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第8話:虚像の断崖(後編)

第七章


翌日ルルの宿泊する部屋に、漆黒の小包が置かれていた。

そこには詳細な指示と…スマホ程の機器が一つ入っていた。

そして、同梱されていた手書きのメモ。


『この機器を使い、指示通りに実行するのです。しかしこれを実行した瞬間から、あなたは相手を地獄に叩き落とす『加害者』となります。その重みを受け入れられる場合のみ、実行なさってください』


震える手で、機器に触れる。

その残酷なまでの冷たさに、ルルの頬を涙が伝った。


「……ひぐっ……。やだよ……人なんか、殺したくないよぉ……。誰か、助けて……」

ルルの悲痛な慟哭が響く。それは演技などではなく、彼女の魂の叫びだった。

助けを求めたその手が、今、人の命を奪うためのスイッチを握っている。その事実に、彼女は吐き気すら覚えた。


しかしその後訪れたのは、部屋の静寂のみ。

神様も、警察も、誰も助けてはくれない。

自分を救えるのは、『加害者』となった自分だけなのだ。


ルルは、正雄が監視している「裏アカウント」を開いた。

恐怖と罪悪感が混じり合い、心臓が早鐘のように鳴り響く。

彼女はノワールに教えられた通りの「猛毒の餌」を撒いた。


『もう、どこにも居場所がない。心も体も全部疲れちゃった。最後に、一番高い場所で月を見て終わりにしたい。今夜22時、◯◯県の黒岩崖。……誰か、私を見つけて』


黒岩崖……そこは投身自殺者が後を絶たない、自殺の名所だった。

投稿ボタンを押して5分としない内に、スマホの電話が響く。

ルルの身体が僅かに跳ねた。

恐る恐る出ると、抑揚の無い男の声が響いた。


「ノワール様の使いの者です。お車をご用意致しました。お手数ですが、今すぐ現場までご同行をお願い致します」

ホテル前には白いワンボックスカーと、表情が全くない黒スーツの男が立っていた。

もう、戻れない…私が…私がやるしかないんだ……!

ルルは、覚悟を決めて車に乗り込んだ。



第八章


同じ頃、ネカフェの狭いブースで、正雄の瞳に狂喜の火が灯った。


「ほら…やっぱりルルには、僕が必要なんじゃないか」

画面に映るルルの言葉。

それは彼にとって、自分への極上の愛の告白に見えた。


「あんなに僕を拒絶したのに、結局は僕を呼んでいるんだね……。大丈夫、今僕が行って、君を助けてあげるからね!」

正雄は車に飛び乗った。

アクセルを底まで踏み込み、黒岩崖へと続く山道を猛スピードで駆け上がる。


フロントガラス越しに、満月が不気味なほど白く輝いている。

「もうすぐ…もうすぐ着くからね、ルル……!」

彼の脳内では、崖の縁で泣き崩れるルルを優しく抱きしめ、そのまま二人で永遠の愛を誓う……。

そんな幸福な結末が、銀色の月光に照らされて美しく完成していた。


黒岩崖。

海風が咆哮を上げる中、ルルは岩陰に身を潜めていた。

数メートル先の崖の淵には、彼女が配信で着ていたものと同じ服を纏ったマネキンが、風に煽られて今にも飛び降りそうな危うさで揺れている。


遠くから、タイヤがアスファルトを削る悲鳴が聞こえてきた。

強烈なハイビームが夜の闇を切り裂き、一台の車が猛然と近づいてくる。


「ルル! ルル――ッ!!」

運転席の窓から身を乗り出し、正雄が叫んでいる。

その顔は、救世主にでもなったかのような恍惚とした表情に歪んでいた。


車が、ノワールの指示した「白いライン」を越える。

「……今です、瑠華様」

背後で、黒スーツの男の声が響く。

ルルは、指先に残った最後の力を込めて、スイッチを押し込んだ。


ボッ!!

重鈍な破裂音が響いた。道路に仕掛けられた遠隔スパイク装置が、正雄の車の前輪を容赦なく引き裂く。

制御を失った鉄の塊が、月光を浴びて銀色の火花を散らしながらスピンした。


「え……?」

正雄の驚愕の表情が、一瞬だけルルの視界を掠めた。

スローモーションのように、車体はガードレールを突き破り、宙に浮く。


「ああぁぁぁっ!?ルルぅーっ!」

重力に引かれるまま、正雄は絶叫と共に、車ごと暗黒の海へと吸い込まれていった。


数秒後。崖の下から、耳を劈くような爆発音と、赤い火柱が上がった。

吹き上がった熱風が、崖の淵にいたマネキンを巻き込み、残骸と共に地獄へと連れ去っていく。


波の音だけが戻ってきた崖の上で、ルルは弱々しく崩れ落ちた。

(人を…人をこの手で、殺してしまった……)

一人の人間を消した重みが、鉛のように全身にのしかかる。


「瑠華様のなさる事は、全て完了致しました。事後処理は私共で行いますので、貴女は車でお戻り下さい」

スーツの男が、彼女の肩にそっと手を置いた。その手は、氷のように冷たかった。



第九章


事件から数ヶ月後。

ルルは、新しいマンションの、防音加工を施した自室にいた。

以前の部屋にあった家具はすべて捨てた。

あのスピーカーも、あの枕も、今はもうどこにもない。

デスクの上には、新しいマイクとオーディオインターフェース。

ルルは震える指で、配信開始のボタンを押した。


「……みんな、お待たせ。ルルです。ちょっと休んじゃったけど……今日から、また歌うね」


画面には、一瞬で【ルルちゃんおかえり!】【待ってたよ!】【愛してる!】という、無数のリスナーからのコメントが弾幕のように流れる。


かつてなら「大好きだよっ♡」と無邪気に返していたその言葉。

今のルルには、それらのコメントがすべて、あの日海に沈んだ男の声と重なって聞こえた。

けれど、彼女はもう逃げなかった。

大きく息を吸い込み、イントロが流れる。


彼女が選んだのは、以前のような甘いラブソングではなく、どこか物悲しく、けれど激しい情熱を秘めたバラードだった。


『――愛してるなんて、言わないで。その言葉の重さを、貴方はまだ知らない――甘い言葉は、時にナイフにもなるの――』

マイクを通した彼女の歌声は、以前よりもずっと深く、聴く者の魂を震わせる「凄み」を帯びていた。

リスナーたちは困惑し、そして熱狂した。

【今日のルル、なんかヤバい】【鳥肌が止まらない】【本物の『歌』だ……】


歌い終え、静寂が戻った部屋。

ルルは、引き出しの奥に隠した、スマホ程の大きさの機器に触れた。

正雄の命を奪った、自分の業。

電源の入らないその黒い塊は、今も氷のように冷たい。


(……私は、これからも歌うよ。この重みを、一生忘れないために)

ルルは、正雄の執着すらも、自分を高く飛ばすための「業」として飲み込んだ。

彼女の瞳には、かつての怯えはなく、ただ静かな決意だけが宿っていた。



終章


鉄の扉が閉まると、館は再び、重苦しい静寂に包まれた。


「…死すらも飲み込む歌姫。これ程までに冷徹で、艶やかな終演はございません」

ノワールは、手元の羅針盤の針が、微かな震えの後にぴたりと止まるのを見届けた。


「彼女はその拙さゆえ、一人の男を狂わせ、そしてその命を奪うに至った。偶像を愛しすぎた者と、偶像であることを利用しすぎた者……。どちらが真の怪物だったのか、もはや誰にも分かりませぬ」


漆黒の記録帳に、羽根ペンが滑る。

そこには『篠宮瑠華:対価……偽りの慈愛と、謀殺の記憶』と記された。

「さて。次のお客様は、どのような『業』を抱えて来られるのでしょう……」

ノワールはロウソクを一つ、静かに吹き消した。


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