意に致命傷を避け、四肢を撃ち抜いて男を這いずらせた。
崖際に追い詰められ、退路を断たれた男は、激しい過呼吸の中で久世にナイフを向けた。
「お、ようやくやる気になったか? こりゃあ殺人未遂罪も追加だな。正当防衛の成立だ」
笑みを浮かべ、男の眉間に照準を固定する。
『僕の方は、動態解剖終了……被検体の随意運動の消失を確認した。システムとしての機能は停止間近だ』
『私も制圧完了だ。両下肢を粉砕した。ナイフを振り回して威嚇しているよ、滑稽な獣だ』
『今回の私たちの「狩り」も、これで終了だな……よし、トドメを刺すぞ』
九条院の合図。三つの地点で、吸い込まれるような乾いた銃声が重なった。
獲物たちは、それぞれの絶望を抱えたまま、冷たい泥の中へと沈んでいった。
「……ふぅ。まあ、思ったよりは楽しめたか」
久世が、動かなくなった男の元へ歩み寄る。
「おい、この目出し帽、取ってみるか。どんな面して泣いてたのか、ホシの顔を拝んでやろうぜ」
接着剤で乱雑に固定されたマスクを、ナイフの先で無理やり引き剥がす。
月明かりの下、露わになったその「顔」を見た瞬間――久世の全身の血が逆流した。
「……え? ……親父? な、なんで……?」
そこには、愛する息子に撃たれた絶望と激痛に顔を歪ませ、息絶えた警察庁長官・久世勲の無残な亡骸があった。
スピーカーフォン越しに、他の二人の動揺した声が重なる。
『……な……なんで、父さんがここに!?』
『……後藤ッ! これはどういうことだ、説明しろ! 後藤ッ!!』
彼らが殺したのは、名もなき「獲物」ではない。
自分たちを守り、甘やかし、その罪を隠蔽し続けてきた、それぞれの「親」そのものだった。
『……皆様には事前に申し上げたはずです』
端末からは、後藤の声が静かに…そして冷徹に響き渡った。
『今回は、『趣向を変える』と。常に守る側であった御尊父たちが、自らの息子に狩られる。……これ以上の『ライオン狩り』は、他にはございますまい』
「後藤……貴様ぁッ!こんな事をしてタダで済むと思ってるのかっ!?」
九条院が、泡を吹かんばかりの勢いで咆哮する。
『ええ、重々承知しております。しかしこれは、私の一存ではございません。これは、皆様が踏みにじってきた無数の「声」の集積……「遺族たちの閣議決定」でございます』




