第6話:溶けた偶像(後編)
第六章
化粧水をすり替えてから1週間、2週間経っても、何も変わらない。
カースト最下位の、変わらぬ屈辱的な日々。
陰湿なイジメも、放課後に複数の男たちから受ける耐え難い恥辱も、百合子は歯を食いしばって耐えた。
ノワールの声が頭に響く。
(…美絵たちは、貴女が行った化粧水のすり替えと、もう一つの『罠』によって、より深い絶望を味わうでしょう。相手は知らず知らず、自分の首を絞めているのです……)
遂に美絵は、ファッション雑誌の専属モデルとして抜擢される。
「美絵さん、専属モデルになったって本当?」
「すごいっ!これからは、その道に進むの?」
「そんな大した事じゃないわ。モデルっていっても駆け出しですもの。大変なのはこれからよ」
クラスの女子たちが沸き立つ中、美絵は涼しい顔をして笑みを浮かべる。
しかしその表情からは、歪な承認欲求と、他者を見下す傲慢が滲み出ていた。
そして3週間が過ぎようとしていた頃……学校で異変が起きる。
美絵の顔に、微かな痒みが発生した。
(何…?この痒み…メイクで荒れたのかしら?)
最初は微かな痒みだったが、みるみるうちに美絵の顔は水疱が出来、斑が現れ、変色を始めた。
「何これ、顔が…痒い…痛いっ!一体どうなってるの!?」
「ひっ…!美絵さんの顔が…!」
取り巻きたちの顔が引きつり、一斉に距離を置く。
周りの異常な雰囲気に、美絵は鏡を見た瞬間…。
「ひっ…ぎゃああああぁぁっ!私の顔がっ!顔があぁ!!」
美絵は鏡を見て絶叫した。
彼女の顔は赤黒く膨れ上がり、変色し、水疱と滲出液が垂れ落ち、生ゴミのような異臭を放っていた。
すり替えた化粧水には、一定量使用しているうちに成分が蓄積していく、遅発性の化学物質が混入されていた。
とっくに化粧水は使い果たし、その証拠すらない。
百合子は机に座りつつ、冷たい笑みを浮かべていた。
美絵の生活は一変した。
取り巻きの連中は波が引くように離れていき、モデルの話も水疱に帰した。
羨望の眼差しは侮蔑に変わり「化け物」と言われるようになるには時間がかからなかった。
美絵は引きこもり、重度の精神病を患った。
第七章
美絵が精神を患い、女王の不在となった学校。
取り巻きだった男子たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げ隠れ、放課後の空き教室で、青い顔で口裏を合わせていた。
「……あの動画。美絵のスマホに入ってるよな。あれ、警察に見つかったらマズくないか?」
「だ、大丈夫だろ…。あいつが勝手にやったって言えばいいんだよ。俺たちは被害者だ!」
醜い責任のなすりつけ合い。
そこに、影のように百合子が現れた。
「…あなた達、自分だけ助かるつもり?浅ましいわね」
「……何だよ、百合子。美絵がいないからって調子に乗んなよ。それとも、また可愛がってやろうかぁ!?」
椅子を蹴り上げ、威勢を張るリーダー格の男子。
百合子が無言で机の上に『あるもの』をカラン、と置いた瞬間、男達は凍りついた。
手のひらに収まるサイズの、小さな黒いカメラ。
「これ、何週間も前から、学校のあちこちに仕掛けておいたの。……貴方たちの顔、声、私にしたこと、全部私のサーバーに保存してあるわ。もちろん自分たちだけは逃げ切ろうと画策してた動画も、ね」
百合子の声は、以前のような震えなど微塵もなかった。
湖の底のように静かで、底知れない冷たさを湛えている。
「は、はぁっ!?ふざけんなよテメエ!今すぐ全部消せよ!」
百合子の胸ぐらを掴む男子。
「殴りたいなら殴れば?……その代わりに、私の指一本で貴方たちを地獄に突き落としてあげる。動画は貴方たちの親、内定先の大学、警察…それにSNSのトレンドに、一斉に『配信』される設定になってるの。……やってみる?」
百合子は冷ややかな、今まで見たこともない『捕食者』の目を向ける。
「……っ!」
男子たちは、一斉に顔面を蒼白に染めた。
これまで百合子を「おもちゃ」として扱っていた彼らが、今、彼女の指先一つで人生が終わる「家畜」になったことを理解したのだ。
「待ってくれ、百合子! 悪かった、俺たちが悪かったんだ! 何でもするから!」
床に膝をつき、必死に許しを乞う男子たち。
その姿は、かつて百合子が彼らに見せていた絶望よりも、ずっと惨めで、滑稽だった。
百合子は、美絵が使っていた椅子に、ゆったりと腰を下ろした。
「何でもするの? 嬉しいわ。……じゃあとりあえず、私の靴でも磨いてくれる? あ、それから。明日からも私の目の届く範囲で、一生怯えながら過ごしてね。……貴方たちが死ぬまで、この『命綱』は、絶対に手放してあげないから」
夕闇が差し込む教室で、百合子は静かに微笑み、窓ガラスに映る自分の顔を見た。
(私は美絵の顔を焼いて、一線を越えてしまった。でも私は、自分の尊厳を取り戻す道を選んだんだ……!)
そこには、かつての怯えるだけだった少女と決別し、揺るぎない信念を宿した女性の顔があった。
ノワールから授かった『嫉妬のジン』。
その炎は、美絵を焼いただけでなく、百合子の「脆い心」をも焼き尽くし、代わりに「鋼のような魂」を残した。
夕焼けを背に、彼女は軽やかに歩き出す。
その足取りは羽根が生えたように自由で、心は闇を抱きつつも晴れやかだった。
終章
鉄の扉が閉まると、館は再び、重苦しい静寂に包まれた。
「…奴隷から女王へ。これ程までに鮮烈で、皮肉な終演はございません」
ノワールは、手元の羅針盤の針が、微かな震えの後にぴたりと止まるのを見届けた。
「……嫉妬の炎。それは時として全てを焼き尽くす力を宿します。彼女は『持たざる者』としての服従を拒み、『持つ者』の顔を焼いた。何者にも縛られない心を得たと同時に、自身の純真な優しさをも、永遠に焼いてしまったのです。今後彼女を待つものは、圧政から解放された安息の日常か、あるいは他者に圧政を強いる強者の日々か…」
漆黒の記録帳に、羽根ペンが滑る。
そこには『佐野百合子:対価……
冷徹なる嫉妬と、隷属の屈辱』と記された。
「さて。次のお客様は、どのような『業』を抱えて来られるのでしょう……」
ノワールはロウソクを一つ、静かに吹き消した。




