十四話
その朝の空気は、まだひんやりとしていた。
吐く息が白く滲み、境内の石畳には夜の冷気が薄く残っている。東の空は淡く明るみ始めていたが、太陽はまだ鳥居の向こうから顔を出していない。
芽依は竹箒を肩に担ぎながら欠伸を噛み殺した。
「さむ……」
冬の朝は苦手だ。
肩を竦める芽依の隣で、リヒトは特に寒そうな様子もなく箒を持ち上げる。
「お前、朝弱いよな」
「うるさいなー」
ぶつぶつ言いながら石畳へ降りる。
境内には昨夜落ちた枯れ葉が散っていた。
風が吹くたびに、かさり、と乾いた音を立てる。
芽依は箒を動かした。
しゃっ、しゃっ、と規則的な音が静かな朝に響く。
隣ではリヒトも同じように掃いていた。
大柄な男が竹箒を持って落ち葉を集めている光景は少し不思議で、けれど妙に様になっている。
「パイセン、馴染みすぎじゃない?」
芽依が笑えば、リヒトは落ち葉を寄せながら肩を竦めた。
「掃除なんてどこでも同じだろ」
確かにそうかもしれない。
異世界でも、この世界でも、落ち葉は落ちるし、人はそれを掃く。
そんな当たり前のことに、芽依は少しだけ可笑しくなった。
冬の風が境内を吹き抜ける。
鳥居の向こうの空はゆっくりと朝の色へ変わっていく。
その中で二人並んで箒を動かす。葉を掃く音だけが静かに響いていた。
「私」
芽依はそして、顔を上げた。
声は震えない。
「リヒトさんと、あっちの世界に行きます」
リヒトの金色の瞳が見開かれる。
芽依は笑った。少しだけ歪な、前を向いているだけじゃない憂いも含まれた顔。だけど、目は逸らさない。――芽依は、確かに笑っていた。
「……リヒトさんと同じ時を、歩みたい」
その答えを聞いて、リヒトは何も言わなかった。
ただゆっくりと目を閉じて、心の底から安堵したように息を吐く。
長い長い時間をかけて張り詰めていたものが、ようやくほどけたような顔だった。
けれど次の瞬間には、少しだけ自嘲するように目を伏せる。
「せっかく帰ってこれたのに……、結局悪い魔法使いにまた連れ去られるのか」
芽依は一瞬きょとんとした顔をして、それから困ったように笑う。
少しだけ考えてから、竹箒を放り投げる。からん、と小気味のいい音を立てると共に伸ばした腕で、自分からリヒトを抱き締めた。
リヒトは一瞬、体を揺らしたけれどその背に手を回すことはない。それでも、構わず芽依はリヒトの硬い胸板に頬を寄せた。冬の寒さから、身を隠すように。
「前に異世界に行った時はさ。本当に唐突で……強制イベントだったから」
少しだけ、戯けた声で言った、つもりだった。
けれど、言葉の端が情けなく揺れてしまう。芽依が更に強く、リヒトの背に回した手に力を入れると、今度こそ――リヒトも抱きしめ返してくれた。
それに勇気付けられて、小さく笑う。息を一回呑んだ。
「別れの言葉も言えなかったし、帰るかどうかも選べなかった」
リヒトは何も言わない。
芽依は続ける。
「でも今度は違うよ」
朝の冷気を吸って冷たくなったリヒトの服を掴む。見上げるように目をあげた。
「私が選ぶの。私の意思で行く。異世界転移に巻き込まれた、可哀想な被害者じゃない。私は、私の足で、異世界に行くことを選ぶ」
「……ああ」
「だからさ、リヒトさん。……そんなに、自分を責めないでよ」
リヒトが息を止める。
芽依は背伸びをして、その唇に軽く触れた。
一瞬だけの優しい、掠めるだけのキスだ。
押し黙るリヒトを見て、少しだけ照れながら笑う。
「……それに!」
芽依は空気を変えるように声を張る。
「異世界行き来できるように今度は頑張るし!」
「……カストルと?」
「そう!」
即答だった。
リヒトは、たまらず吹き出した。
「カストルも巻き込まれまくって大変だな」
「怒るかな?」
「いや」
少し考えてから首を振る。
「……あいつは喜ぶだろうよ」
リヒトの脳裏に浮かぶ。
『オタクに優しいギャル!!』そう、はしゃいでいた研究バカの顔。
思い出しただけで少し笑えてしまう。
芽依の頭を優しく撫でる。
冬の風が吹いた。
けれど不思議と寒くはなかった。
「……ほんと、お前は図太いな」
リヒトが、あえて呆れたような声でわざとらしく言う。芽依はそれに一度、きょとんとしてから思いっきり――笑った。
「そーんな女だから、パイセンは追うくらい好きになったんでしょ!」
――朝日を目一杯受けて、反射する。その輪郭が優しく縁取られて、リヒトは眩しさに目を細めた。
四年間の研究の日々、実験を重ねた苦労、うまくいかない絶望。そんなものが走馬灯のように頭に一瞬流れ、そして、芽依の笑顔に全て塗りつぶされて、消えた。
ずっと、この顔が見たくて、だから異世界にまでやってきたのだ。
◇◆
その日の夜。
居間へ向かう廊下は妙に静かだった。
障子越しに差し込む月光は柔らかいのに、胸の奥だけが落ち着かない。廊下の板を踏むたびに、ぎしり、と小さな音が鳴る。
芽依は一度だけ深呼吸をし、ぱちんと両手を叩いた。
隣を歩いていたリヒトがちらりと視線を向ける。
なんでもないふりをして、ぐっと両腕を上に伸ばす。
冷えた体が少しだけほぐれる。
冬の風が窓から差し込み、その髪を少し揺らした。
「しんみりした空気苦手なんだよね〜」
本当は違う。
苦手なのではなく、怖いのだ。
誰かが泣いたら、祖母が泣いたら、響也が泣いたら……きっと、自分も泣いてしまう。
でも、それでももう決めたのだ。
リヒトの僅かに心配そうな気配を振り切るように拳を握る。
「まあでも、帰ってくるつもりはあるし、ほぼ異世界留学みたいなもんでしょ!」
「異世界だぞ」
「異世界留学!」
リヒトが堪えきれず吹き出した。
その笑い声を聞いて、芽依も少しだけ肩の力が抜ける。
よかった。
少なくとも一人は笑った。
居間の襖が見えてくる。
向こうには家族がいる。
怯みそうになったが、もう戻る気はなかった。
にかっと笑う顔は、いつも通りのはずだ。
「たのもー!」
隣にはリヒトがいる。
芽依は深呼吸をひとつして、襖を開けた。
すると、一番初めに覚悟を決めた、祖父の目と視線が交わる。それに、芽依は目を逸さなかった。一つ息を呑んで、言葉を口に出す。
「私ね! ……やっぱ、異世界に行こうと思う!」
沈黙が落ちた。
祖母が小さく目を伏せる。
祖父は黙って聞いている。
二人は予想をしていた顔をして、その間に挟まる響也だけが固まっていた。
芽依は続ける。
「でもね、今度は別れじゃないよ! また絶対帰ってくるし。だって、実家ここだもん」
そう言って、芽依は笑った。
響也は俯いたまま動かない。
やがて絞り出すように呟く。
「……なんでそんな笑ってんだよ。何の根拠があって、帰れるって言ってんだよ」
「はぁ〜? 現に帰ってこれたじゃん! 私ってチートってやつ?」
「ふざけんなよ!」
響也が勢いよく顔を上げ、芽依に掴みかからんばかりの勢いで目を向けた。噛み締めた唇は白くなっている。
そんな響也の様子に、芽依が一つ呼吸を飲み損ねて、笑顔が引きつる。
響也が、破裂するみたいに叫んだ。
「……俺を捨てるのかよ!」
芽依が固まる。
そして次の瞬間、なんとか笑顔を作った。少しだけ、手が震えたけれど、まだ作れていた、はずだ。
「それ、前に異世界から帰る時にパイセンにも言われたんだけど〜。似た者同士じゃん!」
「笑い事じゃねえよ!!」
響也が立ち上がる。
目が真っ赤だった。
「俺は本気なんだよ! やっぱこいつが、姉ちゃんのこと連れ去るんじゃねえか!」
そのままリヒトに近寄る。
拳を振り上げると、鈍い音が響いた。
リヒトは避けず、それを黙って受けた。
響也は震えている。人なんか殴ったこともなかった幼い弟の方が、よほどショックを受けた顔をしていて、今度こそ芽依は固まった。
リヒトは腫れ始めた頬を押さえながら、小さく言う。
「……悪い」
リヒトのその一言が、響也にとっては余計に腹立たしかった。
響也は歯を食いしばる。
そして逃げるように居間を飛び出した。
「響也!」
芽依も慌てて追いかける。
居間に静寂が残った。
祖父が立ち上がり、ゆっくりリヒトの前に立った。
「すまんな」
祖父はしっかりと頭を下げる。
「響也が取り乱した。……あの子は、姉思いだからな」
祖父のしみじみとした声で呟く。
知っていた、感じていた。
こんな出会いじゃなければ、きっとリヒトはあの弟と仲良くなれたのだろう。獣人にはしゃぎ、魔法に感嘆し、異世界の話を聞きたがって、きっと懐かれた。
けれど、今の彼にとってリヒトはただ「姉を連れ出してしまう異世界人」でしかない。
姉思い、という言葉を噛み締めるように頬の内側を噛んでから、そっと頭を下げた。
「娘さんを取り上げるような真似をして……申し訳ありません」
祖父はしばらく黙った。
それから小さく笑う。
「嫁に出すんだ」
静かな声だった。
「慶事だよ」
言い切る祖父の横では、祖母が横で目元を押さえる。
笑っているけれど、涙も零れていた。
祖父はもう一度頭を下げた。
「跳ねっ返りの強い娘だが、よろしく頼む」
その優しいが、じっと見定めるような目を、リヒトはしっかり受け取りながら、もう一度深く頭を下げる。
「必ず」
短い返事だった。
けれどその声には覚悟がある。
それでもこの場において、芽依をもう諦める気がないのだから、当然だった。
夜は静かだった。
神社の境内には人の気配もなく、木々の間を抜ける風だけがかすかに葉を揺らしている。
遠くの住宅街から聞こえる生活音も、この時間になればほとんど届かない。
窓からそっと空を見上げれば、冬の星々が冴え冴えと瞬いていた。
澄んだ空だ。
祖父がそっと、リヒトに握手を求める。それにリヒトが応えると、今の空気は柔らかく溶ける。穏やかな時間だった。
何かを決めた人も。
何かを失う人も。
何かを受け入れようとしている人も。
今だけは等しく優しい夜に包まれていた。
まるで冬の夜空そのものが、誰一人取りこぼさないように、静かに肩を抱いてくれているかのようだった。
◇◆
境内の裏。
冬の夜に紛れるように、響也はしゃがみ込んでいた。
芽依が追いつく。
けれど何も言えず、ただ隣に座った。
――不意に、その姿に昔、響也が迷子になったことを思い出す。
夏祭りの人混みの中で手を離してしまい、芽依は半泣きになりながら神社中を走り回った。
やっと見つけた時、泣いていたのは響也よりも芽依の方だった気がする。
あの時は見つけた瞬間、芽依はしゃがみ込んで思い切り抱き締めたのだ。
それを、ありありと思い出していた。
「姉ちゃん」
響也の声が震える。小さい頃のように。
「やだ」
響也の言葉に、芽依は返事をしない。
できない。
「いやだ、行かないでよ」
芽依は黙っていた。
「行かないで」
声が崩れる。
「行かないでよ……!」
小さい頃みたいだった。
転んで泣いていた頃。
欲しいおもちゃをねだった頃。
喧嘩をして、ごめんが言えずうーうー唸っていた頃。
あの頃と同じ声だった。何も変わらない、芽依のたった一人の弟。
両親が死んでから、ずっと支え合って生きてきた、弟。
「わがまま言わねえから!」
響也が叫ぶ。
「もう姉ちゃんの部屋勝手に入らねえし! ゲームだってやっていい! テレビだって姉ちゃんの好きなの見ていい! 勉強もちゃんとやる!」
なりふり構わず、悲鳴のような声で響也が言葉を重ねていく。
胸が、痛い。
「だから!」
響也の声が掠れる。息が荒くなる。
「だから!」
芽依からの返事はない。
芽依は何も言わない。
ただ隣にいる。
ただ同じ目線で、肩を抱く。
両親が事故に巻き込まれて死んだ時、まだ弟は赤ちゃんだった。その時、響也はまだ寝ていたから、起こすのは可哀想だと祖父母が預かって、そっと両親と芽依はスーパーに出かけたのだ。
いつもの日常のはずだった。けれど、その瞬くような時間で、全部壊れてしまった。
芽依だって両親の死がしんどくて、辛くて、心が折れそうになったけれど、それでも強がれたのは弟がいたからだ。涙をこぼしながら、わぁわぁ力強く泣く弟がいたから、芽依は強がれた。しっかり者の長女になれた。
いつまでも甘ったれの弟。でも、そんな弟が誰よりも必要だったのは、きっと芽衣だった。
「頼むよ……」
響也の声が途切れる。
「姉ちゃん……行かないで……」
響也はぐずぐずと鼻を鳴らしながら、ふと――肩が濡れていることに気付いた。
温かい、涙だった。
響也はゆっくり顔を上げる。
芽依が泣いていた。
声も出さず、ただ泣いていた。
それを見た瞬間、理解してしまう。して、しまった。
ああ。
姉ちゃんはもう決めたんだ。
本当に、本当に行くのだ。異世界へ。
自分がいない、世界に。
響也の胸の奥がぐしゃぐしゃになる。
堪えきれなくなる。でもきっと、それは姉も同じなことをきちんとわかってしまう。
姉は、自分に何だかんだ甘くて、いつだって優しかった。好きでいてくれた。
でも、もう駄目なんだ。
姉は、決めたのだ。それでも。
響也は顔を覆った。
そして、まるで傷ついた獣のように。
夜空へ向かって声を上げた。
「あああああああああああっ……!!」
冬の境内に、悲鳴のような泣き声だけが、いつまでも響いていた。




