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第9話:悪の代償(後編)

第八章


22時ちょうど。

マンションの非常ベルが、鼓膜を劈くような絶叫を上げ始めた。

喉にへばり付くような煙と、プラスチックの焼け焦げるような臭いが、辺り一面に充満する。


「火事だ!」

「逃げろ!非常階段だっ!」

パニックに陥った住人たちが階段へとなだれ込む。

全身を作業服で身を包んだ洋貴は、その濁流を逆行するようにひた走った。


突き当たりの部屋――武闘派組織『黒龍会』の組長が愛人に買い与えたとされる、あの部屋の目前に辿り着いた。

ちょうど、中から屈強な体格の男と、シルクのナイトウェアを羽織った女が飛び出してきたところだった。

「クソッ、火元はどこだ? 姐さん、早く!」

男は周囲を警戒しながら、女を連れて非常口へと駆け出していく。


彼らの背中が煙の向こうに消えたのを見届け、洋貴は震える手で鍵を差し込んだ。

カチリ、と絶望の扉が開く。

部屋は、明かりが付いたまま無人となっていた。

まだ湯気が立つコーヒーカップに、香水の匂い。

つい先程まで人がいた生々しさが、却って恐ろしさを抱かせる。


洋貴は、車内で確認した見取り図通りに、真っ直ぐクローゼットへと向かった。

毛皮のコートに、ブランドバッグ、ヒールの箱などが散乱する中で、重厚なアタッシュケースを発見した。


中を確認した洋貴は息を呑んだ。

そこには、不気味に白く輝く粉末の包みが、ぎっしりと詰まっていた。

(……これか。これが、奴らを葬る『猛毒』……!)

彼は震える手でケースを閉じ、地下駐車場へと走った。



第九章


――数刻前、都内のとある廃雑居ビルのアジトで、スマホの通知音が鳴り響く。

「……あ?こんな時間に何だ?」

半グレリーダーの男が顔を上げた。


それは、自動車窃盗の仲介役――通称『リクルーター』の先輩からの、緊急メッセージだった。


『今夜22時30分、指定の場所に行け。前から伝えていたベントレーの出物があった。オーナーが不在の隙に回収しろ。鍵はエントランス横のポストに投函済みだ。至急動け』


男の瞳に、下卑た悦びが灯る。

「おい、野郎ども! 宝探しの時間だぜ!ベントレーの出物が鍵付きであるってよ!」

「マジかよ、ベントレーって、買い取りで1000万は固いって言ってたやつだろ!?」

「チョロすぎんだろマジで! 少年法に続いて運まで味方しやがった!」


彼らは階段を駆け下り、車を急発進させて行った。

自分たちがこれから掴みに行くのが、本物の「獣」の尾であるとも知らずに。



22時18分・マンション地下駐車場。

洋貴の心臓は、肋骨を突き破らんばかりに早鐘を打っていた。

スペアキーを使いベントレーのドアを開け、手当たり次第に、座席の下やトランクへ白い粉の包みをねじ込んでいく。


その時、車中での従者の言葉が、呪いのように脳裏に蘇った。

(薬物の仕込みは、出来るだけ迅速にされる事をお勧め致します。組員に見つかるのは元より、半グレたちも刻一刻と、その場に向かっております……)


(……急げ。早くしろ。ヤクザに見つかっても、あいつらと鉢合わせても、全てが終わる……!)


ゴオオォォォ……!

その時、コンクリートの壁を伝って、地下へと降りてくる重低音が響いた。

洋貴の全身の毛穴が、一瞬にして逆立つ。


慌てて車のドアを閉め、パケを抱えたまま、隣の車の影に身を隠す。

ライトの光が、地下の冷たい空気を切り裂きながら近づいてくる。


ヤクザの組員が戻ってきたのか? あるいは、もう半グレたちが到着したのか……?

もしヤクザに見つかれば、弁解の余地はない。自分はここで、「車と薬物を盗んだ犯人」として殺されるだろう。

洋貴は息を殺しながら祈った。

ゆっくりと近づいてきた車は、ベントレーの数メートル手前で速度を落とし、隣のブロックにあるスペースに、バックで滑らかに収まった。


バタン、とドアの閉まる音。

降りてきたのは、買い出し袋を提げた若い夫婦だった。


「ねえ、何だか少し焦げ臭くない?」

「ほんとだ、何だろうな…?まあいいよ、アイス溶けちゃうから急ごうぜ」

他愛もない会話。平和な日常の音。

彼らがエレベーターホールへと消えていくまで、洋貴は岩のように硬直していた。


安全な世界にいる住人と、地獄の縁で薬物を抱える自分。

その絶望的な断絶に、吐き気がこみ上げる。


(……落ち着け。早く、早くしろ……!)

震える指先で、最後の一袋をシートの間に押し込んだ。

空になったアタッシュケースを、車のトランクに投げ捨てる。

(終わった。……これで、いいはずだ)


洋貴が這いずるように車から離れ、柱の影へと身を隠した。

そのわずか数分後。

今度は、耳を劈くような荒々しいスキール音と共に、一台の粗末なワゴン車が地下駐車場へと雪崩れ込んできた。


「ハッ、マジであるじゃん ベントレー。チョロすぎんだろ!」

「リクルーターの兄貴に感謝だな! よし、さっさと取り掛かるぞ」


ワゴン車から飛び出してきたのは、忘れもしない…隼人たちを惨殺した、あの半グレたちだった。

工具を手に、何やら作業を始める。


「やっぱGPSアンテナ付いてますね。位置バレするから切りますよ」

ニッパーを差し込み、パチン、と線が切断される。

「よし、これで追跡死んだな。んじゃ長居は無用だ、さっさとずらかるぞ!」

薬物を仕込んだベントレーと、半グレのワゴン車は、再び夜の闇へと消えていった。



第十章


――国道を切り裂く、黒塗りの殺意。

黒龍会の若頭は、冷徹な瞳で紫煙を燻らせていた。

部下のタブレットには、地図上に浮かぶ赤い光点が、雑居ビルが立ち並ぶ裏通りで静止しているのを映していた。


「……若頭、ネズミの巣を特定しました。例の半グレ共のアジトです」

助手席の組員が、低く報告する。


「……ど素人が。純正のセーフガード潰しただけで安心したか。GPSを二重にしておいて正解だったな。……ガキに舐められて、組長のメンツは地に落ちた。一人も取り逃すなよ」

若頭の指先が、赤い点をなぞる。

それは、獲物の喉元を切り裂く刃の軌跡だった。


――同時刻。半グレのアジト。

「ギャハハハ! 見ろよ、この内装! マジで王様気分だわ!」

リーダーの男が、ベントレーのレザーシートを土足で踏みつけ、シャンパンをラッパ飲みする。

アジトのガレージに収まった漆黒の巨体は、あまりにも場違いで、彼らの全能感を肥大させていた。


「おい、リクルーターの先輩に報告しようぜ。1000万、いつ振り込まれるかってよ」

リーダーは意気揚々とスマホを手に取り、スピーカーフォンで電話をかけた。


プルル…と呼び出し音が数回。

『……もしもし、何だ?』

「あ、先輩お疲れ様です! 例のメッセージもらったベントレー、今アジトにぶっ込みましたよ! 鍵まで用意してくれてあざっす! いつ現物見に来ます?」


『…………は?』

電話の向こうで、先輩と呼ばれた男の、冷え切った声が響く。

『……メッセージ? 何の話だ。俺は今他県だぞ。お前に指示なんて出してねえよ』


「え……? いや、でもさっきメッセージが……」

『……知らねえよ。まあ、出物あったんなら今度見に行ってやる。忙しいから切るぞ』

ブツッ……という音と共に電話が切れる。


「…先輩、知らねえって……。じゃあ、これ、どういう事だ……?」

リーダーが、通話の切れたスマホを呆然と見つめた、その時だった。



ガチャリ、と無造作にドアが開く。

「よお、ガキ共。随分と楽しそうじゃねえか」

入ってきたのは、仕立てのいいスーツを着た、彫りの深い顔立ちの男。背後には、黒服を着た、屈強な男たちが控えている。


「あぁ!? んだぁテメェら! 何勝手に入って来てんだ! 殺すぞコラァ!!」

いきり立ったリーダーがポケットから折りたたみナイフを取り出し、威嚇する。

周りの連中も、鉄パイプやバットを手に取って、口汚く喚き散らした。

だが若頭は、眉一つ動かさず、淡々と距離を詰めてくる。


「……殺す、か。威勢がいいな」

「舐めんなよ、刺し殺してやる!」ナイフを突き出したリーダーの腕を、若頭は最小限の動きで、確実に捉えた。


ボキリ…と乾いた音が室内に響く。

「ぎ……っ、あ、あああああああ!!」

次いでリーダーの後頭部を鷲掴みにすると、そのまま顔面へ鋼鉄のような膝蹴りを叩き込んだ。

グシャッ、と、濡れた雑巾を叩きつけたような鈍い音が響く。


「あがっ……、ぁ……」

鼻骨を砕かれ、顔面を真っ赤に染めたリーダーは、その場に崩れ落ちる。


「いいか、小僧。本物の殺し合いってのは、そうやって騒ぎながらやるもんじゃねえんだよ」

若頭の瞳には怒りすらない。

ただ、ゴミを処理するかのような、絶対的な冷徹。

他の半グレたちは、あまりにも「格の違う」暴力の重圧に、武器を握る手すら震え、戦意を完全に喪失していた。


その間に、他の組員たちが手慣れた手つきで車を調べ始めた。

「若頭。……ありました。座席の下、トランクの隅。……姐さんの部屋の『ブツ』、全部ここに仕込んであります」


若頭の目が、スッと細くなる。

「……ほう。車どころか、ウチのシノギにまで手を出してたってわけだ。あのボヤ騒ぎも、お前らが描いた絵図だったんだな?」


「え……ブツ? ボヤ……? し、知らねえ! 俺たちは、ただ車を盗んだだけで……!!」

リーダーが必死に叫ぶが、若頭は冷たくその顔を靴で踏みつけた。


「これだけ証拠が揃ってて、知らねえで通るわけねえだろ。 ……よくもウチの看板に泥を塗ってくれたな」


「ひ、ひぃぃ! ま、待ってください、ゆ……指とか、詰めるんすか!?謝ります、堪忍して下さい!」

リーダーは恐怖に失禁しながら、頭を床に擦り付けた。


「……指?何寝ぼけた事言ってんだ。ボヤ起こしてシノギ盗んで、挙句に組長の愛車をガキの遊びで汚したんだ。指が十本、全部飛んでも足りねぇよ」


「…え?……えっ??」

半グレたちの顔から、みるみる血の気が引いていく。


「すぐには死なねぇから安心しろ…。これから一週間は、徹底的に『可愛がって』やる。 喉が潰れて悲鳴も出なくなってから、次を考えてやるよ」

若頭の合図と共に、組員たちが、次々の彼らを拘束していく。

半グレたちが最後に見たのは、自分たちが「チョロい」と笑っていた世界の、あまりにも暗く、冷たい深淵だった。



第十一章


連行される半グレたちの、獣のような叫び声が遠ざかっていく。

夜の静寂が戻り始めたアジトの陰で、洋貴は激しい動悸を抑えながら、壁に背を預けていた。


「……終わった……のか」

「左様でございます」


いつの間にか背後に立っていた黒スーツの従者が、感情の欠片もない声で告げた。


「タイミングを誤れば、今の彼らの現状が、洋貴様と置き換わっていたことでしょう。一分、あるいは数十秒。運命の歯車が少しでも狂っていれば、貴方は暴力団の刃の下で、指の一本も残らぬ肉塊になっていた……。無事成功されて、何よりでした」

従者の言葉は、慰めではなく、冷徹な事実そのものだった。


洋貴は自分の手が、まだ小刻みに震えていることに気づく。

一線を越えるとは、こういう事か。

復讐という名の甘い蜜は、常に自らの命と隣り合わせ。


「……それでも、構いません」

洋貴は、胸ポケットから一枚の写真を取り出した。

隼人と凛が、向日葵の前で笑っている、あの日撮った最後の一枚。


「あいつらを、私と同じ……いいえ、それ以上の絶望に叩き落とせたんです。他に選択肢は、ありませんでした……」


「……左様でございますか。では、本日の審判はこれにて終了でございます」

従者は深々と一礼し、漆黒のセダンのドアを開けた。


「ノワール様の館へお戻りになりますか? それとも、どちらかへお送り致しましょうか?」

「……では、少しだけ寄りたい場所があります。そこまで、お願い出来ますか?」


洋貴が向かったのは、隼人と凛が眠る墓地だった。

真夜中の静寂の中、彼は二人の墓前に、新しい花を供えた。

「隼人、凛さん……。ようやく、奴らに報いを与えられたよ」

風が吹き抜け、墓標に供えられた花の香りが鼻をくすぐる。

それは、血と薬物の匂いに塗れた今夜の記憶を、ほんの少しだけ浄化してくれるような、優しく、どこか切ない香り。


洋貴の頬を、一筋の涙が伝った。

それは絶望の涙ではなく、復讐という業を背負った者が、一瞬だけ許された「救い」の雫だった。



終章


鉄の扉が閉まると、館は再び、重苦しい静寂に包まれた。


「…猛獣に屠られる、哀れな獣たち。これ程までに無力で、惨めな終演はございません」

ノワールは、手元の羅針盤の針が、微かな震えの後にぴたりと止まるのを見届けた。


「彼らは自らの力を過信し、その結果、無思慮に虎の尾を踏んでしまった。多くの人間を暴力で狂わせていた者たちが、最後には凄惨な暴力によってその生涯を閉じる。その地獄の門を開けたのが、かつて自らが傷付けた弱者だったとは、何とも皮肉な話でございます」


漆黒の記録帳に、羽根ペンが滑る。

そこには『藤塚洋貴:対価……死への加担と、滅罪の記憶』と記された。

「さて。次のお客様は、どのような『業』を抱えて来られるのでしょう……」

ノワールはロウソクを一つ、静かに吹き消した。

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