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第8話:虚像の断崖(前編)

黒の審判 第8話

虚像の断崖


序章

「……『愛』とは、時に最も残酷な幻覚を見せます。眼前に注がれる微笑みが、自分だけに向けられたものだと信じた時、人は全存在を賭けてしまう。……しかし、その熱狂が裏切られた時、聖母だったはずの偶像は壊れ、時として歪な執着へと変貌するのです」


キイ……キイ……キイ……。

妖しく光る羅針盤の針が、まるで心拍数の急上昇を示すように、不規則に激しく脈打つ。


「全てを捧げた貢ぎ手と、それを当然の如く享受する歌姫。……さて。今日のお客様は、その執着という名の鎖の重さに、ようやくお気付きになられたようです」

カチリ。羅針盤が止まる。その音は、奈落へと続く落下音のようだった。



第一章


『わぁ、正雄さん! 今日も上限の赤スパ(5万円)!? 本当に、本当にありがとう……! 正雄さんがいてくれるから、私、頑張れるんだよ。大好きだよぉっ♡』

スマホの画面の中で、19歳の歌い手「ルル」が、カメラに向かってとびきりの両手ハートを作った。


画面の端では【正雄ニキ、今日もナイスパ!】【もはやルルのATMだなw】というリスナーたちの無責任なチャットが、火花のように流れていく。


湿った空気が淀む、安アパートの一室。

山積みになったカップ麺の空き殻と、消費者金融からの督促状。

その中心に鎮座する鈴木正雄は、今月の生活費のすべてを、たった一瞬の「レス」のために投じた。


「……ルル。俺のこと、今日も呼んでくれた。やっぱり、俺たちは繋がってるんだよな。結婚する日は、もうすぐだよな……」


ルルは配信のたびに言う。

「いつか有名になって、一番近くで支えてくれた『君』と幸せになりたい」と。

正雄は、その『君』が自分以外の誰かである可能性など、微塵も考えていなかった。



第二章


ある日、正雄は「配信環境を良くしてほしい」と高級なワイヤレススピーカーをルルに贈った。

その底面には、位置情報タグと盗聴器が仕込まれていた。

以来、正雄は位置情報をもとに、彼女のマンション近くのネカフェを渡り歩く生活を始めた。


愛らしく鼻歌を歌う声。

友人との他愛ない会話。

壁越し、画面越しに「生の声」を独占している快感に、正雄は酔いしれていた。

(ルル、いつも可愛いね……。僕だけが、君の全てを聞いてるんだよ…)


しかし、ある夜。配信が終わった直後のことだった。

「あー、今日も疲れた。あの正雄って奴、マジで粘着質で怖くない? 結婚とか言い出しそうでウケるんだけど」

スピーカーから漏れたのは、氷のような冷笑だった。


「あの小太りの中年男、必死にスパチャしてくるのウケるよね。あんなのが私の彼氏面してるとか、吐き気がするんだけど!」


正雄の頭の中で、何かが「プツリ」と切れた。

あんなに優しくしてあげたのに、本心では僕を笑っていたのか。

(……なら、次は泣かせてあげるよ。一生、僕の顔を見るたびに震えるようにしてやる…!)

「女神」だったルルは、その瞬間、「教育が必要な愚かな女」へと格下げされた。


数日後、ルルはコンビニで買ったばかりの、期間限定のピスタチオアイスを持ちながら、帰路へと向かっていた。

マンションに到着し、自室の前まで行くと…ドアノブに提げられた白いビニール袋に気づく。


「何…これ……?」

嫌な予感がして中を覗くと――そこには、今自分のバッグに入っているのと全く同じ銘柄の、全く同じアイスが、保冷剤もなしに、ただ静かに溶け始めていた。

手紙も、名前もない。

ただ「お前が何を買ったかまで全て知っている」という、無言の宣告だった。



第三章


先日の、ドアノブに掛けられた「自分と同じ買い物」という不気味な一件以来、ルルの生活は一変した。

震えながら、ルルは周囲を警戒しつつ、逃げるように部屋に飛び込む。


何重にも鍵をかけ、チェーンを引き絞る。

荒い呼吸を整えようと、ベッドに倒れ込んだ。

その時だった。鼻を突く、妙な臭いがした。

自分のものではない、脂ぎった男の、古い埃のような――すえた臭い。

枕に顔を寄せると、そこには誰かが横たわっていたような微かな窪みが残っている。


「……うそ…」

ルルの顔から血の気が引いた。

その瞬間、机の上のスマホが震えた。


『おかえり。今日は疲れたでしょ?ゆっくり休んでね』

正雄からのメッセージだった。

指先が凍りつく。

彼は、今、私が帰宅したことを知っている。

続けざまに、画面が光った。


『そうそう、この前のスピーカー。音質いいでしょ? 僕も今、君と同じ音を聴いてるよ。……今、ルルが泣きそうな顔をしてるのも、分かってるよ』


ルルが弾かれたようにスピーカーを凝視する。そのメッシュの奥から、獣のような息づかいが聞こえてきた。


「泣かないで、ルル……はぁ……はぁ……。ルルちゃんの、何枚か貰ってきちゃったよ。……薄いピンクの、フリルがついたやつ。……すごく、いい匂い。今、頬ずりしてるんだ……」

喉の奥から、せり上がるような吐き気が込み上げた。


昨日まで、自分の肌に触れていたもの。それが今、どこかであいつの脂ぎった顔に押し当てられている。

――自分の部屋が、自分の体が汚されていく。


「いやああああああああぁぁぁっ!!」

自分の悲鳴も、怯える姿も、全部あいつに届いている。

今この瞬間にも、部屋に入って来るかもしれない……!!

ルルは財布とスマホだけを掴んで、夜の街へと飛び出す。


(早く……早く逃げなきゃ、殺されるかもしれない……!)

街の雑踏の中にも、正雄がいるのではないかという差し迫った恐怖。

ルルは逃げ込むように、手近なビジネスホテルへと避難した。

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