十五話
――次の満月の夜に、異世界へ一緒にお前を連れて行く。
そう、リヒトは淡々と言った。
感情を悟らせない声。それでも、なんとなく未だに後悔しているのだろうかと思ってしまうようなものだ。決めたから返さない、けれどこの世界と引き離すのが忍びない。
そんな風な引け目を、彼はずっと持つのだろう。けれど、口に出しはしない。それを背負ってでも芽依を異世界に連れ帰る覚悟があるからだ。
……それでも。
彼に引け目を持って欲しいわけじゃない。芽依がそっぽを向くリヒトの目を覗き込むように見上げると、彼は鬱陶しそうにその大きな手で芽依の目を遮ったが。
乱暴だな〜とじゃれながら、それでも彼の手をそっと外して目を合わせる。言葉もなく、笑って見上げると、リヒトは少したじろいでから品悪く舌打ちした。
「……かわいくねえ」
「今のリヒトパイセンは、ちょっと可愛いっすよ」
そう言ったら、頰を引っ張られてしまったけれど。
そんなやりとりを思い出しながら――冬の放課後だった。
校舎の窓から差し込む夕日が廊下を赤く染めている。
芽依は教室の扉にもたれかかった。
佳奈は相変わらず参考書を開いている。
期末試験も終わったというのに、本当に勉強が好きなやつだと、芽依は少し笑う。
その横には、息抜きで読むだろう小説が積まれている。弟とは違って、読むのは純文学。いかにも彼女らしい。
「ねえ」
落ち着いたパステルカラーの背表紙をぼんやり眺めながら、芽依が声を掛ける。
「ん?」
佳奈は顔も上げない。
芽依は少し笑った。
「もうしばらく、会えないと思う」
その言葉にだけは、佳奈も顔を上げた。
少しだけ、沈黙が落ちる。
「引っ越し?」
「まあ、そんな感じ」
芽依が曖昧に笑う。
佳奈はしばらく芽依を見つめ、小さく息を吐く。
「寂しいとか言ってほしい?」
「言ってほしい!」
「言わない」
即答に、芽依は吹き出す。
佳奈はペンをくるりと回した。
窓の外を見る。
「……会える会えないが友達の基準だと思ってないし」
芽依が黙る。
「遠くにいてさ。ふとした時に『そういやあいつ元気かな』って思い出す関係、みたいのでいい」
その言葉に芽依は笑う。
泣きそうだったから、笑ったのだ。
教室の出口まで歩く。
そして振り返る。
「私さ」
夕日が背中を照らす。
「やっぱあんたが一番親友だと思ってるから」
佳奈は少しだけ目を丸くした。
それからそっぽを向く。
「……ふーん」
耳だけ少し赤かった。
「で? あんた結局どこ行くの?」
それは、彼女にしては珍しく会話を引き延ばすみたいな聞き方だった。いつも端的な会話ばかりで、雑談をするタイプじゃないのに。
そう思いながらも、それは指摘しないで、芽依はにやっと笑う。
「異世界!」
「はあ?」
芽依は肩を竦めて、苦笑する。
「あんたみたいな現実主義は信じないと思ってるからさ。信じなくてもいいけど、失踪期間中の異世界でもね。……結構あんたの言葉が糧になったんだよ」
親友は黙った。
少し考えて、参考書を閉じる。
「……仮に異世界に行くとして。なんで帰ってこれたのに、また行っちゃうのよ」
「イッケメンのカレピがね〜迎えに来たから」
「妄想おつ」
「ひっで〜!」
ゲラゲラと、芽依が笑う。笑いすぎて、涙が滲む。
笑いすぎて、だ。声は、少しだけ湿ってしまったけど、決めたのだから泣かない。
だってどうせ、この友人は芽依が別れに泣いても励ましてなんかくれないんだから。クールな奴なんだ、本当に。
だから、二人の間に涙は似合わない。
「……愛に生きるなんて直情的で馬鹿なあんたらしい」
「うん」
「……たまには私のこと思い出して」
佳奈は窓の外を見る。
芽依も、何気なく目を他所に向けた。
教室の窓から差し込む夕陽が、机や椅子を茜色に染めていた。
放課後の教室にはもうほとんど人影はない。黒板に残されたチョークの文字。窓際に並ぶ机。置き去りにされた教科書。その全てが柔らかな橙色の光に包まれている。
窓の外へ目を向ければ、見慣れた街並みが広がっていた。
住宅街の屋根は夕陽を受けて赤く輝き、遠くを走る電車が小さな音を残して過ぎていく。信号待ちをする車の列。帰宅を急ぐ人々。コンビニの看板。
どこにでもある、変わらない日常の景色だった。
けれど芽依は、それを少しだけ名残惜しく眺めていた。
「私も、たまには思い出してあげる」
その、優しい夕焼けの色に溶けるような声で、佳奈がゆっくり呟いた。
芽依の目頭が熱くなる。けれど、唇を噛むことで熱さを逃した。
「あんた向こうでもちゃんと勉強しなさいよ。……馬鹿に、しっかり言い返せるくらいには」
「当然!」
親友はそこで初めて笑った。
眼鏡の奥の瞳は、どこかうっすらと潤んでいたけれど、彼女もそれを零すことはない。
軽い笑いを二人で漏らす。
それに被せるように、窓の外から笑い声が聞こえた。
部活動帰りだろうか。
校門へ向かう生徒たちが、楽しそうに話しながら歩いている。誰かが何か面白いことを言ったのか、一人が大きく吹き出した。
それにつられるように周囲も笑う。
甲高くて、無邪気で、少し騒がしい。
学生特有の明るい笑い声だった。伝播していく笑い。
卒業。
進学。
就職。
冬の空の下、きっとみんなそれぞれの未来へ向かっている。
けれど今だけはまだ学生で、明日のことも、数年後のことも忘れたまま笑っていられる。
そんな眩しい時間だった。
芽依はその笑い声に耳を傾ける。
そして小さく笑った。
自分も確かに、この世界でそんな日々を生きていたのだ。
◇◆
響也は露骨に芽依を避けた。
朝に居間へ降りれば、さっきまでいたはずの響也の姿がない。
「おはよー」
いつもは眠気混じりでも返ってくるはずの返事はない。
台所から祖母が困ったように笑う。
「さっきまでいたんだけどねえ」
芽依はため息を吐いた。
「逃げたな」
学校、バイトと梯子をして、夜になってからは芽依はまっすぐに二階へ上がった。
芽依の隣の、響也の部屋の前で立ち止まる。すっと息を吸ってから、いつもより僅かに小さな音を立てて、こんこん、とノックした。
「響也」
返事はない。
けれどいるのは気配でわかる。響也の好きなゲームの音も漏れているのだから、絶対いる。
「響也〜」
返事はない。
「聞こえてるよね?」
返事はない。
「ねー」
それでもずっと、頑なに無言だ。
芽依は額を扉に押し付けて、ぼそっと呟く。
「反抗期かよ」
「うるさい」
声だけ聞こえた。
それで少し安心する。
完全に拒絶されたわけじゃなく、ただ会いたくないだけだ。
拗ねたら結構、しつこいのだ。いつもはそれにうんざりもするし、あまりこちらから折れてやることもないのだが――今ばかりは、そうも言ってられない。芽依はほとんど返事がない扉に、ずっと話し続けていた。足の先が冷えてきた頃に、リヒトが芽依を回収しにきたが。
――芽依がいなくなった後の廊下を、そっと響也は扉から顔を出して伺っていた。
胸の奥が苦しくなる。
会いたい。
会って話したい。
行くなと言いたい。嫌だって言いたい。
泣きたい。
でも、その全てが姉を困らせるだけだと分かっていた。
わかっている。
姉は自分を捨てるわけじゃない。嫌いになったわけでもない。それどころか今でも自分を大事に思ってくれている。
そんなことはわかっている。
わかっているのに、感情は全然納得してくれないのだ。
響也と呼ぶ、いつもの声。
明るくて、少し間延びしていて、聞き慣れた声。
その声は自分のためだけの声だった。
なのにそれが失われようとしている、そのことに奥歯を噛み締めた。
行ってほしくなんかない。
けれど、異世界に行くと言う姉の決心は、実に姉らしいとも思う。明るく強く、家族思いの姉。その姉が決めた道を送り出し、本当は幸せになってほしいとも思っていた。
ぐちゃぐちゃだった。
何が正しいのかわからない。
ただ胸だけが痛い。
指先が震えたけれど、無理やり握り締めた。
駄目だ。
今会ったらきっと泣く。
男なのに、子供みたいに情けなく泣いてしまう。
だから響也は息を殺した。
嗚咽ごと飲み込むように。
◆◇
別の日の学校帰りには、駅前で偶然響也の姿を見つけた。
友達と歩いている響也に、芽依が手を振る。
「響也ー!」
響也が固まる。
友達が首を傾げる。
「あれ、お姉さん?」
「……帰る」
「え?」
「帰る!」
そう言って、聞き分けのない子供のように叫んで、逃げた。
走って、こちらを振り返りもせず。
芽依はその背を呆然と見送る。
友達だけが気まずそうに頭を下げた。
「なんか、すみません……」
「いや〜……君が謝ることじゃないっしょ!」
そう言って、大きく笑って見せたが、それがなんだか妙に空々しいものだったことは、芽依が一番自覚していた。
会いたいのに、話したいのに。
謝りたいわけじゃない、説得したいわけでもない。
ただ、残り少ない時間を、一緒に過ごしたかっただけなのだ。
それすら叶わないことが、どうしようもなく寂しかった。
そして結局――話せないまま、その日が来た。
神社の境内。
冬の空。
芽依は祖父母の前に立つ。
リヒトも隣にいる。
「行き来できる方法は諦めないから」
芽依は力強く言った。笑っている。
「カストルさん巻き込んででも探す」
祖母が思わず笑う。
「カストルさんが誰かは知らないけど、本当にあんたは人を巻き込む子ねえ。迷惑かけてない?」
「多分喜ぶ」
リヒトが真顔で返した。
祖父も小さく笑う。
「気を付けて行け」
その言葉に芽依は頷く。
何度も。
何度も。
響也は来なかった。
最後まで部屋から出てこなかった。
芽依は苦笑する。
「あいつらしいなあ」
本当は寂しい。
でも責められない。
風が吹いた。
冬の空気が大きく揺れる。
転移の兆候だった。
リヒトが手を差し出し、芽依はその手を取る。
指を絡めると、温かかった。
振り返る。
祖父。
祖母。
生まれ育った神社。
全部見える。
全部愛しい。
突風が吹いた。
景色が揺らぐ。
その瞬間だった。
「姉ちゃん!!!」
声が響く。
振り返る。
境内を全力で走ってくる影。
響也だった。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら。
転びそうになりながら。
必死に――必死に、走ってくる。
「姉ちゃん!!」
芽依が目を見開く。
「響也!」
「姉ちゃん!!」
声が震える。
泣いている。
けれど今度は引き留める声じゃない。
響也は叫んだ。
腹の底から、全部込めて。
だって、強い姉は決めたのだから。姉がそうと決めたなら、もう立ち止まりはしない。なら、拗ねても止めてもしょうがない。
そんなこと、よく分かってる。伊達に弟をやってないのだ。
だから。
……だから、本当にもう、別れなら伝えなきゃいけない。
ずっとずっと、悪態をつきながら、時に冷たく突き放しながら、それでも最後には絶対に手を差し伸べてくれ続けた姉に。
「絶対!!!」
涙を撒き散らしながら。
「絶対幸せになれよ!!!」
芽依の視界が滲む。
泣きそうになる。
今すぐ抱き締めたくなる。
でももう時間がない。
だから、芽依は笑った。
泣きながら、精一杯、いつもの顔に見えるように。
指を二本立てる。
「もち!」
それが最後だった。
光が弾ける。
風が吹き抜ける。
そして、二人の姿は消えた。
静寂が戻る。
響也はその場に立ち尽くした。
数秒。
いや、もっと長かったかもしれない。
やがて力が抜けて、膝をつく。
そして、顔を覆った。
「うぅ……」
嗚咽が漏れる。
「ううぅぅぅ……」
冬の境内で。
響也は子供みたいに泣いた。
けれどその泣き声は、もう引き止めるためのものではなかった。
大好きな姉の幸せを願う、最後の見送りだった。
祖父が背を優しく撫でる。祖母の涙が重なる。
冬の風が、そっと境内を吹き抜けた。
冷たいはずなのに不思議と優しくて、木々の枝を揺らし、石畳の上を転がる枯れ葉をさらっていく。
まるで誰かが背中を押してくれているようだった。
あるいは、別れを惜しむ人たちの涙も、願いも、寂しさも――全部まとめて抱きしめるような、魔法みたいな風だった。




