九話
開店前のアクアリウムレストランは、まだ静かだった。
客のいない店内には、水の流れる音だけがゆったりと響いている。
円柱型の巨大水槽の中では、色鮮やかな魚たちが朝の光を受けながらゆっくりと泳いでいた。
天井近くの窓から差し込む柔らかな陽光が水面で揺れ、その反射が壁や床に淡い青を落としている。
営業中の賑やかさが嘘のような静けさだ。
厨房ではすでに仕込みが始まっていた。
包丁がまな板を叩く小気味良い音。
鍋の中で煮込まれるスープの香り。
焼きたてのパンの匂い。
テーブルを拭き、カトラリーを並べ、グラスを磨く。
もう、何度も繰り返した開店準備の手順。
メイは、ホールにサミュエルしかいないのを確認してからすっと息を吸う。
言葉に出すのは、少しだけ緊張して唇が震えた。
「辞めるかもしれない! 家、帰るかも!」
開口一番そう宣言すると、レジの確認をしていたサミュエルが勢いよく顔を上げる。
メイが、なんでもないことのようににっと笑う。
「退職勧告は一ヶ月前が鉄則っしょ?」
「……カストルめ……うちの重要な戦力を削ぎやがって……」
「口悪!」
レジカウンター越しに睨まれ、メイはけらけら笑う。
けれど笑いながらも胸の奥は落ち着かなかった。
一ヶ月後。
満月の夜。
そこで全てを試す。
成功するかは分からない。
けれど挑戦するのだ。
その日が来れば――帰れるかもしれない。元の世界へ。
「……本当なんですか?」
サミュエルが静かに聞く。
メイは持っていた箒へ意味なく目を落とし、緩く笑った。
「わかんない」
正直に答える。それ以外、言えなかった。
あの日以来、毎日カストルの研究所を訪れては、仮説を聞いている。万が一にもメイの体調や変化などが起きた時にも対応できるように、検査も重ねている。
その度にカストルは早口で目を輝かせながら、あれやこれやと帰還理論をメイに話ではくれるが、やはりメイにはちんぷんかんぷんだ。
けれど、カストルの目が曇りなくメイの帰還を見据えていることだけは分かる。
「……カストルさんは、一ヶ月後の満月の日に全部ぶつけるって」
失敗するかもしれない。けれど、カストルを信じたい。
メイの言葉に、サミュエルは少し目を伏せた。
「……そうですか」
それだけを、なんとか絞り出すようにいう。
二人して、妙に胸が詰まる。
僅かな沈黙の後、湿っぽさを振り切るようにサミュエルが顔を上げた。
「よく働いてくれましたね」
不意にサミュエルが言った。
「あなたの働きぶり、私は高く評価していました」
「へへ」
「売上にも貢献してくれましたし」
「そこ重要?」
「重要です」
即答だった。
通常運転のサミュエルに、メイは少しだけ笑う。
「あは、とかいってー。一ヶ月後も何食わぬ顔で出勤したら察してくださぁい!」
「その時はいつも通り扱き使うだけです」
「わあ! 鬼っ!」
けらけらと笑いながら、メイも持ち場へ向かう。
それで、話を終える。
帰るかもしれない、それを口に出したのは初めてだった。その、自分の言葉に、胸が浮つきそうになるのを必死に抑えて深呼吸する。
いつもの調子を取り戻すように掃き掃除を終えて、次に磨き終えたグラスを棚へ戻し、テーブルの位置を整える。
そうして準備をしながら、ふと顔を上げた。
開店直前の店内。
磨かれた窓。
整えられた椅子。
朝の光を受けて揺れる青い水槽。
これから始まる喧騒を、静かに待っている空間。
メイは少しだけ目を細める。
嫌いじゃなかった。
むしろ好きだった。
忙しくなる前の、このほんの僅かな時間が、嵐の前の静けさみたいで。
そして店内の時計が開店時間へ近付いていく。
もうすぐ扉が開く。
もうすぐ客が来る。
もうすぐ、いつもの賑やかな一日が始まる。
そう思った瞬間、店の入り口に掛けられたベルが、小さく揺れた。
からん、と澄んだ音が店内へ響く。
アクアリウムレストランの一日が、今日も始まろうとしていた。
◇◆
そして閉店後。
最後の片付けが終わった頃だった。
「メイさん、ちょっと」
サミュエルに呼ばれる。
振り返ると、彼は一人で立っていた。
店内には誰もいない。
店内の水槽を中心とした、青い光だけが静かに揺れている。
「なんです?」
サミュエルは少し黙る。
それから珍しく、――本当に珍しく柔らかく笑った。
「よく頑張りました」
メイが目を瞬く。
「従業員としてのあなたを高く評価しています。……だけど個人の感情としても、あなたのことを好ましく思っていましたよ」
メイの呼吸が一瞬止まる。
その隙に、サミュエルは杖を持ち上げた。
しゃらり。
小さな音が鳴り、次の瞬間。
色とりどりの光が舞った。
花びらのような――優しい魔法。
ふわり、ふわりと青い店内を彩りながら舞い落ちる。まるで桜吹雪だった。
それは、初めてこの店の面接を受けた時に、勢いだけで鳴らされたクラッカーの魔法に似ているようで、全く違うものだった。
門出を祝う、優しい魔法。
「帰れるように、心から祈っています」
サミュエルがそう言ったその瞬間、呆気なく、メイの目が潤んだ。
「やめろよー……」
笑いながら鼻をすする。
最近、どうにも涙腺が緩い自覚があったのに。
「メイク落ちちゃうでしょー……」
サミュエルは苦笑する。
そして、優しくその頭を撫でた。
子供をあやすみたいだな、と少し頭を過ったが、そもそもメイは十代の少女だ。それなのに、一人懸命に立って、自身で居場所を見つけていた。
だから、小さな頭が細かく揺れるのを、サミュエルは尊敬の念を込めて、しばらく見守る。
そして不意に――頭の端に、この小さな少女とずっと寄り添い歩いた、不遜な猛獣の尻尾が揺れた気がした。
バランスがいいのか、悪いのか。よくわからない二人組。それでもこの二年、ずっと寄り添った二人。
……らしくもない感傷を抱きそうになって、サミュエルは目を細めることでそれをそっと潰す。
「……あなたの無事の帰還を、心から祈ってます」
もう一度、自身にも言い聞かせるようにしっかりと言った。
◇◆
満月が近かった。
空気は冷たい。
けれど夜空は驚くほど綺麗だった。
王都を見下ろす丘。
そこで二人は並んで座っていた。
メイとリヒト。
そして、その少し離れたところではカストルがただ真っ直ぐな目で天候を観測している。手伝えることはないからこそ、その様子をただぼんやりとメイは見つめていた。
カストルが動き、そして時折空に向かって閃光を試し撃ちする。
静かな花火みたいだな、と思いながらもやはり無言だった。
リヒトは煙草を咥え、ゆっくりと火をつける。
赤い火が小さく灯った。ちっとも美味しくもなさそうに、煙を吐き出す。
「帰りたかったんだよ、ずっとさぁ」
メイが、ぽつりと零すように言う。
それは本当だ。
嘘じゃない。
今でも。
だからこそ、メイはきっと帰れる。カストルの理論が正しければ、メイの帰りたいという気持ちこそが、全ての起点になるのだから。
今も尚、必死な顔をして空を読んでいるカストルの横顔を見て、メイは拳を軽く握る。
あの顔を見て、やっぱりここにいたいなどと、甘ったれたことは言いたくは無い。
それでも、帰れるという嬉しさ以外にも喉に競り上がるものがあるのだ。
「でも楽しかったんだよね」
異世界で過ごした日々は、決して特別なことばかりではなかった。
朝になれば店へ向かう。
サミュエルに売上の話をされて適当に相槌を打ち、厨房から流れてくる焼きたてのパンの匂いに腹を鳴らす。
昼になれば騎士団が押し寄せる。
注文を叫び、料理を運び、クレーマーを追い払い、気付けば一日が終わっている。
休みの日にはリヒトと街を歩いた。
市場で見慣れない果物を見つけては試食をねだり。
雑貨屋で変な置物を見つけて笑い。
煙草を買うリヒトを待ちながら、ショーウィンドウを眺める。
カストルの研究所へ行けば、毎度のように早口の理論を聞かされた。
理解できたことはほとんどない。
けれど、熱中して話す姿を見ているのは嫌いじゃなかった。
季節も巡った。
暑い日には噴水の縁に座って涼み。
寒い日には温かい飲み物を両手で包む。
王都の祭りで騒いだこともあった。
騎士団の連中と馬鹿みたいに笑ったこともあった。
サミュエルに呆れられたことも。
カストルに振り回されたことも。
リヒトに頭を叩かれたことも。
数えきれないほどあった。
どれも些細なことだった。
「……あーあ、好きなもの、作りすぎちゃったな……」
そうして、リヒトを見上げる。
リヒトも、目を逸らさずメイを見ていた。
メイは異世界に来て以来、ずっとしまい込んでいた学生服を着ている。
ブレザーの下に白いガーディガン。シャツに大振りなリボン。太腿の半ばしか丈がない、短いチェックのスカート。ニーハイに、ローファー。異世界では異質だと言われた、ありふれた格好。スカートの短さに、リヒトは少し眉を顰めた。今も、出会った当初も。
この格好で着たのは、身につけているものはそのまま転移後も引き継がれるだろうとカストルが推測したからだ。
行きと帰りは同じ格好。
そして、生きも帰りも同じ人が隣にいる。
ずっとずっと、隣で見守ってくれた人の、隣。
視界が、どんどん揺れていく。濡れていく。
「私鈍感なわけじゃないんですよ。……たださぁ生きるのに必死で……恋心、死んだふりしてたみたい」
恋をしていると自覚している余裕がなかった。
恋をしていると思って、この異世界にがんじがらめになりたくない本能もあった。
だから、最後のこの時まで、それが恋だと思わなかった。
普通の現実世界でもしもリヒトと出会っていたら、毎日毎日恋を楽しんで、会えることにどきどきして、些細な会話に嬉しくなって、距離を縮める嬉しさをきっと噛み締めた。
そんなこと、今まで知らないふりして歩いてきていた。
だって、どうせ置いていく恋だから。
独白に、リヒトは煙を吐いた。
夜空へ向かって。
「だろうな」
そう言って彼はもう一度煙草を咥えて、――メイの顔に煙を吹きかけた。
メイは涙目になって、咽せる。
湿っぽい空気が少し霧散して、怒った顔でメイが顔をあげ、それにリヒトがニヒルに笑う。
「何すんの!?」
「ざまぁみろ」
その時、周囲に風が吹く。今までの穏やかな夜から徐々に、嵐を感じさせるような強い風。
メイの体が期待と焦燥に震えると、リヒトが自嘲するように喉で笑う。
「……こんな気持ち抱かせて、お前は俺を置いてくんだな」
リヒトは何気なく、視線を月に向けた。
横顔が、淡い月光に縁取られて優しく揺れる。
胸が痛い。視線が潤む。立っていられないくらい、足が竦む。
こんなに悲しい両思いが、あっていいはずがないのに。
だってメイは、ドラマだって映画だって小説だって、何を見たってハッピーエンドしか受け付けない性質なのだから。
だから、こんな別れ、あっていいはず、ないのに。
「……ひっでーこと言うね」
少しだけ泣きそうになる。
「リヒトさんだって、責任なく好きにさせたくせに」
こんな、相手を責めるみたいな告白をしたくなんかなかった。
二人で沈黙をつくる。
風が吹く。
満月が近い。
「……引き止める?」
メイが最後の確認みたいに聞く。
どんな答えを求めてたかなんて、自分でもわからない。けれど、とにかく最後までリヒトと会話がしたかった。
本音を聞きたかった。
「この月夜に世渡りしなきゃ、私、この世界にいるんだよ」
長い沈黙。
リヒトは目を閉じた。
そして苦しそうに笑う。
「…………しねーよ」
声が掠れる。
「嫌われたくねえから」
その言葉で、全部終わった。
全部始まった。
耐えきれなくなって、二人は抱き締め合う。
互いを傷付けながら、互いを好きなまま。
そして、メイは泣き笑いの顔で、リヒトは穏やかな顔で、どちらともなく引き合うように――最後のキスをした。
ゆっくりと、お互いの形を確かめるみたいなキス。
永遠にも感じたけれど、体温が移るより先に重なり合った唇を、先に離したのはリヒトの方だった。
トン、と肩を押される。
「どこへでも行けばいい。お前は、それでも帰りたいって気持ちを折らない奴だ」
リヒトが腕を持ち上げる。
覚悟は、とっくに決めていた男の顔をして。
「俺の惚れた女は、そういう女だ」
そう言って、リヒトが杖を振るう。
自分は肉体派だからと、あまり魔法を使わない怠惰なライオン。そんな彼が、魔法でメイを持ち上げた。
浮遊する。それに、カストルが叫ぶ。
今の今まで、ただ一人魔力嵐を観測して、メイを帰すことだけに注力していた男が、憂なく笑う。
二人の会話を知らない空気の読めない男は、しかし魔法の奇跡は完璧に読めていた。
「さっすがリヒト隊長! ナイスタイミングです!」
浮遊する体は、そのまま宙に浮かび上がった魔法式に向かう。遅くもなく、速くもない速度で、光を纏うそこへ、一直線に。
リヒトは笑う。敗者の顔で。
メイはその顔に目を見開いて、手を伸ばしかける。
「――メイさん! ……行きますよ! 突風! 吹きます!」
しかし、伸ばしかけた手は、そんなカストルの晴々とした明るい声に阻まれる。
手が、止まる。
夜空から、オーロラのように光が差す。あまりに神々しい光景に息を呑んだ瞬間、自分の体が――透けた。
「……生きてくれりゃ、それでよかったんだ」
リヒトの甘くて、でも苦い、声が聞こえる。
そして魔法陣が脈打つように輝く。
風が強くなる。
髪が舞い上がる。
制服のスカートがばたばたと揺れた。
さらに体が浮遊する。
王都が見えた。
見慣れた石造りの街並み。
魔法灯。
市場。
何度も歩いた道。
アクアリウムレストラン。
サミュエル。
第三師団の隊員たち。
カストル。
雑然とした研究所。
豪奢な王宮。
そして――リヒト。
全部がそこにある。
だけど、全部、置いていく。
胸が潰れそうだった。
帰りたかった。
ずっと帰りたかった。
なのにどうしてこんなに苦しいんだろう。
どうしてこんなに泣きたいんだろう。
どうしてこんなにも、この世界を愛してしまったんだろう。
でも、帰らなきゃ。帰りたいと言う気持ちを、折る気は、ない。
「……っ」
喉が震える。
リヒトに言わなきゃいけない。
最後だから、本当の最後だから。
口を開く。
けれど、声にならない。
風が強すぎた。
涙で前も見えない。
それでも必死に唇を動かす。
ありがとう。
大好き。
元気でいて。
生きて。
たくさんの言葉が浮かぶ。
でも結局――。
「……リヒトさん!」
零れたのは名前だけだった。
月光の下。
リヒトが目を細める。
笑ったように見えた。
泣きそうにも見えた。
どちらだったのか、もう分からない。
その瞬間。
世界が白く染まった。
そして、――暗転。
「……我ながらあったまわるい夢、見ちゃったなぁ」
そう言いながら、目を覚ましたのは、慣れ親しんだ境内。砦の前だった。
ひやりとした石畳、鬱蒼と生える木々。そこに差す光は――太陽。
季節は、夏だった。
目を何度か瞬きして、メイはゆっくりと現実を馴染ませる。
白昼夢のような長い長い幻が終わった。
真冬の空はどこにもない。
けれど――ポケットには、スマホと、シャウム、両方が入っていた。
帰ってきたのが現実。
異世界に恋心を置いてきたのも、現実。
見開いた目から、ぽたぽたと涙が落ちる。スマホとシャウム、両方に雫が散った。足の力が抜け、もう立っていられなかった。
しばらくそうして屈み込んで、声もなく泣き続ける。
異世界転移したメイは、――日野原 芽依は、戻ってきたのだ。
それは確かに、最高で最低の、ハッピーエンドだった。
(一部完)




