六話
演習初日は順調だった。
野営地の設営。
簡単な応急処置講習。
食料管理。
火起こし。
想像していたよりずっと地味な内容に、メイは少し拍子抜けしていた。
「思ったより普通だなぁ」
「何を期待していた」
「魔物襲来とか」
「来たら演習どころじゃない」
「それもそうかぁ」
そんな会話をしながら森の中を歩く。
現在は地形把握を兼ねた巡回訓練中だ。
数人ずつの班に分かれて森を進み、指定された地点を目指す。
「ていうか、こういう時こそ魔法でバーン! て派手にやるんじゃないの?」
「魔力切れ起こしたり、魔道具が発動しねえっていう事態の演習も兼ねてるからな。筋肉使わねえと、いざって時に体が鈍る」
「フゥン。じゃ、この中だとみーんな私と同じ条件下ってわけかぁ」
言いながら、辺りを見渡す。
リヒトが自分をここに連れてくる理由は、魔法を使わない場所を見せたいというのもあるのか、なんて考えてしまうのは、深読みしすぎだろうか。
でも彼の優しさは遠回りで、さりげない。都合よく考えてもいいかな、とこっそりとメイは笑う。
水源を目指すと部隊がまた動き出す。
その途中、メイは少しだけ列から離れた。
木の枝に見慣れない花が咲いていたからだ。
「へぇ」
淡い青色の花だった。元の世界にはない形、白と青のグラデーションが可憐で可愛い。
シャウムで撮りたいな、なんて、そんなことを思いながら近づく。
ほんの数歩、それだけだった。
足元の土が崩れたのは。
「――え?」
世界が傾く。
地面が消える。
崖だった。
足が空を切って、身体が宙へ投げ出された。
反射的にペンダントへ手が伸びる。
防護魔法――何度も助けられた命綱だ。握り込んで、目を閉じて願うだけ。それだけで、何度も窮地を救ってくれた魔法のペンダント。
だが、その一瞬。
本当に一瞬だけ。
考えてしまった。
思い出してしまった。
『そして、帰った例も』
――この演習地に来る直前に会った、カストルの言葉を。
訳もわからずこの異世界にやって来た。全てを置いて、全てに別れなどできずに。
偶発的なのか、何かに選ばれた末なのかもわからない。なぜ自分だったのかもいまだに分からない。
帰れるなどと甘いことは考えないようにしていた。それでも、その道を研究している人間が確かに言ったのだ。
過去、帰った異世界人もいるのだと。
どう帰ったのかはまだ確証がないから言えないとあのあとに付け足した。確証がないことは言えないけれど、事実は伝えられるとも。
この世界に異世界人が落ちてくるのは稀で、でも事例はあった。もっと少ない可能性で帰った例もある。
なら、……もしも。
もしもこの世界で死にそうになったら、あるいは死んだら――私、帰れるんじゃないの?
日本へ。
家族の元へ。
その考えが頭を過った。
だって、弟から散々読ませられたラノベにもそんな展開いくつもあった。トラ転? とか、階段から落ちる直前に体が光って異世界転生とか、転移とか。そんなの、本当にたくさん書かれてた。
――読んでねーと異世界行った時困るだろうが!
そう言った、幼いバカな弟の顔が脳裏に過ぎる。バカで甘ったれで、夢見がちで中二病。反抗期でメイにはやけに突っかかって来て、その割に何度もそばに寄ってくる、たった一人の弟。
会ってない、会えていない。
あいつ、絶対私がいないと泣いてるんだ、だから、私……本当……帰らないと。
弟泣かしたってじいちゃんにドヤされちゃう。
そんなことを思っていたら、ペンダントを握る手から力がするりと抜け落ちた。
そして、……だから――防護魔法は発動しなかった。
「メイッ!?」
誰かの叫び声。
風が耳元を吹き抜けた。
崖下が迫る。
ようやく我に返った時には、もう遅かった。
まずい。
死ぬ。……死んじゃう?
今さらそう思った、けれど身体は止まらない。
真っ逆さまに落ちていく。さらに最悪なことに、その上からは崩れた岩が降ってくる。
――その時、さらに上から何かが飛び込んできた。
「は……?」
金色の髪。
獣耳。
見間違えるはずもない。
リヒトだった。
「え?」
なりふり構わず、躊躇もなく崖へ飛び込んできていた。
風を切り裂きながら距離が縮まる。
飛び込むリヒトの周囲に、眩い黄金色の光が走った。
空気が震える。
魔力だった。
それも、今まで見たことがない規模、夜空に巨大な魔法陣が幾重にも展開する。
円。文字。幾何学模様。
複雑な術式が一瞬で描かれ、それが崖全体を覆う。
「――は?」
思わず間抜けな声が漏れた。
次の瞬間。
轟音。
まるで雷が落ちたみたいな衝撃と共に、崩落した岩壁そのものが黄金色の光に包まれる。
落下していた岩が止まった。
正確には、落下速度が強引に削られている。
あり得ない。
何十トンあるかも分からない岩塊を、一人の魔法で無理やり制御している。
空中で風が逆巻く。
吹き荒れる魔力の奔流。
その中心で、リヒトの金色の瞳が鋭く細められる。
「捕まれ!」
伸ばされた腕。
次の瞬間、メイの体は乱暴なほど強い力で引き寄せられた。
抱き込まれる。
同時に巨大な魔法陣が砕け散る。
光の破片が夜空へ舞った。
そのまま二人は斜面へ叩きつけられるように転がった。
衝撃。
土埃。
痛み。
視界が、真っ白に弾けた。
◇◆
「っ、は……」
呼吸が荒い。
胸が苦しい。
身体中が痛い。
どうにか受け身は取れたらしい。
幸い崖の途中に張り出した岩棚があり、そこへ落ちていた。
だが、あと少し位置が違えば間違いなく、死んでいた。
心臓がうるさい。
鼓動が耳の奥で暴れている。
生きている。助かった。
その事実を理解した瞬間、はっとしてメイは隣を見た。
「リヒトさんっ!」
抱えるようにメイを抱き込んでいたリヒトを見上げる。
見る限りは無事だ。どこか大きな怪我をしていそうな気配もない。
安堵しかけた、その時。
「……っなんで助かりたいと思わなかった!?」
それは初めて聞く怒鳴り声だった。
いつもダウナー気味で、余裕がある男の、堪えきれない激情の声。
メイは目を見開く。
「え……?」
「その防護魔法はお前が助かりたいと思わなきゃ作動しないって言ったよな!?」
肩を掴まれる。
痛いと、そう思うより先に、彼の手が震えていることに気付いた。
怒っているのではなく、恐怖している。
顔色が真っ青だった。血の気が引いている。
今にも倒れそうなほど。
「リヒトさん……」
「なんでだ?」
リヒトの声は掠れていた。
強くメイを睨んでいた目が、伏せられる。力が抜けていく。
責めるよりも、呆然とした思いが強くなっていた。
「なんで……、助かろうとしなかった?」
その問いに、メイは唇を噛んだ。
ずっと、誰にも――言うつもりなんてなかった。
それでも今、この場では隠せない。だって、リヒトは自分の身を投げ出してでもメイを助けに来たのだ。そんな相手に、嘘をつけない。誤魔化しの言葉なんて言えない。
覚悟をすると、唇が震えた。
「この世界で死んだら」
ぐちゃぐちゃな感情を、なんとか形にしながら、小さく呟く。
「……あっちに帰れるかと思って」
――なんとか吐き出した本音。
そして、沈黙が落ちた。
リヒトが固まる。
メイはそんなリヒトを見ながら、力なく笑う。情けない顔だった。いつもの快活さはなく、ただ見る人間に痛々しさを覚えさせるものだ。
「口うるさいじいちゃんは、絶対怒ってるし。実家……神社なんだけど、境内を毎朝掃き掃除するの、私の仕事なの」
お前の家で、神様の家でもあるんだ。責任持ってやれ。
そう、小さい頃から何度も言われてた。
両親が事故で亡くなって、引き取られた当初から祖父は甘やかさず、いつも厳しかった。
……たまには、褒めてくれることもあったけど。
「いつもはお茶目なばあちゃんは、心配して夜眠れなくなってるかも」
対して祖母はいつも明るく、悪戯もよくする陽気な人だ。祖父の分も笑ってるような、おおらかさ。けど、本当はいろんなことを考えて、メイのことをいつも慈しんでくれていた。
「……友達もいるし。てか、借りっぱになってる漫画とかあるし、映画、いく約束してたりもしたしさぁ」
同じ騒がしいギャル仲間。ゲーセン行って騒ぐようなグループ。それと、図書室でひっそり勉強するような友達も密かにいる。どっちのグループの子も優劣なく好きで、心を開いていた。
「学校もあるし……。勉強、追いつけなくなっちゃうよ」
面倒な時だってあるけど、学校生活は好きだったって、こっちの世界に来て気づいた。
言葉が止まらない。
「みんな元気かなって」
視界が滲む。
「……弟が、きっと泣いてるんだって……あいつ、なんだかんだシスコンだから」
声が震える。
「会いたいなって」
視界が途端滲んで、呆気なく涙が落ちる。
この世界へ来てから、初めて泣いた。
リヒトは何も言わない。
ただ黙って聞いていた。
全部。
最後まで。
そして長い沈黙の後、深く息を吐く。
「……お前が帰りたいと思うのは当然だ」
静かな声だった。
責めるでもなく、怒るでもなく、ただ真っ直ぐ受け止める声だ。
メイが滲む視界のまま、ぼんやりとリヒトに目を合わせる。リヒトは一度、奥歯をぎりと噛み締めてから、目を固く瞑った。
「だが、……この世界だってお前にとっての現実だ」
メイの目から、また一つ涙がこぼれ落ちた。ぼろぼろと、堰を切ったようにそれは流れ続ける。
リヒトは目を開けて、その涙を焼き付けるようにまっすぐにメイを見る。
二人を見下ろす木々は高く、深く、空を覆い隠していた。
昼だというのに森の奥は薄暗い。
湿った土の匂い。
苔むした木々の匂い。
雨を含んだ葉の青い香り。
ひんやりとした空気が肺の奥へ流れ込み、肌を撫でていく。
二人がかがみ込んでいる足元には落ち葉が積もり、わずかに身じろぐ度に乾いた音を立てた。
どこまでも続く緑の壁。
ふと気を抜けば、簡単に方向感覚を失ってしまいそうだった。
「お前がこの世界で死ぬことで、あっちへ帰れるなんていうのは」
そこで言葉を切る。
苦しげに一度、彼は唇を噛んだ。それでも、誠実に彼は口を開く。
「おそらく道理が通らない」
そして、そっと――メイを抱き寄せた。
彼女の体は震えていた。細い体は、今までどうやって一人で立っていたのかも想像ができないほどぼろぼろだったのだ。
異世界に一人、放り出された幼き少女。一人で快活に笑っていた強い女。
リヒトはそんな彼女を気に入っていた。けれど、実際は彼女は年相応の弱さも不安定さも持っている。それを、見向きもしなかった自分に吐き気がした。
同時に、一層彼女に尊敬の念を抱く。強いから立てたのではない、弱い心を持っていたにも関わらず、懸命に一人の力で立っていた。
愚かにも、誰にも頼らず。
――ここまで、壊れかけなことを、自身も気づかず。
「お前は此処でも生きている、メイなんだから」
リヒトの抱き締める腕に力が入る。
優しい声だった。
それがじわりと、体に染み込むように届くと、もう駄目だった。
堰を切ったように嗚咽が漏れる。もう我慢できなかった。
子供のようにわあわあと声を上げて泣いた。
情けないほど泣きじゃくる。リヒトの胸に縋るように顔を押し付けた。
リヒトはしばらく何も言わず、ただ背中を撫で続ける。
やがて、メイの嗚咽が治ってきた後に、ぽつりと掠れた声を出す。
「今は」
その声は震えていた。
「今は……この世界で生きてくれ」
祈るように。
願うように。
縋るように。
その言葉に、メイは言葉もなく何度も頷いた。
◇◆
泣き疲れた頃には、すっかり日が傾いていた。
救助を待つ間。
メイはリヒトの腕の中で眠っていた。
小さな寝息。
泣き腫らした目元。
幼い寝顔。
それを見下ろしながらリヒトは何も言わない。
その代わりに、ぐしゃりと顔を歪める。
どうしようもない感情を押し殺すように。
唇を噛む。
そして誰にも聞こえない声で、ただ一言だけ呟いた。
「……くそ」
その顔が泣きそうにも見えるものだったことは、リヒト自身も自覚のないまま。




