第6話 三種類でなければ意味がございませんもの
ブルクハルト男爵領に来て、ちょうど一ヶ月が過ぎた。
リーゼロッテは小さな領地の事務所で、朝の段取りを確認している。ヨハンの領地は小さい。ドレクセル伯爵家の三分の一ほどの規模で、使用人の数も少ない。だが領民一人ひとりの顔と名前を、ヨハンは全員覚えている。その姿勢がリーゼロッテには新鮮だった。
家政顧問という肩書きをもらった。給金も出る。月末にきちんと計算された額が、リーゼロッテの手に渡される。五年間、無償でやってきたことの全てに、対価がつく。花を活けることにも、来客の段取りを組むことにも、使用人の体調を管理することにも。初めて受け取ったとき、リーゼロッテは少しだけ手が震えた。自分の仕事に値段がつく。それがこんなにも嬉しいことだとは知らなかった。
領地の中心にある小さな食堂の運営も任されている。もともと領民が集まる酒場だったものを、ヨハンが「食堂にしたいが、どうすればいいか分からない」と相談してきた。リーゼロッテは一週間で内装を整え、メニューを考え、厨房の動線を改善した。皿の収納場所を変え、調理台の配置をずらし、食材の保管場所を温度帯ごとに分けた。ドレクセル家の厨房で毎日やっていたことの応用だ。献立を考え、材料を手配し、季節に合わせて料理を変える。ヨハンは改善された厨房を見て「料理の提供速度が倍になりました」と数えていた。数えてくれる人がいる、というのも新しい経験だった。
今日は子どもたちが食堂に来る日だ。領地の小さな学校が終わった後、子どもたちが食堂に寄って軽食を食べていく。リーゼロッテはその日のために、茶菓子を三種類用意した。
柑橘の焼き菓子。ローズマリーの塩ビスケット。それから蜂蜜のマドレーヌ。子どもたちの好みは大人ほど複雑ではないが、甘いものが苦手な子もいれば、塩味が好きな子もいる。三種類あれば、どの子も一つは好きなものを選べる。
銀の盆ではなく、木の皿に紙敷きを整えて並べた。焼き色を確かめ、並び順を決める。甘いものを奥に、塩味を手前に。子どもの手が最初に届くところに、一番人気のないものを置く。そうすると、全ての菓子がまんべんなく減る。
ヨハンが食堂に入ってきた。テーブルの上の三種盛りを見て、足を止めた。
「今日も三種類ですか」
リーゼロッテは顔を上げた。ヨハンの目が笑っている。皮肉ではない。この一ヶ月で分かったことだが、この人は面白いと思ったことを素直に面白がる。
「三種類でなければ意味がございませんもの」
言ってから、自分の言葉に驚いた。ドレクセル家では、三種類を用意するたびに「無駄だ」と言われた。一種で十分だと。その声が、もう聞こえない。ここには「無駄」と言う人がいない。代わりに「今日も三種類ですか」と、興味深そうに聞く人がいる。
ヨハンが向かいの椅子を引いて座った。
「この一ヶ月で、領民たちの顔色がずいぶん良くなりました。食堂のおかげです。いや、あなたのおかげです」
「食堂の仕組みを整えただけです。誰でもできます」
「誰でもはできませんよ。厨房の動線を変えたら料理の提供が倍速になったでしょう。あれはあなたが前の屋敷で毎日やっていたことの応用だと聞きました。それは技術です」
ヨハンはいつも、リーゼロッテの仕事を「技術」と呼ぶ。花を活けることも、段取りを組むことも、人の好みを覚えることも。ドレクセル家では「無駄」と呼ばれていたものの全てに、この人は別の名前をつけてくれた。
「あなたのしていることは無駄じゃない。三日で屋敷が壊れたのが証拠です」
穏やかな声が返ってくる。事実の確認として言っている。リーゼロッテが三日間「効率的」に振る舞っただけで、あの屋敷は崩壊した。花が枯れ、使用人が辞め、社交が途絶え、来客が離れた。リーゼロッテがいなければ回らない屋敷。そのことを、屋敷の主人だけが知らなかった。
リーゼロッテはヨハンの顔を見た。この人の隣にいると、自分のしていることの輪郭がはっきり見える。「技術」。「管理」。「配慮」。クラウスが否定した全てに、ヨハンは別の名前をつけた。言葉が変わるだけで、同じ行動の意味が変わる。
扉が開いて、子どもたちが入ってきた。五人。靴の泥を落としてから入るように、先週リーゼロッテが入り口に足ふきマットを置いた。最初は誰も使わなかったが、一番年上の男の子が使い始めてから、全員が真似するようになった。使用人の教育と同じだ。一人が変われば空気が変わる。一番小さな女の子が、テーブルの上の三種盛りを見て目を輝かせた。「わあ、三つもある」と言って、塩ビスケットに手を伸ばす。甘いものが苦手な子だ。リーゼロッテは覚えている。
「リーゼさん、この子がこのビスケットが好きだって、ちゃんと覚えてたんですか」
小声の問いかけだ。
「ええ。先週も同じものを選んでいましたから」
ヨハンが小さく笑った。その笑い方が好きだと、リーゼロッテは思う。大げさでも派手でもなく、静かで、相手の能力を認めている笑い方。ドレクセル家で一度も向けられなかったものが、この人の笑顔の中にある。
子どもたちが帰った後、テーブルを拭きながら、ヨハンが言った。
「リーゼさんがここに来てくれて、本当に良かった」
何気ない一言だった。けれどその声に、仕事の評価とは違う温度がある。リーゼロッテは手を止めた。ヨハンの横顔を見る。この人は、リーゼロッテの能力を必要としている。それだけではなく、リーゼロッテがここにいることを喜んでいる。その二つは似ているようで、全く違うものだった。
「わたくしも、ここに来て良かったです」
自分の声が、思ったより柔らかいことに気づいた。
夕方、食堂を閉めた後、リーゼロッテは事務所の机でマルタからの手紙を読んだ。
「お嬢様、お元気ですか。わたくしもドレクセル家を辞めまして、グライフェンベルク伯爵家で働いております。お嬢様のおかげで、わたくしも新しい場所で仕事ができています」
マルタの几帳面な文字が紙の上に並んでいる。あの硬い敬語の奥にある温かさが、文字の形に出ている。リーゼロッテは手紙を丁寧に折りたたんで、机の引き出しにしまった。鍵束の代わりに、手紙が一通。引き出しの中身が変わった。重さの代わりに、温かさが入っている。
窓の外が暮れていく。一ヶ月前、リーゼロッテがこの領地に来た日に植えた花が、窓辺の小さな花壇で咲き始めている。ラベンダーではない。この土地の気候に合った、小さな白い花だ。ドレクセル家で活けていた花とは違う種類。だが花を植え、水をやり、手をかけることに変わりはない。違うのは、この花を「無駄」と呼ぶ人がいないことだ。新しい場所で、新しい花が咲く。
ヨハンが事務所の扉をノックした。
「リーゼさん、明日の段取りの相談がしたいのですが」
リーゼロッテは椅子から立ち上がった。この人の隣で仕事をすることを、自分の意思で選んでいる。仕事として。対価をもらって。「技術」として。そして多分、それだけではない理由で。
「はい、今すぐ参ります」
扉を開けて廊下に出ると、夕焼けの光が目に入った。ヨハンが待っている顔は、穏やかで、温かくて、リーゼロッテの名前を正しく呼んでくれる人の顔だった。
窓の外には、リーゼが植えた花が咲いている




