第9話:悪の代償(前編)
黒の審判:第9話
悪の代償
序章
「……『暴力』とは、生きとし生けるものの本能に根ざす術でございます。
血と肉を奪い、命を次代へ繋ぐ――それは自然の摂理。
しかし人間の浅ましさが加わるとき、それはただの生存ではなく、愉悦と支配を求める醜悪な欲望へと、醜く変質するのです」
闇に沈む館の奥底。重厚な真鍮の羅針盤が、ギリ……ギリ……と、骨が軋むような音を立てていた。
「暴力を当然の権利のように振るう愚者と、抗う術を持たない弱者。……さて。今回のお客様は、その救いようのない理不尽さに、ようやくお気付きになられたようです」
揺らめく蝋燭の火が、羅針盤の針を妖しく照らし出した。針は、断末魔のような不協和音を響かせた後――ある一点を指して止まった。
第一章
夜景の見える丘の上。
街の灯りが宝石のように散らばり、遠くの車の音が柔らかな波のように寄せては返す。
藤塚隼人は、渡辺凛の前に膝をつき、震える手でプラチナの指輪を差し出した。
「凛。……今まで、楽しい時も苦しい時も、隣にはいつも君がいてくれた。この先の人生、どんな景色を見る時も、隣にいるのは君じゃなきゃ嫌だ。……俺と結婚してくれないか?」
凛の瞳が大きく見開かれる。
指輪の輝きが、彼女の涙に反射して小さく揺れる。
「……隼人……嬉しい。私の方こそ、隼人と一緒に幸せになりたい。これからもずっと一緒に…素敵な家族になりたい」
隼人の指が凛の左手の薬指に触れる。
冷たい金属が温もりに変わる瞬間、二人の息が重なり合う。
凛の頬を伝う涙を、隼人がそっと指で拭う。
彼女から漂う、香水の微かな甘い香りが、夜風に混じって隼人の胸を満たす。
隼人は凛を抱きしめた。
彼女の体温が、隼人の胸に染み渡り、遠くの街の灯りが、二人の影を優しく包み込む。
二人の息が重なり、時間が止まったかのように感じられた。
この瞬間が、永遠に続けばいい……。
だが、その静寂を切り裂いたのは――
キィィィッ!
鼓膜を劈くようなスキール音。
「おー、見せつけてくれてるじゃん。愛の告白かぁ?」
「羨ましいねぇ、俺たちにもおすそ分けしてくれよ」
車から降りてきた若い男たちの嘲笑が、丘の空気を汚す。
金属バットを肩に担ぎ、足音が土を踏みしめる。
隼人の背筋が凍りつく。
「なっ…?君たち、一体何を…」
言葉が終わる前に、金属バットが隼人の頭に振り下ろされる。
バキッ!
鈍い衝撃が頭蓋を震わせ、視界が赤く染まる。
熱い血が額を伝い、地面に滴る。
隼人の膝が折れ、土に手をつく。
「いやぁぁっ!隼人っ!」
凛が駆け寄ろうとした瞬間、リーダー格の男が彼女の髪を掴み、無理やり引き剥がす。
髪の根元が引きちぎられる痛みが、凛の喉から悲鳴を引き出す。
「ひぃっ…!止めて、離してぇっ!」
男の指が髪をさらに強く握り、凛の首が不自然に仰け反る。
彼女の瞳に映るのは、血まみれでうめく隼人の姿。
「心配すんな、まだ死んでねぇよ。…おっ、これが愛の指輪ってやつかぁ?ちょっと寄越せや」
男は凛の指から無理やり指輪を引き抜き、転がった指輪のケースごと土足で踏みにじった。
安っぽい音を立てて潰れるケース。
泥にまみれた指輪の輝きは、もはやゴミと見分けがつかなくなっていた。
「ダァーッハッハッ!なあ、隼人くんよぉ。この指輪、いくらしたんだ? お前が死ぬ気で働いて買ったもんが、一瞬でゴミになった気分はどうですかぁ?」
男は歪んだ笑みを浮かべながら、腹を抱えて笑った。
「り、……凛を……離せ…っ!」
隼人は這いずりながら手を伸ばすが、蹴り飛ばされる。
腹にめり込む衝撃が、息を詰まらせる。
凛の悲鳴が、夜空に虚しく響く。
「おいおい、そんな顔すんなよ。凛ちゃんは、今から俺らと最高に楽しいことするんだからさ。お前も特等席で見せてやるよ」
「これ、動画回しとこうぜ。後でSNS上げたらバズんじゃね?」
「んじゃ、いつもんトコロ行くか。朝までコースにご案内だ…おら、さっさと車乗れやっ!」
その後二人は、廃墟へ拉致された。
隼人は、鉄パイプで骨が砕かれる痛みに耐えながら、凛の叫び声を聞くしかなかった。
凛の肌が引き裂かれる音、息が詰まる嗚咽。
隼人の視界が血で赤く染まる中、最後に見たのは、凛の涙に濡れた瞳だった。
二人の命は、面白半分に、永遠に奪われた。
第二章
二人の失踪から捜査が始まり、男達は逮捕され、裁判が開廷された。
法廷の、冷たく重い空気。
被告席の男たちは、欠伸を噛み殺し、ダルそうに舌打ちする。
弁護士の声が響く。
「彼らはまだ10代であり、精神的に未成熟です。厳しい刑罰を与えるよりも、適切な保護処分と教育を通じて、真人間として社会に復帰させる道を選ぶべきです。彼らの『無限の可能性』を摘み取る権利は、誰にもありません」
そう…彼らは全員、未成年だったのだ。
傍聴席の隼人の父・洋貴は、その言葉を聞いた瞬間、胸が締め付けられた。
息子の笑顔が脳裏に浮かぶ。
指輪を渡す前の、凛と隼人が丘の上で微笑み合っていた瞬間。
それが全て「無限の可能性」という一言で踏みにじられた。
判決は下された。
それは少年法の保護の下、たった数年の「自由の制限」に過ぎなかった。
男たちは、笑みを浮かべながら法廷を後にした。
茫然自失の洋貴と、退廷するリーダー格の男と目が合った。
男は勝ち誇ったように中指を突き立て、舌を出して去っていく。
その仕草が、洋貴の胸に永遠の棘を刺した。
帰宅後、隼人の部屋に残された服の匂いを嗅ぐ。
まだ微かに残る、息子の匂い。
机の上の写真立てで、隼人と凛が並んで笑っている。
洋貴が撮ったあの日の写真……。
「凛とは何年の付き合いだっけ?学生の頃からだから、もう8年位かなぁ。もう、彼女じゃなくて家族みたいな気分だよ」
隼人が、軽く頭を掻きながらはにかむ。
「じゃあ、そろそろ家族になっちゃう?そしたら私も、洋貴さんの事『お父さん』って呼ばなきゃだね」
凛が、少し悪戯っぽく笑う。
二人が輝く笑みを浮かべながら、未来を語っていた瞬間。
今はもう、誰もいない。
洋貴は膝をつき、声を殺して泣いた。
毎晩、夢の中で息子が「お父さん」と呼ぶ声が聞こえる。
だが、目覚めると、そこには誰もいない。
絶望は、静かに、しかし確実に彼を蝕んでいった。
朝起きて隼人の部屋のドアを開けるたび、胸が締め付けられる。
二人が写真立ての中で静かに微笑んでいるのに、その声はもう聞こえない。
洋貴は心労により、半年で十歳以上も老け込んでいった。
頬はこけ、髪には白いものが混じり始めた。
毎朝、隼人の写真に語りかける。
「今日も生きてるよ。……お前がいない世界で」




