第1話 帳簿を閉じる音
本作は「婚約破棄」から始まりますが、
すぐにざまぁで終わる物語ではありません。
剣を振るう代わりに、数字で戦います。
怒鳴る代わりに、流れを整えます。
気づいたときには、
“中心”が変わっている。
そんな物語を、ゆっくりと描いていきます。
少し静かで、少し重たい成り上がりをお楽しみください。
王城の控え室は、舞踏会の喧騒から切り離されたように静かだった。壁を一枚隔てるだけで音がここまで遠くなることを、私は三年かけて知った。
分厚い扉の向こうでは、楽団の音色と笑い声が渦を巻いている。けれど、この部屋には時計の針が進む音と、紙をめくる乾いた音しか存在しない。
私は机に向かい、最後の帳簿に視線を落としていた。羊皮紙の綴じ目を左手で押さえ、右手の指で数字の列を上から順に追っていく。
羊皮紙に並ぶ数字は、もう何度も確認したものだ。税収、穀物備蓄、交易収支、軍需費。どれもが王国全体を支える重要な数値であり、ひとつ狂えば国は簡単に傾く。
それを、私は黙々と整理していた。項目ごとに合計を出し、前月の写しと突き合わせ、差の出た行にだけ薄く印をつける。数えれば、どこで狂ったのかは必ず分かる。
今夜は舞踏会だ。王太子の婚約者として、華やかなドレスを纏い、貴族たちの前に立つ日。鏡に映る私は、淡い色のドレスを着ているものの、どこか場違いだった。宝石も、過剰な装飾もない。
侍女が不安げに声をかけてくる。扉の前で足を止め、両手を前で組んだまま、こちらの手が止まるのを待っている。
「イリス様……そろそろお時間です。皆様、広間に集まられております」
「ええ、分かっています」
そう答えながら、私は最後の数字に線を引いた。引き終えた線の下に、締めの日付だけを小さく書き添える。
帳簿を閉じる。
その音は驚くほど小さく、しかし、胸の奥にだけははっきりと響いた。
――今夜、王太子殿下から「話がある」と言われていた。
その言葉を思い出し、少しだけ胸がざわつく。婚約して三年。私は王太子妃として表に立つことは少なかったが、裏方としてできることはすべてやってきたつもりだった。
もしかしたら。
ほんのわずかに、そんな期待がよぎる。
これまでの働きを、ようやく認めてもらえるのではないか。そうでなくとも、今後の方針について話があるのだろう。王国の財政は決して楽観できる状況ではない。
私は席を立ち、帳簿を棚に戻した。背表紙の高さを揃え、年ごとの並びが崩れていないことを指の腹で確かめる。
そして、舞踏会の広間へと向かう。
***
広間は眩しかった。天井の高さのぶんだけ光が溜まって、床の石まで白く見える。
無数の蝋燭が煌めき、絹と宝石に身を包んだ貴族たちが談笑している。音楽は優雅で、誰もが今夜が祝福の日であると信じて疑っていない。
王太子レオンハルト殿下は、壇上に立っていた。いつもより一段高い場所で、わずかに顎を上げている。
その隣には、純白の衣を纏った聖女アウレリア。柔らかな微笑みを浮かべる彼女に、視線が集まっている。
私は定められた位置に立った。婚約者の席は壇の右手と決まっていて、この三年、一度も変わったことがない。
その瞬間、音楽が止まる。
ざわり、と空気が揺れた。
レオンハルト殿下が、はっきりとした声で告げる。広間の隅まで届くように、あらかじめ息を整えた声だった。
「本日をもって、私は――イリス・アルヴェーンとの婚約を破棄する」
一瞬、理解できなかった。
次の瞬間、広間がどよめく。
視線が一斉に私へと集まり、まるで値踏みするかのように刺さった。
「理由は簡単だ」
殿下は私を見ていなかった。正確には、“私そのもの”を見ていない。
「彼女は無能だ。感情もなく、王妃としての資質に欠けている。これ以上、国の未来を任せるわけにはいかない」
耳鳴りがした。
無能。
その言葉が、奇妙なほど静かに胸に落ちてくる。
誰かが小さく笑った。誰かが頷いた。誰も、異を唱えない。
聖女アウレリアが一歩前に出て、慈しむような声で言う。白い衣の裾が、壇の縁でわずかに揺れた。
「イリス様……あなたのためにも、ここで終わりにしましょう。きっと、別の幸せがありますわ」
――優しい言葉だった。
だからこそ、余計に残酷だった。
レオンハルト殿下が私を見る。この夜になって、はじめて目が合った。
「何か言うことはあるか?」
ある。
本当は、いくらでも。
この国の財政が、どのように成り立っているのか。誰が調整し、誰が帳簿をつけ、誰が崩壊を防いできたのか。
すべて、言える。
でも。
私は口を開かなかった。
今、ここで言っても、彼らは理解しない。ただの言い訳として切り捨てられるだけだ。
だから、私は一言だけ告げた。
「……承知しました」
それだけだった。
騒然とする広間で、私の声は不思議なほど澄んでいた。
その後のことは、淡々と進んだ。書類が回り、署名を求められ、私はそのすべてに目を通してから名を書いた。
辺境への追放。称号の剥奪。持ち出し品の制限。
すべてが、既に決まっていたかのように。
***
夜。
私は自室で、最後の仕事をしていた。灯りを一つだけ残し、棚から下ろした帳簿を年ごとに積み直していく。
王城の金庫に保管されていた帳簿を整理し、印章を外す。記録は封じ、誰の手にも渡らないようにした。
机の上には、何も残らない。羽根も、印章も、書きかけの紙も、すべて元の場所へ戻してある。
「これで……終わりですね」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。返事がないと分かっていて、それでも声に出した。
私は、ただ役目を終えただけだ。
翌月。
王都の市場から、穀物が消えた。
ここまでご覧いただきありがとうございます。
剣を振るう代わりに数字で戦う話です。派手さより、じわじわ効くほうを選んで書いています。
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