第2話 旦那様、本日の朝食はパンと水でございます
朝の使用人食堂は、いつもと違う空気で始まった。
マルタは使用人たちの顔を見回した。昨夜の熱は引いたが、体のだるさはまだ残っている。だが問題はマルタの体調ではない。問題は、この屋敷の朝に、お嬢様の声がないことだ。
いつもなら、使用人たちが目を覚ます三十分前に、リーゼロッテは廊下を回る。一人ひとりの部屋の前で足を止めて、扉越しに声をかける。エルマには「昨日の銀器磨き、遅くまでお疲れさま」、フリッツには「奥様のご容体はいかが」、ギーゼラには「腰の具合は大丈夫? 今日の献立は私も手伝います」。声は静かだが、毎朝必ずあった。お嬢様がこの屋敷に嫁いできてから五年間、マルタは一日もその声を聞かなかった朝を知らない。お嬢様が熱を出した日ですら、廊下に出てきて声をかけていた。
今朝、廊下は静かだった。庭師のフリッツは朝食のパンをちぎる手を止めて、厨房の入り口をちらちらと見ている。普段ならお嬢様が庭に面した廊下を通りかかり、フリッツに「おはよう、お子さんの名前は決まった?」と聞いてくれる。先月生まれた子の名前は、まだ決まっていない。今朝は誰もフリッツに声をかけなかった。
厨房のギーゼラが使用人たちの皿に粥を切り分けている。手つきが荒い。上席者から順に皿が渡されるのが使用人食堂の決まりだが、マルタが席につく前に、ギーゼラが自分の判断で配り始めた。朝の段取りがないのだ。全員が、次に何をすべきか分からないまま座っている。
マルタは使用人食堂を出て二階へ上がった。廊下の花瓶の前を通る。一昨日のラベンダーが、まだそのまま活けてある。花弁の端が茶色く縮み、茎が花瓶の水の中でぬるりと膜を張り始めている。水が濁って、甘い匂いが腐りかけの匂いに変わりつつあった。お嬢様は毎朝この水を替え、傷んだ花を抜き、新しい花に入れ替えていた。二日手をかけないだけで、花はこうなる。
お嬢様は廊下の窓辺に立っていた。
「お嬢様、今朝はご挨拶が」
振り返ったリーゼロッテの顔は穏やかだった。いつもの微笑み。だがその微笑みは、温かい飲み物から湯気が抜けたあとのように、形だけが残っている。
「効率的に、各自で判断してください」
お嬢様の声は丁寧だった。語尾も、間合いも、声の高さも変わらない。変わったのは、その声に混じっていたはずの心配の色だ。使用人の一人ひとりを気にかける温度が、きれいに消えている。
マルタは何か聞くべきだった。だが、お嬢様の笑顔の奥にある静けさが、問いを飲み込ませた。
午後。ベルクハイム子爵夫人が来訪された。
マルタは客間の支度を確認した。テーブルクロスは敷いてある。朝のうちにエルマが整えたもので、皺ひとつない。茶器も並んでいる。だが花瓶の中のラベンダーは二日目で、花弁が垂れかけている。お嬢様はいつも来客の前に花を活け替え、客の好みに合わせて香りの強さを調整していた。マルタが「替えましょうか」と声をかけると、リーゼロッテは首を横に振った。
「一種類の花があれば十分です」
旦那様の口癖を、お嬢様がそのまま使っている。マルタの背筋が冷えた。
リーゼロッテが客間に夫人を通す。「ベルクハイム子爵夫人、お越しいただきありがとうございます」と言って椅子を引く。それだけだった。いつもならお嬢様は夫人の体調を尋ね、先日のお茶会の話題に触れ、季節の花の話を添えて、夫人が席に落ち着くまでの時間を柔らかく満たす。今日はその全てがない。夫人の表情が一瞬だけ戸惑い、すぐに取り繕った笑みに変わったのを、マルタは客間の隅から見ていた。
茶菓子が運ばれてきた。銀の皿に柑橘の焼き菓子が一種類。
夫人が皿を見下ろした。前回も同じ柑橘の焼き菓子だった。その前も。三度続けて同じ菓子を出された夫人の唇が、わずかに引き結ばれる。お嬢様はいつも三種類を用意していた。来客の好みを記憶し、前回と被らないように選び、甘いものが苦手な夫人のために塩味のビスケットを手前に置く。それを旦那様は「一種で十分」と言った。
夫人は焼き菓子に手をつけなかった。紅茶を一杯だけ飲み、予定より三十分早く席を立つ。お嬢様は「お気をつけてお帰りくださいませ」と事務的に見送る。玄関で夫人が従者に向かって「ドレクセル家も変わったわね」と呟いた声が、マルタのいる廊下の角まで聞こえた。声を抑える気もない口調だ。
クラウスが書斎から出てくる。帰っていく馬車を窓越しに眺めて、頷く。
「やればできるじゃないか」
マルタは歯を食いしばった。旦那様はなにを見ているのだ。夫人が焼き菓子に手をつけず、予定より三十分早く帰り、玄関先であの言葉を残していったことが、この人には見えていない。効率的に迎え、効率的に帰した。それで満足している。お嬢様が五年間かけて築いたベルクハイム家との関係に、今日、目に見えない亀裂が入ったことを、旦那様は知らない。数字にならない亀裂だから。
使用人の立場では言えなかった。言えば「甘やかすな」と返される。五年間で何度も繰り返された結末だ。
夕刻、マルタはリーゼロッテの部屋に紅茶を運んだ。
お嬢様は窓辺の椅子に座っていた。膝の上で手を重ねて、夕焼けの空を見ている。穏やかな顔だった。怒っているようにも、泣いた後にも見えない。この五年間でマルタが見てきたどの表情よりも、静かだった。
「お嬢様、無理をしていませんか」
リーゼロッテが振り返った。夕焼けの光が目に入って、少しだけ眩しそうに目を細めた。
「無理? 今が一番楽ですわ」
楽。お嬢様はそう言った。五年間、旦那様の言葉に頷き、使用人の体調を気にかけ、来客の好みを記憶し、社交の根回しをし、一度も「ありがとう」と言われなかった日々。全てをやめて、今が一番楽だと。
それは五年間、ずっと楽ではなかったということだ。
マルタは紅茶のカップを受け皿に置く。音が立たないように指先に力を入れる。何かを返すべきだったが、言葉が出なかった。
部屋を出て、廊下でエルマとすれ違う。
「マルタさん、明日の段取りはどうすれば」
「各自で判断しなさい」
自分の声が硬いのが分かった。怒りの行き先が見えなかった。旦那様に向かうべき怒りか、五年間何もできなかった自分への怒りか、それともお嬢様の笑顔を当たり前だと思ってきた屋敷の全員への怒りか。
夜が更けた頃、巡回でお嬢様の部屋の前を通りかかった。
扉の隙間から灯りが漏れている。マルタは足を止めた。
薄く開いた扉の向こうで、リーゼロッテが机に向かっていた。引き出しを開けている。中から一枚の紙を取り出し、蝋燭の灯りにかざした。紙の上部に「婚約解消届」と印刷された文字が、揺れる灯りに浮かんだ。
マルタは音を立てないように、扉の前を離れた。
引き出しの奥から、リーゼは一枚の紙を取り出した




