十二話
◇◆
光が消えた。
暴風も止む。
魔法陣も消える。
夜空には満月だけが残っていた。
静寂。
しばらく風さえも動かなかったよう感じる。時が、本当に止まってしまったかのような――なんて、ただの感傷だ。
リヒトは月を見上げる。
そこにはもう誰もいない。
帰った。
メイは帰った。
ずっと彼女が望んでいたことだ。ぶれなかった、帰る気持ちを折らなかった。そして、帰れた。
だから、それでいい。
そう自分に言い聞かせながら煙草を探す。
手が震えて上手く取り出せなかった。
その時だった。
「ははははははははは!!!」
異様な高笑いが響いた。
リヒトが振り返る。
――カストルだった。
「やった!! やりましたよ!! 帰還成功です!!」
研究資料を抱き締めながら飛び跳ねている。
「理論は正しかった!! 仮説も正しかった!! 観測値も計算式も全部一致した!!」
ばんばんと足で地面を叩く。とにかく彼はハイテンションで頬を紅潮させ、嬉しそうだった。
眼鏡の奥の瞳が、世闇の中だというのに爛々と光ってる。
静かな静寂は、紙を破くみたいに引き裂かれた。
リヒトの肩の力が、抜ける。
「見ました!? 見ました!? 転移波形!! あの魔力収束!!」
「……見てねえよ」
「歴史的大発見ですよ!!!」
興奮したまま研究ノートへ何かを書き殴る。踊るようにペンが動く。
それを、どこか呆然としたままリヒトはただ眺めることしかできなかった。
変人カストル、ただし稀代の天才と謳われる研究者。その評価は確かに正しかったのだろう。理論的に異世界人を元の世界に帰したなどという話は、文字通り前代未聞なのだから。
情緒も別れの余韻も、何もかもぶち壊すような男だが、だからこそ常識を打ち破れたのだろう。
煙草を持つ手の震えが、いつのまにか止まってた。
だから、いつも通りを装って、火をつける。そっと煙を吐く。
夜空には満月だけが残っていた。
しん、と静まり返った丘に、冬の風だけが吹く。けれど、煙草の火が消えるほどではない、緩やかな風。
穏やかな空気の中、けれど先ほどまでそこにいたはずの少女は、もうどこにもいない。
舞い上がっていた雪混じりの土埃がゆっくりと地面へ落ちていく。
草が揺れる。
木々が鳴る。
それだけだった。
王都の灯りは相変わらず遠くで瞬いている。
夜空も変わらない。
月も変わらない。
なのに、世界から一色だけ抜け落ちたみたいだった。
リヒトは黙ったまま立ち尽くす。
足元には、メイが座っていた場所。
そこにはもう体温も残っていない。
風がもう一度吹く。
どこかで誰かが笑っているような気がした。
『パイセーン』
声が、聞こえた気がして振り返る。
当然、誰もいない、当たり前だ。
リヒトは目を閉じた。
そして小さく息を吐く。
冬の空気は冷たかった。痛いくらいに、冷たかった。
まるで、この丘だけ季節に置いていかれたみたいに。
体の熱を冷やすように、そこにいた。自分のための時間で、そこにカストルがいるいないは当然関係ないことだ。
ただ、――不意に、変質的なまでに何かを書き殴り興奮していたカストルの動きが、ぴたりと止まった。
先ほどからの興奮した独り言も、荒い息も、唐突に止み、沈黙が流れ、夜風だけが吹く。
それから、カストルがゆっくり顔を上げた。
「……でも」
ぽつりと呟く。
声は、震えていた。
「メイさん帰っちゃったよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」
絶叫だった。
辺り一帯に響き渡るような雄叫び。思わずびくりと体を揺らしてしまったリヒトなど目にも入っていない、心からの言葉と態度だった。
外聞も恥も、何も考えていない剥き出しの姿だ。
「オタクに優しいギャルだったのにぃぃぃ!!!!!」
地面へ突っ伏す。
「研究所来てくれたのにぃぃぃ!!!!!」
ばしばし地面を叩く。
「僕の長話ちゃんと聞いてくれたのにぃぃぃ!!!!!」
「聞いてねえだろ」
「聞いてくれてたんですよぉぉぉ!!!!!」
号泣するカストルだが、絶対にメイは話半分にしかカストルの話を聞いてないだろうと、頭のどこか冷静なところで突っ込む。
しかし完全に号泣している男に、そんな正論を言ったところでどうしようもない。
鼻水まで出ているその本気さに、リヒトは呆れた顔をした。
「……お前が泣くのかよ」
「泣きますよぉぉぉぉ!!!!!」
研究者のプライドも何もない。
ただの失恋したオタクだった。
リヒトは思わず、その無様さに小さく笑ってしまう。
ここまで自分の本能に忠実でいられたら、楽だったかもしれない。
研究者として帰す。
それとは全く別の、友人としてのメイの別れが悲しくて泣く。
子供みたいな矛盾と、素直さ。
羨ましい、と思いかけて、それを口に出さないように煙草を挟んだ手で口を覆う。自然に見えるように、いつもの自分を装うように。
……ああしかし、そんなふうに取り繕うのも馬鹿らしい。えぐえぐと喘ぐように泣く男に、自分一人だけ格好をつけるのも滑稽だ。
だから、油断した。
「……なあ」
ぽつりと零れる。
涙で濡れそぼっているカストルが、情けなく顔を上げた。
「……なんです?」
「俺が……」
ゆっくりと二人の視線が絡む。
今までだったらお互い興味もない、交わるはずもなかった人種。
メイという、たった一つの共通点が今二人を引き合わせている。
リヒトは、一つ息を呑む。
煙草を魔法で手から消し、誤魔化さない顔でカストルと向き合った。
「お前がいれば――俺が、あっちに行ける可能性もあるのか」
一瞬の沈黙。
その後に、カストルの泣き顔が止まった。
かちり、とスイッチが切り替わるように研究者の目になる。
「……ありますね」
即答だった。
「――異世界から人が飛んでくる、それ自体は一方通行じゃない。もちろん特殊条件は必要ですが、逆にいえば条件さえ揃えば、理論上可能です」
「そうか」
「ただし、当たり前ですが危険です。魔法使いが魔力を行使して無理やり異世界に行く、それはメイさんのように魔力を持たない人間が風に乗ってふんわりと押し出しを待つという理論とはまるで異なる。むしろ、魔力という重量があるからこそ、きちんとエンジンを積まなくちゃいけない」
「なるほどなぁ」
「理論上可能であろう、というだけです。成功率なんてないに等しい」
短い返事。
けれど、リヒトは笑った。
今までだったら諦めた。
故郷も、立場も、環境も評判も。
ある種、どうでもよかったのだ。怠惰なライオンと謗られ、評価づけられるのは楽だった。
手に持てる分だけの責任を、そこそこの幸福を享受できればそれでよかった。
けれど、――メイは。メイ、だけは。
拳を握る。また、震え出した。
最後に触れた唇の感触を思い出す。
温度なんて分け合えることもできないほどの短い接触に、満足なんかできるはずもなかった。むしろあれは、着火剤となったのだ。
諦めなくていいのなら、会いたい。
奪うつもりはない。
けれど、最後に泣いた女の顔を、せめてもう一度笑顔にしたいのだ。
会いたい。
とにかく、会いたい。
そこにはもう、理屈はなかった。
吹っ切れたのだ。
「なら調べるか」
その笑顔を見て、カストルは理解した。
ああこの男、諦めてない。
その顔に、不意にメイのからりとした笑みが重なって、研究者の顔をしながらも――初めて、プライベートを混合して、カストルは涙を流した。
――そして、彼らの長い四年間の旅路が始まる。




