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婚約者の言う「効率」を三日だけ完璧に実行したら、屋敷が回らなくなりました  作者: 九葉(くずは)


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第4話 お前がいないと困る

クラウスの声が、廊下の向こうから聞こえた。


「使用人頭、最近この屋敷がおかしい。何が起きている」


リーゼロッテは居間の扉の内側で足を止めた。クラウスがマルタを問い詰めている。いつもの断定的な口調だが、語尾に焦りが滲んでいる。使用人が二人辞め、社交の贈答が止まり、花が枯れ、来客に不快な思いをさせ、近隣から噂が立ち始めた。数字では測れないものが壊れ始めたことに、この人はようやく気づいたのだろう。


マルタの声が返った。静かで、硬い。


「おかしいのではございません。お嬢様がされていたことを、お嬢様がおやめになっただけです」


クラウスが黙った。廊下の空気が止まったのが、扉越しに分かった。


マルタが続ける。リーゼロッテが毎朝していたことを、一つずつ数え上げ始めた。


使用人の部屋を三十分かけて回り、一人ひとりの体調と予定を確認していたこと。来客の好みを台帳に記録し、茶菓子を三種選んでいたこと。花を季節ごとに替え、来客ごとに香りの強さまで調整していたこと。近隣貴族への贈答品を毎月手配し、時候の挨拶状を書き、お礼状をしたため、社交の場でクラウスが言い落とした話題を後から拾っていたこと。使用人の給金の相場を調べ、退職が出ないよう待遇を調整し、新しく入った使用人には三ヶ月かけて仕事を教えていたこと。領民からの陳情を仕分け、緊急のものとそうでないものを分類してクラウスの執務机に置いていたこと。


「全部でございます、旦那様。全部、お嬢様がお一人でなさっていました。旦那様がご存じなかったのは、お嬢様が何も申し上げなかったからでございます」


マルタの声はどこまでも丁寧だった。だが丁寧さの下に、長い間押し殺してきた怒りが一筋、細く通っている。リーゼロッテだけがそれを聞き取った。


廊下が静まった。クラウスの息の音すら聞こえない。一つずつ数えているのだろう。花の時間と茶菓子の時間と声かけの時間を、あの人は今、頭の中で合理的に足し算している。それが屋敷の何を支えていたか、初めて理解しようとしている。


足音が近づいてきた。重い足取りだ。いつものクラウスの足音は迷いなく速いが、今日は一歩ごとに間がある。リーゼロッテは居間の椅子に座り直した。手は膝の上で組んだまま、動かない。


扉が開いた。


クラウスが立っていた。顔色が悪い。


「リーゼロッテ」


五年間で何百回と聞いた呼び方だ。事務的で、平坦で、名前ではなく記号のように響く。だが今日は、その記号の端がかすかに揺れている。


「お前がいないと困る。条件は改善する。何が不満だったか言え」


リーゼロッテは立ち上がらなかった。椅子に座ったまま、クラウスの顔を見上げる。マルタの言葉がようやく届いたのだろう。顔色が悪いのはそのためだ。けれど、届いたのなら、最初に出てくる言葉が「条件」であるはずがなかった。


「条件、ですか」


「給金の管理が不満なら見直す。花の件も撤回する。社交の件も必要なら予算をつける。言ってくれれば対処する」


条件。予算。撤回。対処。クラウスの口から出てくる言葉は全て取引の語彙だ。五年間の婚約を、契約更改のテーブルに載せている。


リーゼロッテは息を吸った。浅く、静かに。この会話を何度頭の中で繰り返したか分からない。一年前から引き出しに入れてあった紙のことを考えるたびに、いつかこの瞬間が来ると知っていた。そして今、その瞬間は思ったよりもずっと穏やかに訪れている。


「クラウス様。五年間で一度も仰らなかった言葉がございます」


クラウスが眉をひそめた。


「何だ」


リーゼロッテは微笑んだ。


「ありがとう、です」


クラウスの口が開いた。閉じた。もう一度開く。だが「ありがとう」は出てこない。代わりに出てきたのは「それは」という接続詞の断片で、その先が続かなかった。五年間一度も使わなかった言葉を、今この瞬間に初めて使おうとして、出てこないのだ。語彙にない言葉は、喉を通らない。


リーゼロッテは机の引き出しを開けた。一年前からしまってあった紙を取り出し、クラウスの前に差し出した。


婚約解消届。


クラウスは紙を見下ろした。文字の上を視線が行ったり来たりしている。


「待て。話し合おう」


「お話し合いは五年間ございました。わたくしが花を活けるたびに、茶菓子を選ぶたびに、使用人に声をかけるたびに。クラウス様はその全てに、お答えをくださっていました」


無駄だ、と。


リーゼロッテはそれを口にしなかった。言う必要がなかった。クラウスの顔が、自分の言葉を思い出しているのが見えたから。


立ち上がった。腰に下げた鍵束を外す。この屋敷の部屋という部屋の鍵。食料庫、銀器棚、書庫、客用寝室、地下の酒蔵。鍵の数がこの屋敷の規模であり、それを預かることは女主人の信頼の証だ。五年間、毎朝この鍵束の重さとともに目を覚ました。


鍵束をクラウスの手に渡した。金属が触れ合う音がする。クラウスの手がその重さに一瞬だけ下がった。


「お世話になりました」


一礼して、部屋を出た。振り返らなかった。廊下の花瓶の横を通る。枯れたラベンダーがまだ活けてある。花弁は完全に茶色く縮み、水は濁りきっている。リーゼロッテはその前を、足を止めずに通り過ぎた。


荷物をまとめるのに、一時間もかからなかった。五年分の暮らしが一つの鞄に収まる。リーゼロッテが持ち込んだものは、母から受け継いだ来客台帳の技術と、社交術と、花の活け方だけ。全部、鞄には入らないものばかりだ。形のないものだけが、リーゼロッテの財産だった。


実家へ帰る馬車を、途中の宿場町で降りた。日が傾いている。実家に着けば父が心配するだろう。だが今日はもう少しだけ、一人でいたかった。五年ぶりに、自分の足で行き先を決めている。その感覚を、もう少しだけ味わっていたい。


宿を探して通りを歩いていると、一軒の宿の入り口で女将が困った顔をしていた。荷馬車の積荷が崩れて、通りの半分を塞いでいる。宿の客が出入りできない。女将と御者が言い合っている。


リーゼロッテは立ち止まった。積荷の崩れ方を見て、三秒で順番を決めた。下の大きな木箱を先に横にずらせば、上の荷が自重でずれて通りが開く。女将に「こちらの箱から動かしましょう」と声をかけ、御者に「馬を少し前に」と伝えた。三分で通りが空いた。女将が何度も礼を言い、御者が頭を掻きながら馬車を路地へ寄せた。


リーゼロッテにとっては、屋敷の中で毎日やっていたことと変わらない。人の動きを見て、段取りを組んで、最短で問題を解決する。誰でもできる。クラウスには「無駄」と呼ばれていたこと。


「それ、すごい技術ですね」


声は右から来た。


振り返ると、若い男が立っていた。旅装だが、身なりは清潔で、姿勢がいい。馬の手綱を片手に持って、通りが開くまでの間、リーゼロッテの指示を見ていたらしい。


「状況を見て、誰に何を頼めば最短で片づくか、瞬時に判断されていた。荷の重心まで見えていましたね。あれは経験に裏打ちされた技術です」


技術。この人は今、リーゼロッテがしたことを「技術」と呼んだ。


「失礼、名乗りが遅れました。隣領ブルクハルト男爵領のヨハン・ブルクハルトです。うちは領地が小さくて人手が足りず、こういう段取りの技術を持った方をずっと探していまして」


ヨハンは名乗りながら、リーゼロッテの方を真っ直ぐに見ている。値踏みではない。


「もしお急ぎでなければ、少しお話を伺えませんか」


リーゼロッテは自分の手を見下ろした。鍵束のなくなった腰が、軽い。五年間ぶら下げていた重さが消えて、体の重心が変わっている。


「少しだけなら」


宿の食堂で向かい合って座った。ヨハンはリーゼロッテの話を聞きながら何度か頷いた。「それは大変でしたね」とは一度も言わない。代わりに「それだけの仕事を回していたなら、うちの領地でもすぐに活躍できます」と言った。


「もし行き先がまだ決まっていなければ、うちの領地に家政顧問として来ていただけませんか。仕事としてです。給金はお出しします」


仕事として。給金。無償の献身ではなく、対価のある仕事としてリーゼロッテの能力を使いたいと言っている。五年間で一度も言われなかったことを、この人は出会って十分で口にした。窓の外に見える宿場町の夕焼けが、ドレクセル家の屋敷から見るどの夕焼けよりも暖かく見えた。


初めてだった。自分のしていることを「技術」と呼ぶ人に会ったのは

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