第8話:虚像の断崖(中編)
第四章
逃げ込んだホテルの部屋。
明かりをすべて点け、鍵をかけても、ルルの震えは止まらない。
自分の体、自分の服、自分の記憶……。
正雄という汚泥に全てが汚され、腐り落ちていくような感覚に襲われていた。
画面の中では、彼からの粘着くような『愛』のメッセージが止まらない。
『どこに行ったの?』
『君がどこにいても、僕だけは君の居場所がわかるんだよ』
『そんなに怖がらないで。僕たちは、これからひとつになるんだから……』
「……もう、どこに逃げても無駄なの…?私、捕まったらどうなっちゃうの…?」
絶望にまどろみながら、ふと視線を上げた時だった。
真っ白なホテルのライティングデスクの上に、場違いな漆黒の手紙が置かれていた。
「……っ!?」
悲鳴すら出なかった。
さっきまで、そこには何もなかったはずだ。
すぐに鍵をかけ、ドアの前に椅子まで置いた。
窓は閉めた上に、ここは高層階だ。
震える手で封筒を手に取る。
闇を煮詰めたような、漆黒の手紙。
表は「篠宮瑠華様」と、銀色のインクで丁寧に書かれていた。
裏は「貴女に道を指し示します。業を負う覚悟があれば、お越しください」という一文と、住所のみが記されていた。
正雄の脂ぎった執着とは正反対の、剃刀のように鋭く、氷のように冷たい気配。
この世の物ならざる異様な存在感を前に、ルルは不思議な安堵を覚えた。
あいつと「ひとつになる」くらいなら、無駄でも何でもいい…いっそ足掻いて死んだ方がマシだ。
彼女は意を決して、夜の闇へと続く扉に手をかけた。
第五章
ルルは錆びついた扉を開け、漆黒の館へと足を踏み入れた。
「ルル様…もとい、篠宮瑠華様……ですね。お待ちしておりました。私、ノワールと申します。どうぞお掛けください」
重厚なベルベットの椅子に身を預けたルルは、震える声で呟いた。
「……最初は、ただの『ありがたいお客様』だったんです。毎回、5万円の赤スパを投げてくれる。配信者の私からすれば、あいつは活動を支えてくれる一番の『太客』でした」
「あいつが望むことは、大抵叶えてあげました。コメントは最優先で拾ったし……『正雄さんがいないと、私ダメになっちゃうかも』とか、『いつか画面越しじゃなくて、直接会いたい』とか……ガチ恋を煽るような営業メールも送ってしまいました。……
ただお金が、欲しかっただけなんです…」
最後の声は、消え入る程か細かった。
「なるほど。貴女の『サービス』が、彼の中では『愛の契約』に書き換えられていたのですね」
ノワールはヴェールの奥で、微かに目を細めた。
「いいですか、瑠華さん。貴女は、相手を架空の存在の如く錯覚した結果、無自覚に怪物を育て上げてしまったのです。そして、その怪物を部屋まで引き入れてしまった…。その拙い慢心を、今この場で捨て去る覚悟はありますか?」
ルルは、震えながらも頷いた。
第六章
「……では、私から三つの道を指し示しましょう」
羅針盤の針が出鱈目に跳ね回り、金属の摩擦音が響いた。
「一つ目は、通報。ベッドなどにその男の痕跡があれば、彼は法で裁かれるでしょう…ただ、初犯であれば執行猶予が付き、数カ月後には世に放たれる。そしてまた、貴女をつけ狙うでしょう」
「二つ目は、逃亡。今すぐに、全ての暮らしを捨て去り、相手の手の届かない場所まで逃げるのです。ただし、貴女は彼の追跡を怯える日々を過ごすでしょう」
「そして三つ目…抹殺。何も失う物がない相手に、社会的抹殺は意味を成さない。その為、命を奪う物理的抹殺を遂行する必要があります…。貴女がその手を汚す「業」を背負う覚悟があるのなら、この道を選びなさい」
「……物理的、抹殺……?」
ルルの顔から血の気が引いた。
指先が、ガタガタと音を立てるほど震え出す。
「……そんな、無理です。私、人なんて……そんな恐ろしいこと……っ!」
「……そうですか。ならば、一生、あの男の影に怯えながら、魂を削り取られて生きなさい。……それも一つの『生』です」
ノワールは突き放すように、羅針盤から手を離した。
部屋に満ちる、耐え難い沈黙。
その中で、ルルの脳裏に正雄の歪んだ笑顔と、逃げ場のないおぞましい記憶がフラッシュバックする。
「……やだ……あいつがいる世界で生きるなんて、死ぬより嫌っ……!」
ルルは自分の肩を抱きしめ、嗚咽を飲み込みながら、絞り出すように告げた。
「……み……三つ目を、選びます……。もう私には、選択肢がありません……」
抹殺以外の方法を選んでも、彼からは一生逃げられないことを、ルルの本能が告げていた。
「よろしい。では数日後の夜……決行致しましょう」
ヴェール越しのノワールの口が、僅かに弧を描いた。




