第7話:怠惰の果て(後編)
第七章
その日を境に、和也の心には、煮えくり返るような苛立ちが日々蓄積していった。
早苗の性格が一変したのだ。
一見、今までと何一つ変わらない。
丁寧に家事をしつつ、拓真の育児を完璧にこなし、夫の世話を焼く貞淑な妻。
ただ、早苗に対して過度な要求をすると、途端に糸の切れた人形のように脱力し、何の反応も見せなくなったのだ。
和也の怒声も、その後の謝罪すらも、眉一つ動かさなくなっていた。
(何なんだ…?早苗の奴、今まであんなに怯えて従ってやがったのに…。俺が下手に出りゃつけ上がりやがって!)
数日後の夜。
「なあ、早苗……最近、おかしくないか?何か悩みでもあるのか?」
和也は抑えきれない怒りを滾らせつつも、静かな声で語りかけた。
「ううん、別に何もないわよ……あ、悩みって言えば、最近拓真がつたい歩き出来るようになったんだけど」
「違えよ、そんなんじゃなくてさっ!俺が何か言うと黙り込むの何なんだよ!いつも言う事聞いてたのにさぁっ!!」
早苗の言葉を遮り、和也が叫んだ。
途端に早苗の動きが止まる。
また、いつもの能面のような、感情の欠片もない顔つき。
「またそれだよ!何なんだよお前はぁ!俺を舐めてんのかてめえっ!」
和也の怒りが一線を越え、早苗を突き飛ばし、壁に叩きつける。
ガンッ!
早苗のスマホが放り出され、派手な音を立てながら床を跳ねる。
(あぁ、叩きつけられて痛いわね……でも、面倒……)
「今日こそは許さねぇ…!きっちり躾けてやるからなっ!」
和也の目は、既に正気を失っていた。
常に自分に怯え、顔色を伺い、絶対服従していたはずの早苗が、まるで自分を空気のように無視をする。
それは彼にとって、何よりも耐え難い屈辱だった。
第八章
「おい、何黙ってんだよ…倒れてねえで顔上げろよ…ああっ!?」
怒りに任せ、床に崩れ落ちた早苗の髪を鷲掴みにする。
「はあ…髪、……千切れて痛いわね…」
「痛い…だぁ!?じゃあもっとやってやるよ!ぶち殺してやる!」
気のない返事に、和也の怒りが最高潮に達した。
和也はキッチンから包丁を取り出し、早苗の頬に突き付ける。
切先が早苗の頬に沈み込み、鮮血が滴り落ちる。
「おら、さっさと土下座して詫び入れろ!刺し殺すぞ!」
「…あ……血で床汚れるわよ……土下座…?面倒……」
「じゃあ、刺し殺してやるよっ!」
和也が包丁を大きく振りかぶった瞬間…。
「警察だ! 刃物を捨てろ、今すぐだ!!」
怒号とともに玄関の扉が蹴破られ、防刃ベストに身を固めた数人の男たちが雪崩れ込んできた。和也の視界が激しく揺れ、強烈な力で床に押し伏せられる。
「なっ?警察…!?違う、これはただの夫婦喧嘩で…!」
頬を冷たいフローリングにこすりつけながら、和也は必死に声を張り上げた。
「黙れ! 『躾ける』『刺し殺す』だって? 110番の回線越しに全部聞いてるんだよ!」
制圧に当たった警官が、和也の腕を背後で捻り上げながら吐き捨てた。
――110番、回線……??
脳裏をよぎった不吉な予感に、和也の思考が一瞬停止する。
(馬鹿な!?俺は通報なんてさせていない。早苗がスマホを手に取る暇なんてなかったはずだ)
和也は這いつくばったまま、床の隅に転がった早苗のスマホを凝視した。
衝撃で亀裂の入った液晶が、見たこともないデバッグ画面を赤く点滅させていた。
[Critical Alert: G-Sensor Triggered]
[通報先: 警視庁通信指令室 (110)]
[ステータス: 音声リアルタイム送信中... 100%]
「……あ、が……っ!?なんで…?」
喉の奥から、乾いた悲鳴が漏れた。
自分が早苗を縛り付けるために、強制的に入れさせた監視アプリ。
「衝撃検知」の機能は、本来なら自分に通知を送るためのものだった。だが、そこに表示されている宛先は、『自分の端末』ではなく、国家権力の牙城――警察署に書き換えられていた。
「おい、立て! 署でじっくり話を聞かせてもらうぞ!」
「待って…。違うんだ、これは違うんだよぉ…」
和也は泣き喚きながら引きずり起こされつつ、早苗に懇願した。
「頼む早苗、お前からも、何か言って……」
和也の視線の先には…空虚な瞳で自分を見つめる早苗の姿が映った。
「……あ、和也さん…捕まっちゃったの……?…ばいばい…」
その壊れた人形のような呟きを聞いた瞬間、和也は自分が積み上げてきた「支配」という名の砂の城が、プライドと共に崩れ去って行くのを感じた。
第九章
和也は、殺人未遂の現行犯で逮捕され、懲役刑が確定した。
「エリートサラリーマンが深夜に発狂、包丁で妻を襲撃」というニュースは大々的に報じられ、出所後の再就職の道すら絶望的な状況となり、社会から完全に抹殺される事となった。
和也が去ったあとの家は、驚くほど広く、そして静かだった。
早苗は、早々に家を売り払った。
和也との日々…まるで牢獄に入れられた奴隷のような日々から、一刻も早く距離を置きたかったのだ。
早苗は実家に戻り、両親に支えられながら拓真と穏やかな日々を過ごしていた。
決して裕福ではないが、怯える事なく過ごす日常が、彼女の痛んだ心を優しく癒していく。
また『怠惰のカルーア』の効果は、意外なところで彼女の救いにもなっていた。
スーパーで働く日々の中で、時には理不尽なクレームを受ける事もある。
「おい、なんだこの店は!3日前に買ったばかりの野菜が痛み始めてたぞ、こんなモノ売って恥ずかしくないのか!?」
しかし彼女の心は、凪のように揺らがない。
(ああ、面倒なお客様……。もう、怖がるのも怯えるのも面倒……)
「……お客様、こちらは消費期限が迫っていた『お努め品』になっております。期限が長いものをお求めの際には、次回から通常の棚からお選び下さいね」
にこやかに微笑む早苗。
しかしその瞳は、感情の欠片も見当たらない冷たさを湛えていた。
クレーマーは気圧され、ぶつぶつと独り言を言いながら去っていく。
「早苗さんすごいっ!あの人ひどいクレーマーなのに!」
「早苗さんいつも穏やかなのに、いざ!って時強いのよねぇ。私も見習わなくちゃ」
「いえ、そんな事ないですよ…。普通にお話して、理解して頂けただけです」
仕事仲間からの喝采に、少し照れながら、はにかむ笑みを浮かべた。
家に帰ると、拓真の明るい笑顔が迎えてくれる。
「ママぁ…」
最近は、拓真はおぼつかない足取りながらも、歩けるようになって来ている。
早苗は、幼い息子を優しく抱き止めた。
「……お母さんは、あなたがいるから頑張れるわ。……大好き、拓真」
心の一部は、永遠に失われたのかもしれない。
しかし彼女の心には、小さく温かな灯火が確かにあった。
第十章
鉄の扉が閉まると、館は再び、重苦しい静寂に包まれた。
「…弱者の静寂に狂い、自滅の道を歩む主人。これ程までに滑稽で、哀れな終演はございません」
ノワールは、手元の羅針盤の針が、微かな震えの後にぴたりと止まるのを見届けた。
「……彼女は、理不尽に抗うことをやめ、世界を『無視』することを選びました。それは一見、敗北に見えるかもしれません。…ですが、嵐の中でも波立たない湖面のような心を得た彼女は、今、誰よりも自由なのです」
漆黒の記録帳に、羽根ペンが滑る。
そこには『福本早苗:対価……他者への受容と、怒りの情動』と記された。
「さて。次のお客様は、どのような『業』を抱えて来られるのでしょう……」
ノワールはロウソクを一つ、静かに吹き消した。




