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第7話:怠惰の果て(中編)

第四章


早苗は一縷の望みを頼りに、漆黒の館へと足を踏み入れた。

「福本早苗様……ですね。お待ちしておりました。私、ノワールと申します。どうぞお掛けください」


重厚なベルベットの椅子に身を預けた早苗は、か細い声で呟いた。


「……最初は、優しい人だったんです。いつも私を守って、細かい気遣いもしてくれて……。この人となら、素敵な夫婦になれるって思ったんです……」


「でも、和也さんは結婚してから変わっていきました……。最初は少し束縛が強いくらいで……だけど、今では生活の全てが監視されてて、少しでも彼の機嫌を損ねると、暴力を振るわれます…」

シャンデリアの光の下で、早苗は絞り出すように言った。


「……外面は良い人なので、周りの人達は和也さんを信じて疑いません。警察に相談しても、取り合ってもらえなくて…最近は、位置情報のアプリを入れさせられて、行動まで監視されてます……。もう私、どうして良いのか…」


「なるほど。相手にとって、貴女は『理不尽を受け入れ続ける下僕』に過ぎなかったのですね」

ノワールはヴェールの奥で、微かに目を細めた。


「いいですか、早苗さん。人間は一歩引くと、当然の如く一歩踏み込み、権利を主張して来る輩が掃いて捨てるほどおります。貴女は相手をありのままに受け入れ過ぎた為に、今の窮状を抱えている。その無垢な博愛を、今この場で捨て去る覚悟はありますか?」

早苗は心身ともに疲弊しつつ、辛うじて頷いた。



第五章


「……では、私から三つの道を指し示しましょう」

羅針盤の針が、重く引きずるような音を立てて回る。


「一つ目は、脱出。今すぐこの館を出て、子供と共に身を隠しなさい。保護シェルターへ逃げ込み、夫という呪縛から物理的に距離を置くのです。……ただし、残りの人生、あなたは彼の影に怯えながら生きていくことになるでしょう」


「二つ目は、無視。夫の暴力を、ただの雑音として受け流しなさい。何をされても反応せず、虚空を見つめるのです。いずれ夫は、反応のない玩具を手放すでしょう。……その前に、貴方の心が摩耗して壊れなければ、の話ですが」


「そして三つ目…制裁。これを毎日、夫の飲み物に数滴混ぜるのです。十日も経てば、彼は眠るように息を引き取ります。現代の医学では、死因はただの心不全と診断されるでしょう。夫を手に掛ける「業」を追う覚悟があるのなら、この道を選びなさい」

ノワールは早苗の前に、透明な液体の入った小瓶を、そっと差し出した。


「どれも……どれも、選べません…。和也さんを殺すなんて…そんな恐ろしい事出来ません……。それに、アプリで監視をするような人から、逃げられる気もしません…。‥私自身、もう何をすれば良いのか…分からない…」

早苗は虚無感に支配された瞳で、消え入るように呟く。

途端に、羅針盤の針が力なく止まった。ノワールの唇から、軽いため息が漏れる。


「完全に、夫と共依存の関係にありますね。自身で考える事さえ、拒否なさっている。……ならば、これを差し上げましょう。ただし、貴女の感情の一部は、永遠に失われますが」


ノワールは棚から、陶器製の酒瓶を取り出した。

開栓した途端、珈琲とバニラの濃厚な香りが、館を満たした。


「これは『怠惰のカルーア』。制裁も、脱出する気力すら失われているのであれば、二番目…「無視」の道を歩みなさい。これをお飲みになれば、その助けとなるでしょう」


疲弊しきった早苗は、言われるままにそれを口にした。

『怠惰のカルーア』は、とろける程優しく、果てしなく甘美で…どこか退廃的な香りがした。


「……あとは私が、そのスマホを爆弾に変えて差し上げましょう…」

ヴェール越しのノワールの唇が、僅かに弧を描いた。



第六章


「早苗、出張の前の朝の件…本当にごめん。最近仕事で余裕が無くて、つい君に当たってしまった。許してほしい」

出張から帰宅した和也は、早苗に深く頭を下げた。

そう……いつもこうなのだ。

当たり散らされた後に謝罪され、時には涙まで見せられ……そして、許してしまう。


「…もう、謝らないで。私も悪かったんだし」

早苗がそう言うと、和也の顔がぱっと明るくなった。


和也が仕事に出かけた後、早苗は掃除機をかけつつ悶々としていた。

ノワールの言葉が頭の中で反芻される。

(……貴女がするべき事は二つのみです。一つは、常にスマホを手放さない。一つは、就寝まで玄関の鍵をかけない。……あとは、何もする必要はありません)


あれは、一体どういう事なのだろう…?

また、今までと同じ…夫の機嫌を伺う日常へ戻っただけだ。

変化が起きたのは、その晩の事だった。


「早苗、最近は肉料理が続いているよ?もっと魚のメニューも取り入れないとダメだろ?あと、拓真の夜泣きも君がなんとかしてくれ。最近寝不足で…」

うす笑いを浮かべる和也が早苗に視線を向けると…そこには、能面のように無表情の早苗がいた。


「……ごめんなさいね…」

まるで機械のように無機質な声。


「おい、何だその態度?……お前、俺の事舐めてんのか…?」

和也が怒りを露わにして立ち上がる。


「………。」

早苗からは、既に返事すら返って来なかった。

怒りを湛える夫の声も、椅子を蹴飛ばす音も、早苗が感じるのは「恐怖」ではなく、果てしない「煩わしさ」だった。


(何か…和也さんが言ってるわ……でも、いいや…面倒くさいし)

更なる罵声が聴こえたような気もするが、返答するのさえ億劫で耳に入ってこない。


「ちっ!ふざけやがって……明日早いから、もう寝るからな!」

和也は叩きつけるように、寝室のドアを閉めていった。

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