第3話 最近、ドレクセル伯爵家はどうされました?
三日目の朝、クラウスは執務机で領地の収支報告書を開いた。数字は正確で、収入も支出も予定通りだ。問題はない。数字がそう言っている。
だが朝食の味が、昨日と違った。パンがいつもより硬い。紅茶の茶葉が違う銘柄に変わっている。バターの置き場所が、いつもの皿ではなく別の皿になっている。一つひとつは些細なことだ。だがそれが三つ重なると、テーブルの上に座りの悪い違和感が生まれる。クラウスは紅茶を一口飲んで、眉をひそめた。いつもの味ではない。だが「いつもの味」が何だったのか、正確に思い出せないことに気づいた。
使用人頭が執務室の扉を叩いた。
「旦那様、申し上げにくいのですが」
マルタの声がいつもより硬い。
「メイドのエルマとアンナから、退職の通告がございました」
退職。二人同時に。クラウスは書類から顔を上げた。
「理由は」
「お二人とも、一身上の都合と」
一身上の都合。理由を言いたくないという意味だ。クラウスは椅子の背にもたれて、天井を見た。苛立ちが首筋に上ってくる。使用人が辞めるのは給金か待遇に不満があるからだ。ドレクセル家の給金は近隣の相場を上回っている。待遇も劣っていない。退職の通告は一ヶ月前が慣例で、二人ともそれに従っている。二人同時に辞めれば人手が足りなくなる。それは効率に反する。
「引き止めろ」
「旦那様、使用人の退職を引き止める場合、通常は女主人が面談をなさいます。お嬢様に」
「リーゼロッテに任せろ」
マルタの表情が一瞬だけ固くなった。何か言いたげな目だったが、「かしこまりました」とだけ言って下がった。クラウスはその表情の意味を考えなかった。
午後、隣領のグライフェンベルク伯爵邸で近隣貴族の茶話会がある。こうした集まりは時間の無駄だとクラウスは思っている。だが領地経営に関わる情報が交わされることがあるので、月に一度は出席する。いつもならリーゼロッテが出席者の近況や話題を紙にまとめてくれる。今日はその紙がなかった。なくても困らない。自分の領地の数字は把握している。
席について間もなく、グライフェンベルク伯爵が近づいてきた。普段は穏やかな老伯爵の顔に、困惑の色が浮かんでいる。
「ドレクセル卿、少々よろしいか。先月の季節のご挨拶の品は大変結構なものでしたが、今月の分がまだ届いておりませんで。それと、先日の夜会へのお礼状も。何かございましたか」
季節の挨拶の品。お礼状。クラウスは一瞬、何のことか分からなかった。贈答を誰が手配し、台帳を誰が管理し、お礼状を誰が書いていたのか。考えたことがない。毎月届いていたのだから、毎月届くものだと思っていた。
「手配に行き違いがあったようです。確認いたします」
伯爵は頷いたが、表情は晴れない。去り際に、もう一つ言い足す。
「それと、お宅の使用人さんたちは元気にしていますか。ドレクセル家は使用人が辞めない屋敷として評判でしたから。最近、少し噂が立っておりましてね」
噂。使用人が辞めない屋敷。クラウスはその言葉を聞き流した。使用人が辞めないのは、給金が適切だからだ。環境を合理的に整えれば屋敷は回る。
茶話会の間に、もう一人の貴族からも似たことを言われた。「ドレクセル家のリーゼロッテ夫人からのお手紙が途絶えて、心配しておりました」。クラウスは初めて、リーゼロッテが手紙を誰に、いつ、どれだけ書いていたのかを考えた。だが考えたのは一瞬だった。手紙なら書簡で済む。書簡は効率的だ。リーゼロッテが書簡以外の手間をかけていたとすれば、それは無駄だったということだ。
帰宅した。馬車を降りて玄関を通ったとき、何かが足りないと感じた。玄関の扉も、床も、壁も、いつも通りのはずだ。だが空気が違う。以前はこの玄関に入った瞬間に感じていた、何か柔らかいもの。それが消えている。花の匂いだ、とは気づかなかった。
廊下を歩いた。客間の前で足が止まった。
花瓶の花が枯れている。
花弁は茶色く萎れ、茎がぬるりと傾いている。水が濁って薄い膜が張り、甘く腐りかけた匂いが廊下まで漂ってきた。三日間、誰も花を替えていない。客間の花が枯れたまま放置されるのは、屋敷の管理として不適切だ。
リーゼロッテを呼んだ。
「花が枯れている。替えろ」
リーゼロッテが廊下の向こうから歩いてきた。足音は静かで、背筋は伸びている。枯れた花瓶の前に立ち、花を見下ろした。それから顔を上げて、クラウスを見た。微笑んでいる。いつもと同じ笑顔のはずだが、その笑顔がどこかおかしい。
「花は無駄と仰いましたので」
クラウスは一拍、言葉に詰まった。
言った。確かに言った。花にかける時間は非効率だと。出納記録に目を通せと。三日前に、この廊下で。
「だからといって枯れたまま放置するのは」
「効率的に考えれば、枯れた花を替えるのも無駄ではございませんか。新しい花を選び、茎を切り、水を替え、花瓶を洗い、来客の好みに合わせて香りを調整する。クラウス様のお言葉を借りれば、その時間で書簡が一通は書けます」
丁寧な声だった。言葉遣いも、声の高さも、間合いも、何一つ崩れていない。だがクラウスの言葉を、一字の狂いもなくそのまま返している。「効率的」「書簡が一通」。クラウスの語彙で、クラウスの論理で、クラウスの結論を組み立てて、突きつけている。
「替えろ」
繰り返した。他に言葉が見つからなかった。
「かしこまりました。ではどの花を活けましょう。どの花瓶に、どの高さで、どの色をお選びになりますか」
クラウスは答えられなかった。花の選び方を知らない。どの花瓶にどの花をどの高さで活けるかなど、考えたことがない。それはいつも、勝手に整っていた。誰かが選び、誰かが活け、誰かが毎朝水を替えていた。クラウスはその「誰か」の名前を知っているはずだが、今この瞬間、その名前と「花を活ける人」が頭の中で繋がらない。
リーゼロッテは何も言わずに微笑んだまま、枯れた花瓶の横を通り過ぎた。廊下の向こうに消えていく背中は真っすぐだ。
クラウスは枯れた花の前に立っている。花弁が一枚、音もなくテーブルの上に落ちる。
屋敷の何かがおかしい。使用人が辞め、贈答が止まり、花が枯れている。朝食の味が変わり、紅茶の銘柄が違い、廊下から匂いが消えた。数字は正常だ。収支に問題はない。リーゼロッテは言われた通りにしているだけだと、あの笑顔で言っている。だが、この屋敷のどこかで、クラウスの知らないものが壊れ続けている。
何が変わったのか、クラウスにはまだ分からなかった




