第56話 洗練された透明感
そして光が消え、そこに現れたのは――
『獺祭 純米大吟醸 磨き二割三分 720ml』だった。
テーブルの上に現れた『獺祭』の瓶は、元のボトルと比べて洗練された佇まいを見せていた。透き通るような深い緑色のガラスに、真っ白なラベルが正面に貼られている。余計な装飾はなく、力強い筆文字で大きく『獺祭』と記され、その隣に小さく『純米大吟醸 磨き二割三分』と整った書体で添えられていた。
ラベルの白と墨色の対比は凛としていて、まるで余計な言葉を拒むような存在感がある。首元には紫の布がきゅっと結ばれ、酒の格を示すかのように上品な雰囲気をまとっていた。
レイスさんは『獺祭』を手に取り、丁寧に封を切る。
二つのグラスに注がれた透明な液体が、ランプの光を反射してほのかに揺れた。
私たちは同時にグラスを手に取り、軽く視線を交わす。
「なんだかんだ言って、お前が王家との間に立ってくれて助かった。俺であれば強硬的な態度をとっていただろうからな。ほぼ王家の要求通りに動くことになったのは癪だが……まあ王国軍に無理やりここを叩き出されて、素人集団だけで強制的に命を懸けた開拓をさせられるよりは、百倍マシだ」
「レイスさん……」
「湿っぽい話は終わりだ。いただくとしよう」
「はい。……いただきます」
軽く乾杯してからグラスの『獺祭』を口に含むと、前回も感じた驚きが蘇った。
柔らかく広がる上品な甘みと、すっと消えるような切れのよさ。
そして余韻が長く喉を通り過ぎた後も、しばらく華やかで透明感のある香りが残る。
「……っ、やっぱり、『獺祭』は美味しいですね」
お酒は普段あまり飲まないとはいえ、前世では仕事の付き合いで何度か日本酒を飲む機会があった。
そのときも甘口や辛口をいくつか試して、美味しいと感じることはあっても、自分からもう一度飲みたいと思うほどではなかった。
正直に言ってしまえば私自身、日本酒自体にそこまで適性がないのだと思う。
しかし、そんな私でもまた飲みたいと思ったのが、この『獺祭』だった。
一言で表すなら、すごく飲みやすくて美味しい甘口の日本酒。
口当たりは軽やかで、するりと喉を通っていくのに、消えた後にはふわりと余韻が残る。
飲みやすくフルーティーだけど甘すぎず、それでいてただすっきりしているだけでもない。その絶妙な調和に、初めて飲んだとき『こんなに美味しい日本酒なんてあったんだ』と感動したのをよく覚えている。
「美味いな。……本当に、美味い」
レイスさんも深く頷きながら、再びグラスに口をつけた。普段はどちらかといえば辛口のお酒を好んでいるらしい彼でも、この『獺祭』の洗練された味わいには素直に感銘を受けているようだった。
その後、私たちは肩の力を抜いて他愛のない話を始めた。スラム街での日々の出来事や、食べ物の好み、進化したスキルの話。重要な話し合いを終えた安堵感もあって、会話は自然と弾んでいく。『獺祭』の心地よい酔いが、普段は言葉にしないような些細な内心も口に出させてくれたおかげか、レイスさんとの距離もかなり縮まっているように感じる。
そうしてランプの温かい光に包まれながら、私たちは『獺祭』をゆっくりと味わうのであった。
〇
一週間後の朝。
私は教会本部の前で、エリュア大司教様とヘレナさんに見送られていた。
「悪いわね、大々的に見送れなくて」
「いえ、事情があると伺っておりますので。それに私としては今回の件で聖女認定していただけただけでも、すごくありがたいです」
今回の一件で、私は聖女としてスラム街の解決には役に立っていないに等しかった。それなのになんと大司教様のゴリ押しで、枢機卿団という王国教会の最高意思決定機関に私の聖女認定を認めさせてくれたのだという。
「対外的には公表できない、中途半端な認定だけれど……」
大司教様が顔を曇らせる。
彼女の言う通り、ゴリ押しで聖女認定をもらえたのは良いものの、これはあくまで王国教会内々の認定であり、大っぴらには公表できないものだった。
理由としては、正式に私を聖女と公表すると、新ダンジョンの件で緊張状態にある帝国との関係に大きな影響を与えてしまう可能性があるためだという。
「それでも王国の正式な使者として聖教国に行けますし、ちゃんと書状もいただけましたから」
懐に入れた大司教様からの手紙を手で押さえ、ニッコリと笑う。
まだ聖女ということを大っぴらに公表できないとはいえ、聖教国の教皇様宛ての手紙を大司教様からいただくことはできたので、問題はなかった。
元から聖教国に話を通した後に帝国へ和平の使者として向かう予定だったから、そのあたりは計画通りだ。
「まあ、そうね。ただ、レイス・ランベールとの合意が取れてから一週間で移動開始って……これ、どう考えてもアナタがスラム街に行く前から準備を進めてたわね。下手したら、教会にこの話がくる前から議会と裏で話がついてた可能性すらあるわ」
大司教様はそう言って腕を組み、呆れたようにため息をついた。
今回の件は王国側で結論ありきの話だったのでは? と思っていたけど、どうやら彼女も同じことを考えていたようだ。
「でも、レイスさんからは間に立ってくれて助かったって言ってもらえましたし、こっちに来てから毎日パンを配っていたおかげか、スラム街の人たちも前よりかなり元気になった気がするので、よかったです」
「そう……ありがとね。本来なら教会がやらなきゃいけないことなんだけど、最近は週一の炊き出しで割と予算がカツカツなのよ」
「私も辺境ではありますが、王国教会の所属ですので。当然のことです。一応、聖女ですしね」
「一応じゃないわ。アナタは立派な聖女よ。ここだけの話、少しでも聖女としての資質に疑いがあったら、後から話を覆して認定を拒否するつもりだったけど……アナタなら大丈夫。私、人を見る目はあるつもりなの」
「え……あ、ありがとうございます」
立派な聖女と言われて、思わず困惑する。
聖女としての資質って、なんだろう……私、今回は何もやってないんだけど。
パンを配るのが聖女の資質? ……でもそれだと、教会のシスターはみんな聖女の資質があることになるし、よくわからない。
「それにしても、マティアスのやつ……国境近くへの移民の件、私にも黙ってたなんて……許せないわ」
「マティアス殿下とエリュア大司教様は仲が良いんですか?」
初めにマティアス殿下と会ったときも、大司教様を呼ぶ際に割と気安そうな雰囲気があったし、二人の関係がちょっと気になっていた。
「仲が良いってほどじゃないけど、私はルシアンにとって従妹にあたるから、その関係で小さい頃はよく三人で遊んでたのよ」
「え、従妹なんですか!?」
教会本部は王家と血がズブズブって言ってたけど、大司教様が第一王子の従妹って……思ってたよりかなり近い親戚だった。
すごいなぁ……縁故が極まってる。
私も兄さん経由でシスターになったから、人のこと言えないけど。
「すごいわよね。王様みずから王制を廃止したトリア共和国とは真逆をいってるわ」
「トリア共和国って、王様が王制を廃止したんですか?」
そう言うと、大司教様は目を丸くして、驚いたように私の顔をまじまじと見つめてきた。
その視線に耐えきれず、私は思わず目を逸らす。
「アナタ……知らなかったの?」
「す、すみません……勉強不足で」
兄さんの家にあった本でも、難しそうなものは避けて物語系ばっかり読んでいた私だ。
さすがに女神教関係の本は網羅していたけど、それ以外も読んでおくべきだったかもしれない。
「勉強不足というか、これ一般常識よ。まあ辺境の出身だから、そういうこともあるかもしれないけれど……聖女として聖教国に行くなら聖書だけではなく、それ以外の知識も入れるようにしたほうが良いわよ」
「はい……肝に銘じます」
私が肩を落としてシュンとしていると、後ろに控えて話を聞いていたヘレナさんが大司教様に苦言を呈した。
「エリュア様、今代の聖女様に対して言い過ぎなのでは?」
「ヘレナさん、私なら大丈夫です。大司教様の仰る通りですし」
「リシア様……」
「今まで通りにしてください、ヘレナさん。そんなふうに言われたら、私もヘレナ『様』って言いますよ?」
いたずらっぽく笑って軽口を叩く。
するとヘレナさんは目を見開き、そのあと頬を緩めて目を細めた。
「わかったわ、リシアさん」
穏やかで優しい雰囲気が流れる。
大司教様が小さく咳払いをして、その流れを切り替える。
「それじゃ、元気でね。サクッと聖教国に行って教皇様に認められて、サクッと帝国と和平を結んできなさい」
「ちょっと、エリュア様っ……リシアさん、道中に気をつけて。また会える日を楽しみに待っているわ」
「はい、ありがとうございます。行ってきます!」
そうして私は二人に挨拶をして教会本部前を後にし、王都の東門へと向かった。




