十一話
帰ってきてからの日々は、驚くほど普通だった。
朝になれば起きる。
制服に着替える。
響也と一緒に学校へ向かう。
教室へ入れば友人たちが待っていた。
「芽依ー! 今日こそちゃんとノート写して!」
「えー」
「えーじゃない!」
「失踪少女に厳しくない?」
「失踪したからだよ!」
ぎゃあぎゃあと騒ぎながら笑う。
昼休みには購買へ走り、放課後には友人たちと寄り道をした。
新しくできたアイス屋。
ゲームセンター。
カラオケ。
雑貨屋。
見慣れた街の、見慣れた景色。
「はい、写真撮るよー!」
スマホを掲げる。
友人たちが顔を寄せ、芽依も笑う。
カシャリと軽い音と共に画面に映るのは、間違いなく自分の日常だった。
なんで撮るんだ、なんてこの場じゃ誰も言わない。写真を撮るのなんて条件反射みたいなものだから。同じ軽さ、同じ思いで、ただ思い出を気軽に残したいから写真を撮る。それだけ。
ある放課後。
図書室の窓際で、芽依は参考書を広げながら、ちらりと顔を上げる。
向かいに座る同級生が、難しい顔で問題集を睨んでいた。
教室では、騒がしくなるから話しかけてくるなと邪険にして、一対一じゃないと目も合わせてくれない友人。
黒縁眼鏡。
真面目な表情。
綺麗に揃えられたノート。
一見すると芽依とは正反対の位置にいそうな、ガリ勉メガネちゃん。でも、芽依の友人関係の中で、一番本音を語ってくれる、もしくは語れる人間。杉山佳奈。
「ねえ」
「なに」
「なんで勉強できる人って眼鏡率高いの?」
親友が無言でシャーペンを置いた。
「喧嘩売ってる?」
「売ってない売ってない」
両手を振る。久々の再会だというのに、相変わらず口調は冷たい。それに、妙に安心感があった。
また静かな図書室に戻る。
ページを捲る音。
時折聞こえる咳払い。
窓の外では運動部の掛け声が響いている。
平和だ。
本当に平和だった。
そして、古い紙のこもった匂いは、どの世界も共通だ。だから、ふと、思い出してしまう。
この図書室同様、紙の匂いが篭ってはいたけれど、もっと雑然としていた研究所を。
本の山。
床に積まれた論文。
散乱した資料。
食べかけの菓子パン。
魔法陣だらけの黒板。
そして。
『重要なのはここからです!』
と叫びながら机を叩く研究者の顔を。
あまりにも堂々と言われて呆れた日のことを。
「……日野原さ、しばらく見かけなかったけど、どこ行ってたの?」
物思いに耽りそうになっていた芽依を繋ぎ止めるように、不意に佳奈が声を掛けてくる。
はっとして顔を上げれば、親友がいつのまにか、まっすぐこちらを見ていた。
分かりづらく、心配されてる。それに気づくのは、過ごした時間故だった。
最初は絶対に気が合わないとお互いに思っていた。ガリ勉女とギャル。それが、ゆっくり時間をかけて、仲良くなった。
「ていうか……何笑ってんの?」
芽依は少しだけなんで言おうか迷い、素直に口を開くことにした。
肩を竦める。
「オタク思い出してた。異世界の」
「は?」
「異世界行ってたんだよ、私」
「ついに頭が狂ったか?」
小気味のいい返しに、芽依は吹き出す。
異世界の話を信じられないことに、傷つきはしなかったし、そもそも信じてもらうように話そうとも思ってない。
むしろ、佳奈があからさまに信じないことに少し安心したくらいだ。変わらない、この親友は。――この世界じゃ、三ヶ月しか時間は経過していないのだから、当たり前かもしれない。
芽依は、天井を仰ぎ見るように行儀悪く背もたれに身を投げ出した。
カストルと違って、佳奈は早口で理論を語ったりしない。机を叩いて興奮もしない。
研究のためなら命を賭けるような馬鹿でもない。荒唐無稽な話を安易に信じたりもしない。
けれど問題集を睨む真剣な横顔は、少しだけ似ていた。頭のいい人は、理知的な瞳でどこか遠く……未来を見るような目を持っている。
何かを好きで夢中になって、一生懸命な人の顔だった。
芽依はそっと窓の外を見る。
空の青さだけは、何もかも同じ。太陽も月も、雲も星も、全部共通。
魔法は、この世界にはない。
電気などの科学は、あの世界にはない。
「……はー……遅れてた分の勉強、しないとなぁ」
言いながら、ペンを握り直す。
そうすると、佳奈は何かを言いかけたが、結局ため息一つで言葉を仕舞う。
だから、芽依は少し笑って付け足した。
「大丈夫。いない間も、結構楽しく過ごしてたから」
佳奈が、一番気にしてくれているだろうことをきちんと口にする。
そうすると、一拍置いてわざとらしいため息をつかれた。それに、芽依はそっと笑う。
その少し冷たくも感じる温度は、確かにずっと芽依が会いたかったものだったから。
バイトも再開した。
ファミレスの制服を着て、注文を取り、料理を運ぶ。
「芽依ちゃん復帰したんだ!」
「しましたー!」
店長にずいぶん長いこといなかったことを詫びると、ずいぶん心配された。ただ、驚いたのはまだ籍をそのままにしていてくれたこと。
働きたいなら、また是非、と言われて嬉しさに頰が綻んだ。頭を下げて再び働くことを認めてもらった。
だから今日も完璧な営業スマイルでホールを切り盛りしていく。常連からは久々だねと何度か声を掛けられた。
そんなファミレスのホールを歩きながら、芽依はふと苦笑した。
「やっぱ違うなぁ」
ぽつりと零す。
料理を運ぶ。
注文を取る。
レジを打つ。
やっていること自体は、アクアリウムレストランと大差ない。
だけど、ここには巨大な円柱水槽がない。
青い光もない。
魚たちも泳いでいない。
店内に流れるのはポップス。
厨房から聞こえるのはフライヤーの音。
王宮勤めの騎士団も来ない。
大食い大会みたいな注文もなければ、サミュエルに「売上に貢献してください」と無茶振りをされ、コスチュームを変えたり、セールストークをしたりと努力を強いられるとこともない。
「日野原ちゃんー! 三番テーブルお願い!」
「はーい!」
返事をして駆ける。
忙しい。
ちゃんと忙しい。
それでも、異世界よりクレーマーが少ないと比べてしまう。
お盆をフリスビーみたいに投げる必要もない。
モップで追い回す必要もない。
クレーマーを撃退しても、歓声は上がらない。
誰も野次を飛ばさない。
「平和だなぁ……」
ぽつりと呟いてしまった。
普通の人間なら喜ぶべきことなのに。
あの店は。
あの青い光の中は。
もう遠い世界なのだから。
少しだけ物足りないと思ってしまった自分に、芽依は慌てて頭を振る。くるくると踊るように忙しい土日のホールを回していれば、余計なことなど考える暇もなくなっていた。
神社の手伝いも再開した。
朝、箒でゴミを集める。
拝殿を拭く。
祖父は相変わらず口数が少なく、以前と何が変わるでもない。寝坊すれば叱られるし、仕事が雑だと眉を顰める。
祖母は何かと芽依におやつを持たせるようになった。
響也は相変わらず距離感がおかしい。
「ねーちゃん今日何時帰り?」
「なんで毎日聞くんだよ」
「別に」
ぶっきらぼうな顔で、何かを監視しているかのような顔をする。
それが少しだけ可笑しかった。
◇◆
少しずつ、そうやって芽依は日常へ戻っていった。
戻ろうとしていた。
前を向こうとしていた。
異世界へ行ったメイではなく、ギャルで勝気だけど"普通"の日野原芽依へ。
ちゃんと笑えている。
ちゃんと食べている。
ちゃんと眠れている。
大丈夫だ。
きっと大丈夫。
そう思える日も増えた。
自室。
勉強机。
教科書。
友人との写真。
お気に入りのぬいぐるみ。
メイク道具、アクセサリー。
何もかも変わらない。
その中で、一つだけ異質なものがある。
シャウム。
異世界で使っていた通信端末。
机の端に置かれたままのそれを、芽依はそっと手に取った。
何度目かも分からない。
起動しようとするが、できない。シャウムは電気では動かない、あの異世界固有の魔導エネルギーを使っていると聞いた。小難しい説明をされた気はするが、理屈は今ひとつわからなかった。
ただ、この世界じゃ使えないと言う事実だけが今はある。
もう何度試しただろう。
画面は真っ暗なまま、光らない。
反応しない。
何も映らない。
あの世界では、写真を撮れた。電話が通じた。メッセージが送れた。
当たり前に、起動していたのに。
芽依は小さく笑った。真っ暗な画面に、情けない顔が映る。
「結局さぁ……」
指先でシャウムを撫でる。
「写真撮っても、どっちかしか見られないんじゃん……」
異世界にいた頃はスマホが起動しなかった。
家族写真は見られなかった。電話が通じず、誰にも近況を話せなかった。
帰ってきた今。
今度はシャウムが動かない。
リヒトとの写真はもう見れない。思い出は、振り返ることができない。
だって全部、見られないのだから。
会いたい人のいる方の写真だけが、いつも見られない。
忘れないために撮ったはずなのに。
ぽたりと、涙が落ちた。
慌てて拭う。
――ここに帰ってきたことに後悔はない。あの時を何度やり直そうとも、自分はこの現実を選んで、帰ってくる。
自分が選んだのだから、……泣いてはいけない。
大きく深呼吸して、胸を軽く叩く。泣いちゃダメ、だってそうでないと、あの時送り出してくれたリヒトに申し訳ない。引き止めたい気持ちは表情に滲ませ、でも一度も行くなとは言わなかった優しさを、踏み躙りたくはない。
だから、芽依は目を強く瞑る。
◇◆
そうして季節は巡る。
夏が終わる。
秋になる。
冬が来る。
そうやって、確実に月日は経ち、半年が過ぎた。
芽依はちゃんと笑えるようになっていた。
家族と過ごす。
友人と遊んだ。
進路も考える時期、日常は確かに続いていた。
それでも心のどこかにぽっかりと空いた穴だけは埋まらなかったが、今日もそれを無視をする。
――その日も。
神社の境内を掃除していた。
冬の空気は冷たくて、白い息が空へ溶ける。
それでも言いつけ通りに箒を動かしていると、不意に風が吹いた。
ざあ、と木々が揺れる。
葉が舞う。土がふわりと持ち上がる。
少しだけ強い風だったが、不思議と優しさを感じる、柔らかく舞い上がるような風だった。
芽依は何度か瞬きしながら、顔を上げる。
何故だろう、胸がざわついた。
理由なんてない。
ただ、妙に心臓がうるさかった。
そして、ゆっくりと石段の下に、人影が見えた。
知らない男。
長身。
金髪。
黒い外套。
見慣れない服。
でも、その立ち方を知っている。
その気怠げな空気を知っている。
その顔を、芽依は知っている。
知らない、男?
違う。……ちがう。
知っている。
忘れたふりをしようと決めた、ただ一人の彼。
箒が手から落ちた。
からん、と音が響く。
男が顔を上げる。
金色の瞳が真っ直ぐ芽依を見る。
黄金色の、男。
リヒト。
――リヒトは困ったように笑った。
「よう」
掠れた声だった。
「……り、ひとさん?」
芽依の声も震える。
息を一つ呑む。それでも、現実に思えない。
けれど、どくんと、心臓だけが遅れて忙しなく動き出す。これが白昼夢ではないと信じたがっている。
リヒトは頭を掻く。
記憶よりも僅かに伸びた髪。記憶よりも少しだけくたびれたような、それでいて前よりも迫力が増して、独特の色気があった。
その彼が、本当にらしくなく、少しだけ情けない顔で、目は伏せていた。
恥いるように。
「……惨めでも」
リヒトは短く息を吐く。
「バレたら大変なことになってでも」
そして真っ直ぐ芽依を見る。
「納得できないくらい好きだったから」
風が吹く。
木々が揺れる。
芽依の視界が滲む。
リヒトは苦笑した。
「会いに来ちまった」
その一言で。
半年我慢していた涙が、全部溢れた。
いつかに芽依が切った啖呵の答え。
全部覚えて、全部抱えた男は芽依に手を伸ばし、それからそっと――彼女を抱きしめる。お互い、誤魔化しようもないくらい震えていた。




