第3話 イルマと遭遇
廊下に出ると、辺りは静かさに包まれていた。
小説の中でヒロインは、甘いお菓子を食べたことがないというアリスのために、ミセス・ロブソンの目を盗んで厨房でよくお菓子を作っていた。
だから屋敷のどこに厨房があるのか、大体の想像がつく。リンド伯爵家の造りが、エマの記憶にある実家によく似ているのも助かった。
……でも「うち」って言っても、高橋絵麻の家じゃないよね。日本でこんなに広い家になんて住めない。
だとするとエマの実家のオースティン家ということになるけど、なぜ私に、その記憶があるんだろう。
私は、高橋絵麻なのか。それともエマ・オースティンなのか。
足を止めて考え込んだとき、後ろから声がかかった。
「奥様……?」
振り向くと、そこには赤毛にそばかすの少女が立っていた。まだあどけない顔つきで、お仕着せのメイド服が少し大きすぎる。純朴、という言葉がよく似合いそうな子だ。
赤毛にそばかす……もしかして、イルマ?
「あなた、名前は?」
少女はお仕着せの袖をいじりながら答えた。
「イルマです」
イルマ! やった、ヒロインたちの味方になってくれる子だ! ヒロインの味方になってくれるということは、きっと私の味方にもなってくれるよね。
「あの……何かご用事でしょうか?」
「ちょうど良かったわ。軽くつまめるものが欲しいの。あなたが部屋に持ってきてくれる?」
「私がですか!? でも、私はただの下働きで……」
貴族の屋敷で働く者たちの間には、厳しい序列がある。屋敷の女主人に仕えるメイドは使用人の中でもかなり高い地位で、厨房の下働きをしているイルマが女主人の部屋に食事を運ぶことは、本来許されていない。
「あなたを、今日から私のメイドにするわ」
「えっ?」
「ミセス・ロブソンよりも、年の近いあなたにお世話してもらいたいの。大丈夫、きっと旦那様も承知してくださるわ」
フランシスは、お披露目の舞踏会までは白い結婚であることを知られたくないはずだから、私に対して強く出られない。メイドの変更くらい、すぐに承知するでしょ。
「でも、ミセス・ロブソンがなんて言うか……」
「私はこの家の女主人なのよ。その私がいいと言っているんだから、ミセス・ロブソンに口出しはさせないわ」
イルマはしばらく悩んでいたが、「絶対に、ミセス・ロブソンから許可をもらってくださいね」と何度も念を押してから、厨房へ向かっていった。
ふう。これで食事の問題はクリアした。
行きと同じく誰にも会わずに部屋へ戻る道すがら、私は廊下の静けさがずっと気になっていた。
これほど長い廊下を往復する間に、誰ともすれ違わないのは少しおかしい。
エマの生家であるオースティン子爵家なら、この時間、掃除をしている使用人たちが廊下のあちこちにいたはずだ。
それに比べて、リンド伯爵家のこの人の気配のなさは、どうだろう。
自室の前で廊下を振り返ると、凝った造りの窓飾りが床に綺麗な影を落としていた。
だがよく見ると、窓の高いところまで掃除が行き届いていない。桟にうっすらと埃が積もっているのが、下からでも見えた。
もしかして……リンド伯爵家って、あまり裕福じゃないのかしら?
歴史のある古い屋敷だ。置いてある調度品も由緒正しいものに見える。けれど、どこか時代遅れのように感じるのも確かで――何かひっかかるんだけど、なんだろう。
原作でリンド伯爵家について何か大事な描写があったような気がするのに、いくら思い出そうとしても出てこない。
まあ、そのうち思い出すでしょ。
気を取り直して自室に入ると、改めて部屋を観察してみた。
そういえば、私がこの部屋を使っていること自体もおかしい。
普通、伯爵夫人の部屋は当主の部屋と、主寝室で繋がった続き間になっているものだ。
でもこの部屋にある扉は廊下側の一つだけで、どう見ても客間だ。最初から妻として扱うつもりがないにせよ、ここまでないがしろにするのは失礼じゃないかしら。
もうっ! 小説の中の私も、これに気がついていれば、殺される前に屋敷から逃げ出せたかもしれないのに。
少なくとも白い結婚だと訴えて、助けを求めることくらいはできたはずだ。
「実家に助けを求めてもダメかもしれないけど、他に誰か、助けてくれる人がいるはずよ」
でも今の私には、この部屋で目覚める前までのエマの記憶が、断片的にしか浮かんでこない。
つまり、助けを求められる相手がいるのかどうか、そもそも分からないのだ。
ちょっと待って。これって、私、詰んでる!?
ふらふらとした足取りで、椅子に腰かける。
「……呆然としてる暇はないわ。生き延びるためには、考えないと」
イルマが戻ってくるまでの間、部屋をよく観察することにした。
この客間には豪華な調度品が揃っていて、応接室と寝室と浴室が続き間で繋がっている。現代で言えば、ホテルのセミスイートクラスだろうか。
賓客をもてなすための部屋らしく、伯爵夫人として扱うつもりはないにせよ、ある程度の敬意は払われているらしい。
ふと、暖炉の上の絵に目が止まった。
「あれ? この絵って……」
湖のほとりで、一角獣と戯れる姉妹が描かれている。もしかして、原作に出てきた絵?
この絵の姉の方が失踪した姉にそっくりだと、ハロルドが懐かしむ描写があったような……。
ということは。
「ここ、原作でエマの弟のハロルドが滞在した時に泊まった部屋? だったら、ひょっとして……!」
期待に胸を震わせながら、備え付けの本棚に近づく。
もしこの部屋が小説の通りなら、上から三段目の、右から五冊目の本の奥に、赤い背表紙の本があって……そこに……。
恐る恐る手を伸ばすと、赤い背表紙の本が引き出せた。
タイトルを見ると、カラー・ベル著『ジェーンの選択』。
ここがあの小説の世界なら、この奥に……。
本を抜いた棚の奥を覗き込むと、そこに、鍵穴のようなものが見えた。
「……あった」
やっぱり。ここはハロルドが泊まった部屋で、私が読んだあの小説の世界なんだ。だったら、鍵さえ手に入れれば外に出られる。
嬉しさのあまり、本を抱きしめた。
この部屋には昔、狩りが好きな王様が滞在したことがあり、何かがあった時のために一方通行の脱出用通路が作られていた――と、小説に書いてあった。
部屋の秘密は代々当主にしか伝えられておらず、本来ならフランシスも知っているはずの通路なのだが、先代の伯爵が急死したため、フランシスには伝えられていなかった。
原作のヒロインは偶然この通路を見つけ、事件解決の糸口をつかんだのだ。
「鍵は……多分、フランシスが持ってるよね。どうにかして手に入れなくちゃ」
そこへ、扉をノックする音がした。あわてて本を棚に戻す。
イルマが、食事を持ってやってきたのだった。




