第6話 え、もしかして初夜ですか
その夜、私はベッドの端に腰掛けて、扉を眺めていた。
イルマが浴室にお湯を運ぶ準備をしている。どうやらフランシスが夫の義務を果たすために私の元を訪れるようで、そのための支度だった。
もしかして、これから初夜?
でもきっと、ミセス・ロブソンとシャーロットが邪魔するんだろうなぁ。
このまま本当にフランシスが来たら、どうなっちゃうんだろう。そりゃあ貴族の義務は子孫を残すことだけど、私を殺す相手と夫婦生活というのは……。
フランシスの顔を思い浮かべる。
初めて見た時は、目を奪われるほどの美貌に、同じ人間なのかと思うほど驚いた。
でも話してみると当然のことながら普通の人間で、物語の登場人物だと身構えていた私は、少し拍子抜けしたのだ。
原作のことなんて知らなかったら、あんな美形と結婚できて舞い上がっていたんだろうなぁ。
もしフランシスがシャーロットを愛していなかったら――そうしたら、私はどうしたんだろう。
じっと扉を見つめているうちに、心のどこかで、その扉が開くのを待ち遠しく思っている自分に気がついた。まだ、来る時間でもないのに。
ノックの音に、心臓が跳ねる。
けれども、開いた扉から顔をのぞかせたのは、いつものように表情を窺わせないミセス・ロブソンだった。
「奥様、薬湯をお持ちしました」
「薬湯?」
「はい。旦那様が、こちらを飲むように、と」
差し出されたカップを凝視する。
舞踏会で夫婦仲が良好であることを見せる必要があるから、今すぐ毒殺されることはないだろう。しかし、遅効性の毒という可能性はある。
「ありがとう、いただくわ」
カップを受け取り、口をつけるフリをした。
「そういえば、お風呂の支度はまだかしら。ちょっと見てきてちょうだい」
「……かしこまりました」
ミセス・ロブソンが後ろを向いた瞬間、私はベッドわきに用意されていたガウンを手に取り、そこに口の中の薬湯を吐き出した。
戻ってきたミセス・ロブソンが告げる。
「お風呂の支度ができたようです」
「では、今から入るわ」
浴室へ向かい、つまずいたフリをして、浴槽にガウンを落とした。
「あっ、どうしましょう。ガウンが濡れてしまったわ」
「すぐに新しいものをご用意いたしましょう。イルマ、リネン室から新しいガウンを持ってきて」
「はい」
「奥様は先に湯船にお入りください。すぐに替えをお持ちします」
仕事は有能なのよね、この人。だからフランシスにも頼りにされているわけだけど。
ゆっくりと湯船につかる。ミセス・ロブソンが湯船のお湯をかき混ぜ、泡立てていく。ほんのりと、薔薇の香りが広がった。
「お湯加減はいかがですか?」
「ちょうどいいわ」
そっと様子をうかがう。……こちらを観察している。やっぱりあの薬湯には、何か入っていたんだわ。昨夜と同じ睡眠薬かな。ちょっとカマをかけてみよう。
「なんだか、少し……眠くなってきたわ」
「旦那様がお越しになるのですから、しっかりなさってくださいませ」
「ええ。でも、とても眠くて……」
そこにイルマが、新しいガウンを持って戻ってきた。
「イルマ、すぐに奥様にガウンをお渡しして」
「は、はい」
「返事は『はい』だけになさい」
「はい!」
軽く体を流し、ガウンを羽織ってベッドへ向かうと、イルマがオイルマッサージをしてくれた。温かい手のひらが、背中をゆっくりとほぐしていく。
これは極楽かも……! フリじゃなくて、本当に寝てしまいそう。
ミセス・ロブソンの視線を感じながら、私は眠ったフリをした。
――そして、いつの間にか、本当に眠ってしまっていた。
扉の開く音で、目が覚めた。
いけない。誰かが部屋に入ってきた。……フランシス?
「エマ……? 眠っているのか」
フランシスはしばらく私の寝顔を見ていたようだったが、起きそうにないのを確かめると、「おやすみ、良い夢を」と囁いて、そっと頬にキスをして、部屋から出て行った。
扉が閉まってから、私はそっと目を開けた。
頬に、まだ温もりが残っている気がした。あんなイケメンにキスされるなんて。前世から異性とお付き合いしたことのない私にとって、フランシスからのキスは刺激が強すぎた。
「……き、気を取り直して。秘密の通路の鍵を試してみよう」
むくりと起き上がり、枕の下に隠していた鍵を取り出す。赤い背表紙の本が置いてある本棚へと向かった。
『ジェーンの選択』という作品は、娘の家庭教師と伯爵家の当主が恋に落ちる物語だ。
まるで、エマ・テイラーがヒロインのあの小説みたいな話よね。
それほどまでに妹を愛していたということかしら。
「いえ。今はそんなことを考えるより、身の安全の確保よ」
赤い背表紙の本とその周りの本を数冊抜き取って、壁の奥に隠されていた鍵穴に、鍵を差し込んだ。
カチャリと音がして、重い本棚が少しずつ動く。
きしむような音の後、人が一人通れるほどの暗い通路が、目の前に現れた。
「やったわ! ……でも、中は真っ暗ね。先がまったく見えない」
蝋燭立てを一つ持って、足を踏み入れる。長い間、誰も立ち入っていないのだろう。通路の中は湿っていて、埃の匂いがした。
原作通りなら、この通路をまっすぐ進むと屋敷の裏庭に出るはず。
足音を殺して進んでいくと、突き当たりに出た。右の通路は階段になって階下へ向かい、左の通路はそのまま、まっすぐ続いている。
「一本道じゃないのかしら」
しばらく考えてから、左の道を進むことにした。この先、二階にある部屋といえば当主夫妻の部屋だけど……まさかね……。
かつて王族が滞在した部屋から続く隠し通路。それが緊急の脱出用だけでなく、当主夫妻の部屋にも繋がっているとすれば、それはもしかして……。
そういえば原作を読んだ時、ミセス・ロブソンがどうしてそこまでリンド伯爵家に忠実なのか疑問だった。
もし、かつての伯爵夫人が国王の愛人で、リンド伯爵家に王家の血が流れていたとしたら――あれほどの忠誠心にも納得がいく。
リンド伯爵家の主寝室は、当主の部屋と夫人の部屋の間に位置する。私は慎重に進み、突き当たりで足を止めた。蝋燭に照らされたそこには、予想通り、扉があった。
この奥が、主寝室なのか。もしかしたら、フランシスとシャーロットがいるかもしれない。
確かめるのが、少し怖い。でも、自分の命がかかっているのだ。
扉に耳を当てて、中の様子をうかがった。部屋の中からは、何の物音も聞こえない。
「そう上手くはいかないか」
諦めて戻ろうと思った時、扉の向こうから声が聞こえてきた。
「あんな女、早く追い出してよ!」
シャーロットの声だ。少し遠い。主寝室ではなく、隣の自分の部屋にいるらしく、叫んでいる時だけ声が届いてくる。
「だって……わた……」
誰かと話しているようだが、相手の声は小さく、男か女かも分からない。
もし男だとしたら、未婚の女性の部屋に入れるのは家族だけ。つまり、フランシスしかいない。会話の相手はフランシスなんだろうか。もっと大きな声を出してくれれば聞き取れるんだけど。
その願いが通じたかのように、シャーロットが声を張り上げた。
「だから言ってるでしょう!」
一瞬の間があって、叫びが続く。
「愛しているの!」
やっぱり……。フランシスとシャーロットは、愛し合っているんだ。
胸の奥が、ずんと重くなった。私は、そのことにショックを受けている自分自身に驚いていた。




