第5話 教養と愛情だ
一週間が経っていた。
クラウスはリーゼロッテの実家であるヴェーバー子爵邸に馬車を走らせている。婚約解消届はまだ受理されていない。手続きが完了していないということは、まだ交渉の余地がある。条件を再提示すれば、リーゼロッテは合理的に判断するだろう。彼女は感情で動く女ではない。改善された条件を見れば、戻るのが最善だと分かるはずだ。この一週間、屋敷は目に見えて荒れた。使用人がさらに一人辞め、厨房のギーゼラが「お嬢様のご指示がなければ献立が組めません」と言った。客間の花は枯れたまま誰も片づけない。書斎に積まれた陳情の束を、クラウスは自分で仕分けようとして、何を基準に分ければいいのか分からなかった。リーゼロッテがやっていたことの一つひとつが、この一週間で穴になって現れている。穴の形でしか、リーゼロッテの仕事は見えない。
馬車の中で、提示する条件を頭に並べた。家政に関する裁量権の全面的な拡大。花と茶菓子に関する専用予算の確保。社交の贈答に必要な経費の承認と使用人管理方針への完全な不干渉。これだけ並べれば十分だ。合理的な改善案を提示し、相手が受諾する。契約更改と同じ手順だ。
だが座席に座っていると、ポケットの中のものが揺れる。リーゼロッテから受け取った鍵束だ。ドレクセル家の部屋という部屋の鍵がぶら下がっている。食料庫、銀器棚、書庫、客用寝室、地下の酒蔵。鍵の数がこの屋敷の規模と信頼の証だと、母が昔言っていた。この重さを、リーゼロッテは五年間毎朝腰に下げて廊下を歩いていた。金属の塊がポケットに入っているだけで上着の形が変わる。この重さとともに花を活け、使用人に声をかけ、来客を迎えていたのだ。
ヴェーバー子爵邸に着いた。小さな屋敷だが、隅々まで手入れが行き届いている。玄関に花が活けてある。控えめな花瓶に、季節の花が、正確な高さで。廊下に石鹸と蝋燭のほのかな匂いが漂っている。ドレクセル家の玄関からは、一週間前にこの匂いが消えた。
応接間に通された。しばらく待つと、リーゼロッテが入ってきた。背筋の伸びた姿勢は変わらない。穏やかな微笑みも変わらない。だがその微笑みに、ドレクセル家にいた頃のどこか張り詰めた気配がない。目元の翳りが薄くなっている。この一週間で、リーゼロッテの顔からあの疲れが消えたのだ。ドレクセル家にいた五年間、リーゼロッテは常に疲れていたのだと、今になって気づく。
「リーゼロッテ。条件を再提示する。戻ってこい」
リーゼロッテはクラウスの顔を見た。立ったまま姿勢を変えず、微笑みも崩さない。
「いいえ」
一語だった。五年間の丁寧な「かしこまりました」の後に来る一語が、壁のように立ちはだかる。
「花と茶菓子の件は撤回する。社交の贈答も予算をつける。使用人の管理も全面的に任せる。不干渉を約束する。何が足りない。言ってくれれば対処する」
「クラウス様、わたくしが五年間申し上げなかったことを、今さら申し上げても仕方がございません」
「なら何がどうすれば戻るんだ。給金か。役職か。部屋か。何でも用意する」
クラウスの声から、いつもの冷静さが剥がれていく。語彙が減っている。合理的に組み立てられるはずの言葉が、ばらばらになる。提示できる条件は全て並べた。予算も裁量も不干渉も。それでも相手が動かない。条件が合えば契約は成立するはずだ。条件を改善すれば人は動くはずだ。なぜ動かない。
「頼む」
口から出たのは二文字だった。条件でもなく、命令でもない。クラウスの辞書に載っていないはずの言葉が、勝手に出た。
リーゼロッテの表情がほんの一瞬だけ変わる。微笑みの奥で何かが揺れる。クラウスはそれを見て、通じた、と思った。まだ間に合う。
「クラウス様」
リーゼロッテの声が少しだけ柔らかくなった。だが柔らかさの中に、取り消せない決意が通っている。
「五年間、わたくしはずっと待っておりました。花を活けるたびに、茶菓子を選ぶたびに、使用人に声をかけるたびに。いつか認めていただけると信じて。けれど五年間で一度もその日は来ませんでした」
「それは」
「今、クラウス様が仰っているのは条件の改善です。予算と裁量権と不干渉のお約束です。わたくしが五年間待っていたものは、そういうものではございませんでした」
「なら何だ」
「それを五年間かけてもお気づきにならなかったことが、わたくしの答えでございます」
クラウスは黙った。分かっている。「ありがとう」だ。マルタに言われた。リーゼロッテ自身にも先週言われた。だがその二文字が今この瞬間にも出てこない。出そうとすると喉の手前で止まる。「悪かった」も同じだ。条件と数字の言葉しかクラウスは持っていない。その語彙の貧しさに気づいたところで、今すぐ新しい言葉は使えなかった。
「リーゼロッテ」
名前だけを繰り返した。他に何も言えなかった。
そのとき、応接間の扉が開く。
母が立っていた。ヘルミーネ・ドレクセル。侯爵家の出で、かつてドレクセル伯爵家の女主人としてあの屋敷を守っていた人だ。リーゼロッテに謝罪するために先に来ていたのだろう。母の目がクラウスとリーゼロッテの間を一往復し、全てを察した表情になる。
「クラウス」
静かな声だ。息子に向けるには冷たすぎるほどの静けさ。
「お前が無駄と呼んでいたものは、あの娘の教養と愛情だ」
クラウスは振り返った。母の目を見る。
「数字しか見えないお前には分からなかっただろうけれど、リーゼロッテさんがしていたことは、私がかつてこの屋敷でしていたことと同じです。花を活け、客をもてなし、使用人を守り、社交を整える。それを無駄と呼ぶ人間の隣で五年間耐えたこの方の忍耐に、お前は感謝すべきだった」
反論する言葉が見つからなかった。母の言葉はマルタが言ったことと同じだ。花と茶菓子と声かけ。数字に現れないもの。効率に換算できないもの。それを「無駄」と呼んだのはクラウスだ。五年間、毎日、リーゼロッテの仕事を否定し続けた。否定しながら、その恩恵だけは受け取っていた。言葉と行動が矛盾していたのは、リーゼロッテではなくクラウスの側だ。母はそれを最初から見ていた。
ヘルミーネはリーゼロッテに向き直り、深く頭を下げた。侯爵家出身の、あの気位の高い母が、子爵令嬢に頭を下げている。クラウスは母が誰かに頭を下げるところを見たことがなかった。
「リーゼロッテさん。愚息が大変な失礼をいたしました」
リーゼロッテの微笑みが初めて少しだけ崩れる。悲しみではない。ヘルミーネの誠意への感謝だ。
「ヘルミーネ様には感謝しております。けれど、もう戻りません」
ヘルミーネは頷いた。引き留めなかった。「考え直して」とも言わない。
クラウスは応接間に立ち尽くしている。母がリーゼロッテに頭を下げ、リーゼロッテが「もう戻りません」と言い、母がそれを受け入れた。その一連のやり取りの中に、クラウスの入る余地はなかった。母もリーゼロッテも、クラウスに期待していない。条件の改善を。予算の確保を。不干渉の約束を。そういうものではないと、二人とも知っている。クラウスだけが、まだ数字で解決しようとしている。
「帰りましょう、クラウス。これ以上ここにいても、お前が傷つくだけです」
母に促されて応接間を出た。リーゼロッテは見送りに来なかった。五年間、クラウスが外出するたびに必ず玄関まで送っていた人が、今日は応接間から動かない。それが正しいのだと、どこかで分かっている。分かっているが、廊下がいやに長く感じる。リーゼロッテの最後の言葉が、頭の中で繰り返される。「もう戻りません」。静かで、短くて、丁寧で、取り返しのつかない一文だった。
馬車に乗る前に、ポケットの鍵束に触れた。あの重さを五年間運んでいた人は、もういない。ヴェーバー子爵邸の玄関を振り返る。花瓶の花が夕方の光の中で穏やかに色づいている。この花を活けたのはリーゼロッテだろうか、それともこの屋敷の誰かだろうか。どちらにしても、花が活けてある玄関は温かい。花がない玄関の冷たさを、クラウスはこの一週間で知った。
ドレクセル家に戻った。玄関の扉を開ける。
玄関先の花瓶は、空のままだった




