八話
ランチ時間帯が終わり、ディナーへと移る前に、アクアリウムレストランは一度準備のため、閉店時間を設ける。
今日は常連客が話し込んだため、時間が押し、もうすっかり夕方の時間帯になってしまった。
一息ついて最後の客を見送り、扉の鍵を閉める。
からん、と小さくベルが鳴った。
円柱型の巨大水槽の中では、色鮮やかな魚たちがゆったりと泳いでいる。青い光が水面で揺れ、その反射が壁や床を淡く照らす。それをやっとゆっくり見つめる時間ができた。
そうして、厨房からは洗い物の水音が聞こえ始める。
続いて食器が重なる乾いた音。
棚へ戻されるグラスの小さな音。
昼間はあれほど賑やかだった店内も、今は別の場所のようだ。
「お疲れさまでしたー」
メイがエプロンの紐を緩めながら伸びをする。
「今日は平和だったっすね」
「どの口が言うんですか」
レジ締めをしていたサミュエルが即座に返した。
「昼にクレーマーを追い回していた人間が」
「追い回してないっす」
「店の外までモップ持って走ってましたよね?」
厨房の奥から笑い声が漏れた。
他の従業員たちも後片付けをしながら肩を揺らしている。
メイはけろりとした顔で水槽の前を通り過ぎた。
青い光が頬を撫でる。
昼間は客で埋まっていた席も、今は誰もいない。
綺麗に整えられたテーブル。
椅子。
磨かれたグラス。
その景色を見回して、メイは少しだけ目を細めた。
一日をやり切ったという実感がある。
「メイさん、帰る前に戸締まり確認してください」
「はーい」
軽く返事をしながら歩き出す。
その途中、水槽の中を泳ぐ小さな熱帯魚と目が合った気がした。
メイは何となく手を振る。魚は当然のように無視して通り過ぎた。
「今日も塩対応」
ぽつりと呟く。
アクアリウムレストランに勤め、二年も経てば、メイは店の名物店員になっていた。
仕事は早く、接客も上手い。
常連受けもいい。そして何より面倒事に強い。
レジの締め作業をしていたサミュエルに、メイが声を掛ける。
「今日の売上どうでしたー?」
「好調です。あなたの接客でデザート注文率が上がってますので」
「やっぱ私、歩く広告塔なんじゃない?」
「調子に乗らない」
言われながらも、サミュエルの口元は少し笑っていた。
最初は異世界人だからという理由で受け入れた。
今では、店にいて当然の人材だ。
「じゃ、帰りまーす」
「お気を付けて」
そう言って店を出る。
街はもう夕暮れ時、魔法灯がぽつぽつと灯り始めている。
空は茜色。
行き交う人々の喧騒。
もう見慣れた景色だ。
「……お」
そして、少し先の街灯の下に、馴染み深い影を見つけた。
ライオン耳に気だるげな立ち姿。
口から漏れる煙草の煙、少し焦げたような、どこか甘いような匂い。
「パイセーン」
大きく手を振る。
リヒトは煙を吐いてから、面倒そうに片手を上げた。
「迎えに来てくれた?」
「違う。巡回だ」
「へぇ〜」
「その顔やめろ」
メイはにやにや笑う。
そんなやりとりも、今ではすっかり日常だ。
二人は並んで歩き始める。王都の夜風が心地よい。
「そういやカストルさんから連絡きてたな〜」
「何か進展はあったか」
「また実験したいんだって」
「お前を実験動物扱いするなって誰か言わねえのか?」
「私が言ってる」
「効いてねえじゃねえか」
王都の街は、ゆっくりと夕暮れに沈み始めていた。
西の空は茜色から群青へと移り変わり、石造りの建物の壁を柔らかな光が撫でていく。
淡い橙色の光が石畳を照らし、王都を優しく包み込む。
昼と夜の狭間。
ほんの短いその時間だけ、街全体がどこか穏やかな色に染まっていた。
「今度は何するんだ?」
「魔力嵐の観測」
「嫌な予感しかしねえな」
「私も」
二人は顔を見合わせる。
そして同時に笑う。
その瞬間だった。
メイのシャウムが小さく震える。
通知音に、首を傾げながら画面を開く。
送り主はカストルだった。
『有力な仮説を、やっとお話しできるかと思います』
簡潔なメッセージに、それ以上続く文はない。
メイの足が止まる。
リヒトも止まった。
「……メイ?」
画面を見つめたまま、彼女は動かない。
胸の奥が大きく脈打つ。
二年。
ずっと、帰る方法をカストルと二人探してた。だから知ってる。カストルは、決して甘い希望を言わない。決定的なことをあえて避ける。
仮説と実験、トライアンドエラー。彼は誠実に、ずっと異世界研究を進めてくれていた。
そんな彼が、いま初めて――話ができると、そうメッセージを送ってきた。
「パイセン」
声が少し震えた。
「どうした」
メイはシャウムを握りしめる。
期待しすぎちゃ駄目だ。
何度もそう言い聞かせてきた。
それでも、どうしても――期待してしまう。
「……もしかしたら」
声が震える。心臓が、どくどくと大きく鳴っていた。
「帰れるかもしれない」
王都の夜風が吹く。
メイの期待に赤くなった頬を、リヒトは何も言わず見つめていた。
◆◇
リヒトに一言断って、走るように来た道を引き返し、研究所の扉を開けた瞬間だった。
「メイさん!!!!!」
爆発音みたいな声が響いた。
大量の紙束を抱えたカストルが研究室の奥から飛び出してきた。
髪は爆発している。
目は血走っている。
服は皺だらけ。
どう見ても徹夜明けだった。
「見つけました! 帰還理論です!」
カストルは机の上へ紙束を叩きつけた。
どさどさどさどさ。
雪崩のように資料が広がる。読み込まれ、くたびれた紙。何か書きつけたように真っ黒になっていて、カストルの苦悩と努力がそのまま表わしたような文献。
「以前から違和感はあったんです! 異世界人出現記録は二十三例! そのうち帰還記録は三例! 数が少なすぎる! ですが共通点が見つからないんです!」
「う、ん」
「だから順番を逆にしたんですよ!」
どこか呆然としたようなメイの様子も気にならないようで、興奮した勢いのままカストルは黒板へ走った。
勢いよくチョークを握る。真っ黒い板が、文字や図形を模る。
それこそ、元の世界でもありふれた板書きだったはずなのに、何故かそれがこの世界に来て一番――魔法のように映った。
「まず前提として世界と世界は独立して存在している!」
カッカッカッと、お世辞にも綺麗とはいえないような勢いで、文字が書き込まれる。
「ですが完全に隔絶しているわけではない!」
カストルは血走ったような目で、理論を叩きつけるようにチョークを突き動かす。
「稀に接触する、その際に発生するのが転移現象! ……っここまではいいですか!?」
言っていることはほとんどわからない。文字の羅列も、小難しい数式も、図形も、何一つ。
なのに、メイはそれらから目を離すことができなかった。とてつもない宝の在処が記された地図を手渡されたかのように。
心臓が、うるさい。
メイがかろうじて、頷くと大きくカストルは息を吸った。
「重要なのはここからです!」
ばんっと黒板を叩く。
「過去の帰還者三名! 全員、転移後に強い精神的変化を経験している!」
カストルの目が輝く。
それは、確かに研究者の目だった。
「家族との再会を強く望んだ者! この世界への執着を捨てた者! この世界での使命を果たしたと確信した者!」
「全部違うじゃん」
「そう! 共通点は行動じゃない!」
机を叩く。
「認識です!」
メイが瞬きをした。
カストルは続ける。
「彼らは全員、自分がどこに属する存在なのかを再定義している! 世界に対する認識が変化した瞬間に帰還現象が発生している可能性があります!」
研究室が静かになった。
カストルだけが興奮している。
「つまり!」
彼は息を吸った。
「帰還条件は場所じゃない! 魔法陣でもない! 儀式でもない! 君自身の認識変化なんです!」
「……え」
「気持ちを、強く持つことがまず帰ることの第一条件であるということです! そして貴方はここをクリアしている」
カストルが力強く頷いた。
帰れる。
その言葉が、今までと少し違う重さで胸へ落ちてくる。
夢物語じゃない。願望でもない。
可能性だ、目の前には寝不足で目を血走らせながら何百枚もの資料を漁って、本気で帰る方法を探している男がいる。
「そして!」
カストルは再び黒板へ飛びついた。
「ここからが本題です!」
「……今まで前置きだったの?」
「もちろんです!」
メイが呆然と呟く。
しかしカストルは止まらない。
黒板いっぱいに更に数式や魔法陣を書き殴っていく。
「君の転移地点と転移日時!」
ばん。
「当時の魔力濃度!」
ばん。
「天候記録!」
ばん。
「過去の異世界人出現事例!」
ばん。
ばん。
ばん。
次々と資料が広げられていく。
「最初は偶然だと思っていました。でも違ったんです。転移事例の多くが、異常な魔力濃度の発生時期と重なっている」
「魔力濃度?」
カストルは真剣な顔になった。
「自然界には稀に魔力が局所的に集中する場所が発生します」
「嵐みたいなもの?」
「その認識が近いです! 大気中の魔力が偏り、滞留し、飽和する現象です。そして一定値を超えると放出される」
研究者特有のテンションだった。
カストルは資料をめくる。
「数年に一度、大規模な魔力だまりが発生する予測が出ています」
「へぇ」
「それが今年なんです!」
メイが一度、瞬きをする。息を呑み損ねて、変なふうに喉が鳴った。
「……今年?」
「今年です!」
カストルの目が輝く。
寝不足の人間とは思えない勢いだった。
「さらに幸運なことに発生予測日は満月! 魔力潮汐が最大! 天体干渉も最大! 過去事例との一致率は七十三パーセント!」
「それは……高いの?」
「異世界研究では異常値です!」
カストルは深く息を吸った。
そして、興奮を抑えきれない声で言う。
「だから、その夜に君を転移地点へ連れていく。魔力だまりの中心へ配置し、満月による魔力増幅を利用するんです。そして瞬間的なエネルギー放出を誘発する」
言葉を切る。
研究室の空気が張り詰めた。
「もう一度、あの日と同じ突風を再現する」
メイは呆然としていた。
理論も、数式も、専門用語も、ほとんど理解できない。
けれど一つだけ分かった。
これは帰れるかもしれない話ではなく、帰すために本気で準備している人間の話だ。
「……カストルさん」
「はい!」
「成功率は?」
研究者は少しだけ黙った。
それから真面目な顔で答える。
「分かりません」
「うん」
「正直、一割あるかも分からない」
「うん」
「でも」
そこでカストルは笑った。
珍しく、研究者ではなく、一人の人間として。
「ゼロじゃない」
その言葉に、メイは何も言えなくなる。
胸の奥が熱かった。
怖い。
期待したくない。
失敗したら傷付く。
けれど、それでも。
「……そっか」
そう呟いた声は、少しだけ震えていた。
カストルはそこで初めて気付く、メイの目が潤んでいることに。
「ありがと」
本当に小さな声だったけれど、カストルは嬉しそうに笑った。
「まだ仮説です。……でも僕、諦める気ないので」
研究者らしくそう言って、少しだけ照れ臭そうに続ける。
その言葉に、メイはとうとう顔を覆った。
泣くつもりなんてなかったのに。
その日初めて、帰れるかもしれない、と思ったら抑えることができなかったのだ。




