第2話 とりあえず状況を把握しなくては
フランシスとミセス・ロブソンが退出して、私はようやく肩の力を抜いた。
ここから逃げるのは確定として、問題は、どうやって逃げるか。そして逃げた後、どうやって生活していくかだ。
貴族として育ってきたエマが一人で生きていくのは難しい。前世の絵麻の知識があるといっても、この世界でどれくらい役に立つのか分からない。
まずは先立つものが必要。つまり、お金ね。
貴族の娘が結婚する時には持参金を持たされる。その金額によって婚家での扱いが変わる。
私の場合は、早く厄介払いしたかった後妻が、持参金だけは弾んでいたはず。
でも、離婚できたとしても持参金は実家に返されてしまうから、私のものにはならない。
うーん、と唸っていると、少しして、また扉が開いた。
ミセス・ロブソンだ。その手には、新しい薬湯のカップが載っている。
いやあぁぁ。待って、もう毒殺カウントダウン?
「さあ、こちらをどうぞ」
「えっ、いえ……いいわ。もうだいぶ体調が良くなったのよ。だから、いらないわ」
後ろから部屋に戻ってきていたフランシスが、「ロブソンの薬湯はよく効くよ」と後押しする。
「さようでございます。さあ、どうぞ」
「いらないってば!」
カップを差し出す手を、思わず払っていた。ガシャンという音と共に、ロブソンの白いエプロンに濃い染みが広がる。
「あ……ごめんなさい。そんなつもりじゃ……」
「奥様はまだ、昨日のお疲れが残っているのでしょう」
ロブソンは感情のない顔のまま割れたカップを片付けると、そのまま出ていった。
「その……休んでいるところに押しかけて、すまなかった。ゆっくりしてくれ」
そう言ってフランシスは少し口ごもった後、「また後で、エマ」と、少し照れたような顔で名前を呼んで、部屋を出ていった。
パタン、と扉が閉まる。
私はベッドに突っ伏した。ひとりになった途端、枕に顔を押しつけてバシバシと叩く。
「うわあ、何よあの破壊力。美形すぎるでしょ! 思わず惚れそうになったわ。危なかった。あんなに素敵な人が夫だなんて、もし迫られたらどうすれば……」
しばらくそうしてから、むくりと起き上がった。
騙されちゃダメだ。フランシスには、他に愛する人がいるんだから。いくら美形でも、甘い言葉をささやかれたとしても、それは罠だ。
彼が愛しているのは、実の妹のシャーロットなんだから。だからこそ、邪魔な妻をミセス・ロブソンに命じて殺すのだ。
よく考えたら、あんなに美形でも、度の過ぎたシスコンは嫌だ。さらにその上を行って禁断の関係とか、キモイオブキモイ。
いくら美形でもないわー。
うん、ない、ない。
それにしても、どうやってここから逃げ出せばいいんだろう。まずは状況を整理してみよう。
私は机の引き出しから紙とペンを取り出して、ベッドに戻った。
えーと。小説では結婚式の一年後にエマが亡くなっているから、タイムリミットは最長で一年。それまでに、何がなんでも絶対にここから逃げるのが目標だ。
紙の端にペンを走らせながら、原作の内容を思い出す。
小説の主人公は、フレミング修道院女子寄宿学校を卒業して、幼いリンド伯爵家の一人娘アリスの家庭教師になったエマ・テイラー。ヒロインは、私と同じ名前なのよね。前妻と同じ「エマ」という名前を聞いて、アリスの父フランシス・リンドは驚く。
そしてヒロインときたら、驚いて見開かれたフランシスの青い瞳に一目惚れしちゃうんだっけ。確かにイケメンだけどさぁ……。
どこか謎めいた美貌の伯爵に、少しずつ惹かれていくエマ。
一人娘のアリスも、だんだんエマに懐いていく。
メイド長のミセス・ロブソンはエマに冷たかったが、アリス付きのメイドのイルマは優しくしてくれた。
アリスのことを話し合ううちに、エマとフランシスは急速に近づいていく。
二人の関係は順調に進展していくかのように見えた。
だがある日、エマはミセス・ロブソンから、伯爵には愛する人がいると教えられる。
それは、エマが決して行ってはいけないと言われていた離れに住む、フランシスの妹のシャーロット。
ほぼ寝たきりになっている実の妹を、フランシスは一人の女性として愛しているというのだ。
主人公は信じないんだけど、残念ながらそれは真実で。
こっそり離れを覗きにいったヒロインは、シャーロットと抱き合っているフランシスの後ろ姿を見てしまう。
ショックを受けたエマは屋敷を飛び出し、森で迷っているところを謎の男に助けられる。
この謎の男というのが、私の弟のハロルドだ。
ハロルドは姉の死に疑問を持っていて、真相を解明しようとリンド伯爵家を探っていた。そこで家庭教師をしているエマと出会い、何か情報を得られないかと近づくのだ。
「まあ、それでハロルドもエマを好きになるんだけどもね。というか、ハロルドはメインヒーローだし。同じ名前なのに、どんだけモテるの……う、羨ましくなんてないんだからねっ」
ヒロインのエマはフランシスの無実を信じていて、それを証明するためにハロルドに協力することになる。
ハロルドがまず調べたのは、姉のエマが眠る墓地。そこで密かに金を積んで、墓を暴いた。
「よく教会が許したものだわ。……でも、お金次第でどうにかなる相手なら、その教会を私の味方にできそうだけど。とりあえず保留しておくわ」
棺の中には、まるで眠っているかのような姉の姿があった。
亡くなってから十年は経つのに、死体が腐りもせずに残っているのはおかしい。
そう思ったハロルドはエマに、当時のことを知っている者がいないか聞いてくれないかと頼んだ。
そこで見つかったのが、メイドのイルマだ。イルマは屋敷に勤め始めてすぐに伯爵夫人付きのメイドに抜擢されていて、当時のことをよく覚えていた。
つまり「私」のメイドだったわけだけど、今のところ、そんな子は周りにいないなぁ。
原作ではこのイルマがヒロインたちの味方になって、色々な情報を教えてくれる。イルマって、もうこの屋敷で働いているのかしら。
私は、紙に書いたイルマの名前を丸く囲んだ。
「とりあえず私の味方になってくれそうなのは、メイドのイルマ、お金で動きそうな教会の司祭、ハロルドに協力するフランシスの友人のギルバート・ラッセル……この三人くらいかな。ギルバートにはまだ会えないだろうから、まずはイルマを探してみよう」
それから、タイムリミットのことも考えておかないと。
結婚のお披露目の舞踏会が三ヶ月後にある。その後は体裁を保つ必要がなくなって、屋敷から出してもらえなくなるかもしれない。
だから実際のタイムリミットは、一年後じゃなく三ヶ月後の舞踏会までと考えた方がいい。
それまでにここから逃げ出して、ちゃんと生活できる目処を立てないと。
でも実家にも戻れないし、どうすればいいんだろう。
手元の紙をじっと見つめる。
ここから逃げ出すだけでも命がけなのに、逃げ出した後のことまで考えなくちゃいけないなんて。なんでこんなキャラに転生してしまったんだろう。
どうせ同じ「エマ」なら、ヒロインの方に転生したかった。
部屋の中を見回すと、豪華な家具に囲まれたその空間には、どこか寒々しさがあった。今の私には、リンド伯爵家の屋敷そのものが、自分を閉じ込める豪奢な檻のように思える。
貴族の女性が一人で生きていくのは、かなり大変だ。それでも帰る家のない私には、どうにかして一人で生きていく手段を見つけるしかない。
「そうだ。小説のヒロインみたいに、家庭教師になればいいんじゃない? 偽名を使えば、誰にもバレないはず」
私は紙にこれからやることのリストを書いて、鍵のかかる引き出しにしまった。
よし、っと。
安心したとたんに、お腹が盛大に鳴った。
そういえば、お腹が減った。昨日は結婚式でほとんど物が食べられず、今朝も朝食を取っていないので、お腹は限界まで減っていた。
でも、ミセス・ロブソンの持ってくる食事には毒が入れられているかもしれない。
だったら直接厨房に行って、食事を頼んでみればいいんじゃない?
私は一人で簡単なドレスを身につけると、そっと部屋を抜け出した。




