第2話 王太子は、何も失っていないと思っていた
婚約破棄から三日が過ぎても、王城は何事もなかったかのように動いていた。
少なくとも、表向きは。
王太子レオンハルトは自室で紅茶を飲みながら、書類に目を通していた。窓の外では、王都の街並みが穏やかな昼の光を受けている。
「まったく……ようやく肩の荷が下りた」
誰に向けるでもなく、そう呟いた。
あの女――イリス・アルヴェーンは、あまりにも地味だった。感情の起伏も乏しく、何を考えているのか分からない。王太子妃として隣に立つには、あまりにも華がない。
それに比べて、聖女アウレリアはどうだ。
慈愛に満ちた微笑み。人々を惹きつける声。あれこそが、王国の象徴にふさわしい存在だ。
「国は俺が導く。財務など、宰相に任せておけばいい」
そう、問題は何もない。
――そう思っていた。
扉がノックされる。
「失礼いたします、殿下」
入ってきたのは、宰相グレゴールだった。白髪交じりの男は、いつも通り落ち着いた様子を装っているが、その眉間には微かな皺が刻まれている。
「何だ?」
「商人ギルドから、少々……」
歯切れの悪い言い方に、レオンハルトは顔をしかめた。
「簡潔に言え」
「穀物の流通量が、予測よりも下がっています」
一瞬、意味が分からなかった。
「……は?」
「帳簿上では問題ありません。しかし、市場に出回る量が減っている。価格も、じわじわと上昇しています」
レオンハルトは鼻で笑った。
「そんなことか。収穫期はこれからだろう。商人が値を釣り上げているだけだ」
「それが……」
宰相は言葉を切り、慎重に続ける。
「いくつかの商会が、王都への供給を控え始めています。理由は明らかにしていません」
「脅しか?」
「いえ。むしろ……距離を取っているように見えます」
空気が、わずかに重くなった。
レオンハルトはカップを置き、椅子にもたれかかる。
「イリスがいなくなったから、混乱しているだけだろう。すぐに落ち着く」
そう言い切った瞬間、自分の言葉に小さな違和感を覚えた。
――混乱?
なぜ、彼女がいなくなった程度で。
その疑問を打ち消すように、宰相は話題を変える。
「もう一つ。税収の入金が、いくつか遅れています」
「遅れ?」
「はい。特に、地方都市からの分が」
「督促すればいい」
「すでに出しています」
宰相の声は低かった。
「返答が、ありません」
沈黙が落ちる。
レオンハルトは、無意識のうちに指で机を叩いていた。
「……イリスは、何をしていた?」
ふと、そんな言葉が口をついた。
宰相の目が、わずかに揺れる。
「殿下?」
「いや。財務の補佐だ。帳簿をつけていただけの女だろう?」
自分で言っておきながら、どこか自信が持てない。
宰相は一拍置いてから答えた。
「確かに、正式な役職はありませんでした。ただ……」
「ただ?」
「彼女は、すべての数字に目を通していました。調整案も、彼女が出していたものが多い」
胸の奥が、ざわつく。
「……宰相、君が決裁していたのでは?」
「最終的な承認は、私です。しかし、提案そのものは――」
そこまで言って、宰相は口を閉じた。
レオンハルトは立ち上がり、窓辺へ歩く。
王都は、相変わらず平和に見えた。
人々は笑い、商人は声を張り上げている。たった三日で、国が傾くはずがない。
「考えすぎだ」
自分に言い聞かせるように呟く。
「女一人がいなくなったくらいで、この王国が揺らぐわけがない」
宰相は否定しなかった。
それが、逆に不安を煽る。
「……殿下」
去り際、宰相がぽつりと言った。
「帳簿の写しが、見当たりません」
レオンハルトは振り返った。
「どういう意味だ」
「王城に残されているはずの記録が、封じられています。閲覧できない」
「そんなこと、許可した覚えはない」
「私もです」
宰相は深く頭を下げた。
「調査を進めます」
扉が閉まる。
一人になった部屋で、レオンハルトはしばらく動けずにいた。
胸に残る、説明のつかない不安。
――本当に、何も失っていないのか?
その答えを、彼はまだ知らない。
そして一週間後。
王都の穀物価格は、誰の目にも分かるほど跳ね上がった。




