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第7話:怠惰の果て(前編)

黒の審判 第7話

怠惰の果て


序章


「……『受容』とは、相手をありのまま受け入れる美徳とされます。尊重された心は共鳴し合い、揺るがぬ信頼関係を築くでしょう。…しかし一歩間違えれば、自身を縛り上げる鎖とも成り得ます。他者の理不尽を飲み込み、耐え忍ぶことに変質された時……それは、歪で醜悪な牢獄へと変わるのです」

キイ……キイ……キイ……。

妖しく光る羅針盤の針が揺らめき、微かな音を立てる。


「受容を当然の如く享受し、傲慢に振る舞う愚かな男と、それを耐え忍ぶ事しか出来ない悲しい女。……さて。今日のお客様は、その鎖の重みに、ようやくお気付きになられたようです」

キイ……キイ……と、羅針盤が「停止」を予感させる不吉な音を立てる。



第一章


「早苗。今日の朝食は、少し塩分過多じゃないか?それにバランスも悪い。副菜で野菜が一品欲しかったな」

福本和也が、朝食を摂りながら静かに告げる。


「ごめんなさい、和也さん。うっかり食材を切らしちゃっていて…」

早苗は俯きながら弁明する。


「謝る必要なんて無いよ、君ならもっと『きちんと出来る』って思って、アドバイスしているだけなんだから」


和也は笑みを浮かべながら、箸を進めた。


「ついでに思い出したけど、窓ガラスにうっすら埃が付いてたのも気になったなぁ。シャツのアイロンがけも、最近甘いよ。気を付けた方がいいね」


もう、一体何年前からだろう…?

和也の言葉を聞く度に、少しずつ心が削られていっている気がする。


1歳になる息子、拓真がぐずり始めると、和也は追い打ちをかけるように更に言い放った。

「うるさいな……拓真のしつけ、なってないんじゃないか?」


和也さんの言ってる事は間違っていない…私が至らないだけなんだ…。

早苗は、必死に自分に言い聞かせていた。



第二章


ある夜、事件が起きた。

深夜2時、早苗は拓真の激しい泣き声で目が覚めた。

額に手を当ててみたら、驚くほど熱い。白目を剥き、激しくけいれんしている。

早苗の顔から血の気が引いた。


「和也さん、起きて!拓真が、拓真が大変なの!病院に連れて行かなきゃ…」

寝ている和也の背を揺すると、手を払われた。


「…勘弁してくれよ。それに、こんな夜に病院なんてやってないだろ。明日行けばいいよ。疲れてるんだ、俺は寝るよ」

さも面倒な口振りで、布団を被る。


「……ごめんなさい、私が拓真を、緊急外来に連れて行くわ」

早苗は深夜タクシーを呼び、近隣の病院に駆け込んだ。


早苗は、待合室の長椅子に座り、ぐったりした拓真を抱きながら震えていた。

ふと向かいの椅子を見ると、自分と同じように不安げな母親と、その肩を支える夫の姿があった。


(和也さんは、あんな事一度もしてくれた事がないのに…)

何気ない光景に、早苗の心は痛んだ。


病院での診断は「熱性けいれん」という一過性の症状だった。

幸い、命に別条があるものでは無いとの事で、早苗は胸を撫で下ろした。


しかし、帰宅後も彼女の緊張は続いた。

再発防止のために座薬を投与されたが、拓真が異常な程にうなされていたのだ。


(先生は『薬の副作用』って言ってたけど、本当に大丈夫なの…?)

拓真の体温を測り、熱い吐息を確認する。

症状が落ち着いたのは、夜が明けようかという時間だった。

安堵と共に緊張の糸が切れ、早苗は倒れるように眠りに就いた。



第三章


「おい!早苗起きろっ!」

和也の怒声で、早苗は飛び起きた。

目の前には、異常なまでの怒りを湛えた和也の姿があった。

目は血走り、煮え滾るような視線を早苗に向けていた。


「早苗、お前…俺は『明日病院に連れてけ』って言ったよなぁ。それが何だ?俺の朝食も出来てない、シャツも用意されてない、しかも今日出張って言ってたよなぁ?」


「ご、ごめんなさい……でも拓真は、まだ熱があって、意識もはっきりしなくて……」


「だからなんだよ?医者が帰していいって言ったんだろ?ならもう病気じゃねえんだよ。寝てりゃ治るんだよ。そんなことより、俺の今日の商談に穴が開いたらお前、どう責任取るつもりだ?」


「…本当に、ごめんなさい……」

早苗は震え上がりながら、和也に平伏した。


「謝って済む問題じゃねえんだよ!……おい、どこ見てんだ。俺の顔を見ろって言ってんだよ!」

和也は早苗の髪を鷲掴みにして、強引に持ち上げた。


「ひいっ!痛い痛いぃ…許して、和也さん…!」

恐怖と痛みに、早苗は悲鳴を上げた。髪がブチブチ…と抜け落ちる音が、彼女の恐怖を増幅させる。


「分かったならさっさと用意しろ!30分以内に終わらなきゃ、どうなるか分かってんだろうな!?」

和也の怒声に嗚咽を漏らしながら、早苗は必死に作業に追われた。


和也が去ったあと、自身の毛髪が散乱したリビングで、早苗はへたり込んだ。

もう、涙を流す気力すら湧かない。

彼女の視線の先には、漆黒の手紙が置かれていた。

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