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第10話:審判の森(前編)

黒の審判 第10話

審判の森


序章


「ブランデーは「王の酒」としての歴史を持ちます。

圧倒的な手間と時間を経て紡ぎ出される一雫は、古来より富と権力の象徴とされて来ました。

しかし、それを嗜む王の「傲慢」とは、最も重い大罪とされております。

自身を神の如く振る舞う慢心は、全ての罪の始祖となり、無辜の民を貪る暴君へとその姿を変える」


漆黒の闇の中、仄かに照らされた羅針盤の針が、ミリ…ミリ…と、肉を裂くような不気味な音を立てる。


「悪戯に命をもて遊ぶ狂った暴君と、それを甘んじて生きるしか術がない哀れな民。……さて。今回のお客様方は、その絶対的な身分の差に、ようやくお気付きになられたようです」


次第にシャンデリアの灯りが煌めきを帯び、漆黒の館を照らし始める。


「……王冠を戴く頭が、自らの重みに耐えかねて落ちる時。その首を撥ねるのは、法でも神でもございません。……虐げられ、沈黙を守ってきた『民の怒り』でございます。

さあ、今宵は特別なヴィンテージをご用意いたしました。

喉を焼くような復讐の味……存分に、お愉しみくださいませ」


羅針盤の針は、数多の怨嗟の声にも似た不協和音を奏でたあと、ある一点を刺すかのように止まった。



第一章


「はぁっ……はっ、はっ……!」

月明かりすら届かない、漆黒の静寂に沈む森。

そこを這いずる若い男……福島良樹の荒い息遣いだけが、不気味にこだましていた。

裸足の足裏はすでにボロボロに裂け、腰元まで這い寄る枯れ草が、湿った土の匂いと共にガサガサと乾いた音を立てて男の焦燥を煽る。


(なんで…なんでこんなことに…! 俺が何をしたって言うんだよ…!?)


右肩から溢れる生暖かい血が指先まで伝い、地面を汚していく。

良樹は数時間前まで、駅前の牛丼屋で夕飯を済ませ、明日の仕事の段取りを考えていたはずだった。

路地裏で背後から襲われ、意識を失い、目覚めた時にはこの「地獄」のただ中に放り出されていた。


十数分前、背後で光った三つの暗視ゴーグルの、燐光を放つ無機質なレンズが脳裏に焼き付いている。


『ようこそ被検体くん。これより当院の特設野外オペレーションを執り行う。君のバイタルがどこまで持つか、期待しているよ』


『特別に10分間、容疑者逃走の猶予を認めてやる。……さあ、法を越えて逃げてみろ。検挙されるのが先か、逃げ切るのが先か、賭けようじゃないか』


『逃げ切れば君の勝ち、生存権の再獲得だ。捕まれば即時清算。……さあ、私たちの期待に応えて走れ! 公共の利益のためにね』


(訳が分からない……! あいつら、何なんだよ……!)

逃げ場などない。だが、止まれば死ぬ。

そう確信した瞬間――。


パァン……!

乾いた破裂音と共に、右足のかかとに、熱せられた鉄棒を叩き込まれたような衝撃が走った。


「ぎっ……! あああぁぁぁッ!!」

アキレス腱が断裂し、ゴムが弾けるような嫌な感触が全身を駆け抜ける。良樹は前のめりに泥に突っ込み、のたうち回った。

鼻を突くのは、跳ね上がった汚泥の臭いと、冷たく鋭い硝煙の香り。

背後から、落ち葉を踏みしめる規則正しい足音が近づいてくる。三つの影が、彼を包囲するように立ちふさがった。


「あーあ、もう終わりか。開始からわずか4分12秒……つまらねぇな。現時刻23時38分、容疑者の完全な無力化を確認。……本件、これより現行犯での即時処分に移行する」

警察庁長官の息子・久世駿平が、ストップウォッチを止めながら、事務的な口調で吐き捨てた。


「……そうだね。左上肢帯から右足首にかけての器質的損壊。随意運動の消失。……これ以上の負荷試験は、有意なデータを得られない。君はここで廃却対象だ。わかりますか? 治療するコストが、君の人生の価値を上回ってしまったんだよ」

聖ラファエル国際医科大学病院理事長の息子・霧島怜治が、まるで壊れた医療器具を検分するかのような冷徹な声で宣告する。


「しょ、処分……? 廃却……? ま、待って……助けて下さい……! 殺さないで、何でもしますから……!」

泥にまみれた顔を上げ、良樹が必死に懇願する。だが、三人の目に映っているのは「人間」ではなかった。


「君のその陳情は、受理するに値しない内容だ。この国において、動けない人間は不良債権に等しい。……さあ、最後の閣議決定だ。私が君の存在そのものを、この国の台帳から除籍してあげよう」

内閣府副大臣の息子・九条院誠也が、特注のライフルの銃口を男の眉間に押し当てた。冷たい金属の感触が、死の近さを告げる。


「やめて、やめ……」

パァン!

再び、乾いた音が森の空気を震わせた。

重い物が泥に沈む鈍い音。それきり、森には再び、静寂と硝煙の臭いだけが残された。


「……さて、明日の委員会は何時だったかな? ゴミの処理より、予算案の話の方が有意義だ」

九条院が、血濡れの靴をハンカチで拭いながら無感情に呟く。


「僕も明日、オペが三件ほど入っている…。そろそろ休養せねばな。大切な患者さんの命を預かる身だ、医療ミスなどという間抜けは許されない」

暗視ゴーグルを外しつつ、霧島の顔に冷笑が浮かぶ。


「俺は今、殺人事件の捜査本部を任されてるよ。だるいけど気分を切り替えて、市民の皆様の安全の為に働きますかねぇ」

久世は舌打ちをしながら、軽く警察手帳を振ってみせた。


彼らは談笑しながら、闇の向こうで待機させていた高級外車の中へと消えていった。



第二章


良樹の失踪から一夜が明けた。

父、福島俊彰と妻の美佐恵は、縋るような思いで所轄の警察署へと駆け込んだ。


「お巡りさん、息子が……良樹が昨日から戻らないんです! 会社は定時に出たというのに、連絡もつかず、家にも……。どうか、事件に巻き込まれた可能性を調べてください!」


「あの子は、一度だって無断で外泊したことなんてないんです。お願いです、被害届を出させてください!」


窓口のカウンターを叩かんばかりの必死の訴え。

しかし、対面した初老の警官は、書類から目を離すことすらなく、さも面倒そうに鼻を鳴らした。


「被害届と言われましてもねぇ。息子さん、もう成人されているんでしょう? 最近多いんですよ、フラッといなくなって、数日後に平然と戻ってくるケースが。事件性もないのに動くわけにはいかないんです」


「そんな……! じゃあ、私たちは一体どうすればいいんですか!?」


「まあ、もう少し様子を見てくださいよ。我々も優先順位の高い『重要案件』を幾つも抱えていて手一杯なんです。本日はお引き取り願います」


「重要案件」という言葉が、俊彰の胸にトゲのように刺さった。

目の前の警官の瞳には、自分たちの必死な姿など微塵も映っていない。まるで透明な壁を相手に叫んでいるような、底冷えのする拒絶だった。


事態が最悪の形で一変したのは、それから二週間が経った、ある雨の日だった。

郵便受けの中に、一枚のディスクが直に放り込まれていた。

盤面には、油性マジックの乱れた筆致で『yoshiki 8/23』とだけ記されている。


「何だ……? このDVDは……」

嫌な予感に心臓を鷲掴みにされながらも、俊彰は震える手でそれを再生した。


テレビモニターに映し出されたのは、あまりにも凄惨な「記録映像」だった。


夜の森。泥にまみれ、千切れた足を引きずって這いずる、実の息子の姿。

命乞いをする良樹の悲鳴を切り裂く、乾いた銃声。

そして、その骸を見据えながら、まるで害虫でも始末したかのように談笑する男たちの音声――。


「ひいぃぃぃぃっ! よ……しき……! 良樹ぃッ!!」

美佐恵は喉を引き裂くような絶叫を上げ、崩れ落ちた。


俊彰は声も出ず、ただ胃の底からせり上がる激しい吐き気に耐えながら、膝をついた。

歯の根が合わず、ガチガチと音を立てる。

(なんだ、これは……。なぜ、良樹がこんな……人間が、人間にこんなことを……!?)


悪夢の中を彷徨うような足取りで、二人は再び警察へ向かった。

もはや自分たちの正気を保つためだけに、その呪わしいディスクを差し出した。


「この……この映像を見てください! 今日、郵便受けに入っていたんです! 息子が、息子が殺されているんだ!」


おざなりに映像を確認し始める警察官。しかしある場面を見た瞬間、淀んだ目が一瞬見開かれ、喉を鳴らしたかのように見えた。

そして、彼の口から放たれた言葉は、想像を絶するものだった。


「あぁ、これは最近流行りの、AI生成された『フェイク動画』ですね。悪質な嫌がらせですよ。よくできてる」


「馬鹿な……! フェイクなものか! 映っているのは間違いなく私の息子だ!」


「とにかく、この動画だけでは我々は動けません。お引き取り願います」

動画を見終わった警官からは、気怠そうな態度が完全に消え、氷のように冷たい表情を浮かべていた。


「お父さん、いいですか。この動画を他所で見せたりしちゃダメですよ。最近は『出どころの怪しい動画』を持ってるだけで、とんでもない嫌疑をかけられる世の中ですから。……これ以上、悲劇を増やしたくないでしょう?」

まるで追い打ちのような言葉が、俊彰の胸を射抜いた。


その後も、俊彰は必死に足掻いた。

しかしマスコミに持ち込んでも「内容がセンシティブすぎる、上からの確認が必要だ」と門前払いされ、SNSに動画をアップロードしても、わずか十分足らずで『規約違反』としてアカウントごと抹消された。


まるで、良樹という人間がこの世に存在した記憶そのものを、巨大な権力の消しゴムが消して回っているかのようだった。


(もう……どうしようもないのか…?誰でもいい、誰でもいいから助けてくれ……)

空虚な自室で、俊彰は天を仰いだ。


その時だった。

書斎の机の上に、まるで元からそこにあったかのように、「それ」が置かれていた。

闇を煮詰めたような、漆黒の手紙。

表には、銀色のインクで美しく、そして冷徹な筆致で書かれている。


『福島俊彰様』

裏を返せば、たった一文だけが記されていた。

『貴方に道を指し示します。業を負う覚悟があれば、お越しください』

その一文の下には、とある住所のみが記されていた。


それは、救済の糸か。それとも、さらなる奈落への招待状か。

俊彰の指が、黒い手紙を強く握りしめた。

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