第3話 値段が上がったのではない
最初に異変に気づいたのは、貴族でも役人でもなかった。毎日おなじ量を量って暮らす側の人間だった。
王都中央市場で店を構える、ただのパン屋だった。
「……おかしいな」
粉袋を持ち上げながら、店主の男は眉をひそめた。
小麦粉が、軽い。
正確には、袋の中身が減っている。納品された量は帳面どおりだが、焼けるパンの数が合わない。
「親方、また値段上げるんですか?」
店の奥から、弟子が不安そうに声をかけてくる。
「いや……今日はまだだ」
男はそう答えたが、内心では計算が狂い始めていた。先月の粉の値と、今月の焼き上がりの数を頭の中で並べ直す。
その日の昼、隣の肉屋が声を荒げた。板を叩く音がして、通りの向こうまで届いた。
「おい、聞いたか? 北門の商会、穀物の入荷が半分だってよ」
「半分?」
「理由は分からねぇ。『今月はこれだけだ』って突っぱねられたらしい」
市場に、ざわめきが広がる。店から店へ、同じ問いが順に伝わっていく。
夕方には、はっきりと分かった。棚を見れば数える必要もなかった。
値段が上がったのではない。
物が、減っている。
***
三日後。
市場の掲示板に、新しい価格表が貼り出された。
「……一割増し?」
人々は最初、そう呟いた。値を書き直した跡を、指でなぞる者もいた。
次の日には、二割。
さらに翌日には、そもそも棚が空になった。札だけが残り、下に置くものが無い。
「昨日まであったはずだろ!」
「知らないよ! 来てないんだ!」
怒号が飛び交う。
主婦たちは列を作り、兵士たちは警戒に立つ。誰もが苛立ち、誰もが理由を知らない。
噂だけが、膨らんでいく。口から口へ渡るたびに、話は少しずつ大きくなった。
「戦争が近いらしい」
「王城が買い占めてるんだ」
「商人が隠してる」
だが、どれも決定打に欠けていた。言い出した者に、確かめた覚えのある者がいない。
商人たちの顔色が、一様に悪いことを除いては。
***
王城近くの倉庫街。
若い商人の男が、帳面を抱えて立ち尽くしていた。荷の受け取りに来て、渡された書き付けを開いたところだった。
「……供給停止?」
文字を、何度も読み返す。行の頭に指を当て、端まで滑らせてから、また戻す。
そこには、簡潔な文言しか書かれていなかった。
――今月以降、王都への優先供給は行わない。
署名は、辺境の複数商会。
「そんな馬鹿な……」
男は歯を食いしばる。帳面を抱えた腕に力が入り、綴じ目が撓んだ。
この商会は、王都との取引を最優先にしてきた。税も、寄付も、要請には従ってきたはずだ。
だが、返書はすべて同じ内容だった。並べて重ねると、文字の位置まで揃っていた。
理由は、書かれていない。
まるで、誰かの合図を待っていたかのように。
***
市場の片隅。
老婆が、空の籠を抱えて座り込んでいた。朝から市場を一巡し、同じ道をもう一度歩いた後だった。
「今日は……何も、買えなかったよ」
声をかけた娘が、言葉を失う。籠の底に何も入っていないことを、覗き込んで知った。
子供の泣き声が重なり、空気が張りつめていく。
兵士が割って入る。
「落ち着いてください! 王城が対策を――」
「いつだ!」
誰かが叫んだ。
「いつになったら食えるんだ!」
兵士は答えられなかった。
***
同じ頃。
王城の会議室では、怒号が飛び交っていた。卓の上には、部署ごとに束ねられた報告書が積まれている。
「報告が違うじゃないか!」
「帳簿上は問題ありません!」
「帳簿で腹が膨れるか!」
役人たちは机を叩き、責任をなすりつけ合う。
だが、共通していたのは一つ。
誰も、全体を把握していない。
かつて、数字を繋いでいた存在が、いない。
宰相グレゴールは、黙って資料を見つめていた。
どの報告書にも、同じ空白がある。頁を繰る手を止め、同じ位置を順に見比べていく。
調整者の名前。
最終確認の印。
そこにあったはずの署名が、消えている。消したのではなく、はじめから書かれていなかった。
「……イリス・アルヴェーン」
思わず、名を口にしていた。声にしてから、口にした自分に気づいた。
周囲の役人が、ぎょっとしてこちらを見る。手を止めた者から順に、顔が上がった。
「彼女は、何をしていた……?」
誰も、答えられなかった。
***
その日の夜。
王都では、灯りが一つ、また一つと消えていった。表通りから細い路地へ、順に暗さが移っていく。
節約のためではない。
燃料が、届かなくなったのだ。
暗闇の中、人々はようやく気づき始める。窓の外を見て、隣の家も同じだと確かめた。
これは一時的な混乱ではない。
誰かが、意図的に手を引いた結果だと。
そして、その“誰か”の名を、まだ誰も口にできずにいた。
値上がりの話に見えて、実は「誰も全体を見ていない」という話でした。
物の値段は、たいてい物のせいで動きません。
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