第4話 原作にはいない彼
「奥様、お食事はこちらにご用意してよろしいですか?」
「ええ、お願い」
本の件には気づかれなかっただろうか。
まあ、イルマは味方になってくれる子だから、もし気づかれても、どうにかなるだろう。
テーブルに並べられた食事を見て、思わず頬がゆるんだ。
焼きたてのパンのこんがりした匂い、ふんわり黄色いスクランブルエッグ、カリカリのベーコン。デザートのオレンジも瑞々しくて、どれも美味しそうだ。
さあ食べよう、とフォークを手に取ったとき、苛立ったような短いノックの音が響いた。
返事も待たずに入ってきたのは、ミセス・ロブソンだった。テーブルの上の食事をじっと見て、怒りを押し殺したような低い声で言う。
「これは一体、どういうことですか。なぜ下働きの娘が、この部屋にいるのです」
鋭い視線を向けられて、イルマがビクッと震えた。
「今日から、イルマを私付きのメイドにするわ」
「まだ嫁いでいらしたばかりでご存知ないとは思いますが、当家には当家のやり方がございます。まずはゆっくりと学ばれてはいかがでしょうか」
「お黙りなさい、ミセス・ロブソン」
声は穏やかに、しかし明確に、私は言い切った。
「この家の女主人はあなたではなくて、私よ。口答えは許しません」
ミセス・ロブソンが、ぎゅっと唇を引き結んだ。反抗的な視線がまっすぐ私に向かう。
だが、にらみ合った末に目を伏せたのは、ミセス・ロブソンの方だった。
「……承知いたしました」
あのミセス・ロブソンに勝った。小説の中でも威圧感を放っていた人を言い負かすことができて、胸の奥で何かが弾けた。
「ここはイルマに任せて、あなたは下がってちょうだい」
「はい、奥様」
ミセス・ロブソンが退出した後、私は遅い朝食をゆっくりと味わった。空腹のせいもあるだろうけれど、パンは香ばしく、卵は優しい味がした。
「ねえイルマ、旦那様って、どんな方?」
私の質問に、イルマは顔を赤らめながら答えた。
「あの、素晴らしい方だと思います。私みたいな下働きにもお優しくて……それに、あんなに綺麗な人、見たことがないです」
うっとりとした声に、苦笑してしまう。
「そうね。妹のシャーロットさんもお綺麗だと聞いたのだけど、双子ということは、そっくりなのかしら?」
「まだお会いしてないんですか?」
「ええ、機会がなくて。婚約期間も短かったものだから」
「確かに、お嬢様はお体が弱くて、お屋敷から出られませんからね。昨日も熱を出されたとかで、旦那様がつきっきりで看病なさってましたよ」
「そう……」
やはり、原作通りだ。シャーロットの具合が悪いということで、結婚してからもフランシスはエマの寝室を訪れない。
もしかしてここは小説の世界ではなく、ただ似ているだけのファンタジー世界なのではと思いかけていたが、物語のとおりに話が進んでいるということは、やはりここは、エマが殺される未来へ続く小説の世界なのだろう。
「体調が良くなったら、シャーロットさんにご挨拶にうかがいたいわ。旦那様にそう伝えてもらえる?」
「承知しました、奥様」
ラスボスその二との対面が、いよいよ近づいている。気を引き締めなくちゃ。
その日の午後、フランシスが「屋敷のみんなを紹介したい」と部屋を訪ねてきた。私は身支度を整えて、フランシスと共に広間に集まった使用人たちと対面した。
「私の妻となったエマだ。この屋敷の女主人として、よく従ってほしい」
私は軽く頷いて、広間の中を見回した。やはり、これだけの大きさの屋敷にしては使用人の数が少ない。
――そうか、思い出した。この頃のリンド伯爵家の財政は、シャーロットの薬代がかさんで、かなり苦しかったはずだ。
それでオースティン家の持参金を当てにして、この結婚が決まった。
原作でシャーロットの生んだアリスを「私の娘」ということにしたのも、私の持参金をアリスに相続させるためだったんだ。
ただ殺されるだけでなく、持参金まで奪われる。気が滅入る話だけれど、逆に、何としてでも逃げ出してやろうという気力が湧いてきた。
使用人たちを見回した時、一人だけ、お仕着せの服を着ていない青年がいることに気がついた。
金髪碧眼で、どことなくフランシスに似た風貌の青年だ。街中で見れば目を惹く好青年だろう。
だが、恐ろしいほどの美貌を持つフランシスと並ぶと、どこかぼんやりとした印象に見えた。
「彼は私の従兄で、この屋敷の管理を任せているケインだ」
「ケインです、奥様。これから、どうぞよろしくお願いいたします」
紹介されたケインは、にっこりと微笑んでお辞儀をした。
隣に立つフランシスがあまり感情を表に出さないせいもあって、その気さくな笑みは人間味があり、それなりに魅力的ではあった。
ただ――この笑みには、覚えがある。自分が美形だと分かっていて浮かべる顔だ。
前世で勤めていたブラック企業にも、こんな笑みを浮かべる男がいた。
整った容姿を利用して女の子たちを手玉に取り、仕事を肩代わりさせるような男だ。同期の子も引っかかって、その男が役員の娘と結婚した時は大泣きしていたなぁ。
社内でも問題になったけれど、「女の子たちが自分から手伝うと言っただけ」ということでお咎めなし。
その男は絵麻にも色目を使ってきたが、目の笑っていない作り物の笑顔が苦手で、むしろ避けていた。
ケインは、あの同僚によく似た、うさんくさい笑みを浮かべている。
こんな人、原作にいたかな?
どちらにしても、あまり近寄らないようにしておこう。
「これで紹介していないのは妹だけだな。妹の体調も良いようだし、これから会いにいこう」
いよいよだ。
「緊張しているのかい? シャーロットは優しい子だから、大丈夫だよ」
フランシスはそう言って、優しく笑った。その笑顔に、つい見とれてしまう。
危ない危ない。魔性の美貌ってハンパない。殺されると分かっていても、思わずときめいてしまう。
これからシャーロットに会うんだから、もっとしっかりしなくちゃ。
「ええ。私も、仲良くできたらと思っています」
本当は、全然そんなこと思っていないけどね!
向かった先は、予想通り、この屋敷の女主人のための部屋だった。私の不満げな表情が出てしまったのか、弁解するようにフランシスが説明する。
「本来はここが君の部屋になるはずだったが、妹をこの部屋から動かすと、すぐに体調が悪くなってしまうので……。妹のための離れができるまでは、しばらくこの部屋を貸してあげてほしい」
なるほど。原作でシャーロットが暮らしていた離れは、今はまだ建てられていないのか。
「そのようなご事情であれば、構いませんわ、フランシス様」
私の言葉に、フランシスはほっとしたように頷いた。そして、金でツタの模様が描かれた白い扉を軽くノックした。
「私だよ、シャーロット。入ってもいいかい?」
「ええ、どうぞ」
鈴を転がすような声が聞こえた。
扉の向こうに、女性が座っていた。
まるで女神のように美しい。
それ以外の言葉が、見つからなかった。




