女帝とその娘
汽笛が一つ、高く澄んだ音色を奏でて青空に吸い込まれていく。
魔法国メギストスが威信をかけて建造した超巨大カジノ客船『クレセント号』は、その巨体を震わせることなく、滑るように王都港の桟橋を離れた。
動力源は船体深部に設置された巨大な魔石機関。
風を受ける帆もマストもこの船にはない。
排出されるのは煙ではなく、無害な魔力の残滓である光の粒子のみ。
船はあらかじめ計算され尽くした航路を通り、夜には王都の夜景と星空が最も美しく見える近海ポイントでの停泊が予定されている。
船の最上層に位置する操舵室――ブリッジでは張り詰めた緊張感と、それを上回る高揚感が満ちていた。
ガラス張りの窓からはどこまでも広がる水平線と、遠ざかる王都の街並みが一望できる。
「……以上のルートを通り、予定されているポイントAまで移動。その後に錨を下ろして夕方には停泊予定です。天候、海流ともに魔導計器の数値は正常。揺れも最小限に抑えられています」
海図と計器を確認し、淀みない口調で報告するのは一人の青年将校だ。
副船長を務める彼は日に焼けた精悍な顔立ちに、理知的な瞳を宿している。
制服の着こなしにも隙がなく、きびきびとした動作は見ていて気持ちが良い。
「了解した。引き続き船を頼む」
船長席に座る老齢の男が、白い髭を撫でながら深く頷いた。
長年海に生きてきた古強者だが、態度には若者への信頼が浮かんでいる。
「はい! 総員、計器の再チェックを怠るな! お客様に微塵の不快感も与えるなよ!」
「「「アイアイサー!!」」」
副船長の号令に、ブリッジクルーたちが力強く唱和する。
「クレセント号はもう、君無しでは回らないな」
船長が独り言のように呟く。
それは単なるお世辞ではなく偽らざる本心だ。
「いえ、私などまだまだ未熟者で……。船長のご指導があってこそです」
副船長は謙遜し、少しだけ頬を染める。
だが、周囲の船員たちはそれを許さない。
「またまたご謙遜を! 今回の安全航路も副船長が決めたんですよね!」
「そうですよ! 海の魔獣が少ない海域と景色が良いルートを両立させるなんて、副船長の海流読みの業があってこそです!」
「おだてるのは勘弁してくれ。君たちの協力あってのことだよ」
副船長は苦笑しながら手を振るが、その表情には充実感が溢れている。
船長はそんな彼らのやり取りを眩しそうに見つめた。
船員たちとの信頼関係も構築できているし、技術も申し分ない。
自分の引退後、この船を任せるのは彼しかいないだろう。
そう確信できるだけの頼もしさが、今の彼にはあった。
平和な航海。
豪華絢爛な船内。
そして有能なクルーたち。
この船旅が、ただの優雅な遊覧で終わることを誰もが疑っていなかった。
今のところは、だが。
◆◆◆◆
一方その頃。
カジノフロアのポーカーエリア。
スフィアとブルの意識は目の前に立つ一人の女性――メリアの母、マーガレットに向けられていた。
「階級第一位の冒険者……?」
スフィアが、信じられないものを見る目で呟く。
口にくわえたままのロングビスケットが、驚きでポロリと落ちそうになるのを慌てて手で押さえる。
冒険者階級。
それは冒険者の実力を示す絶対的な指標だ。
見習いの第六位から始まり、準五位、第五位、準四位と上がっていく。
準五位や第五位になれば一人前、第四位になればベテラン、第三位ともなれば一廉の準英雄として扱われる世界だ。
冒険者歴こそ短いが、数々の死線を潜り抜けてきたスフィアは「準二位」。
その相棒であるブルは「第三位」。
これだけでも相当な高ランクである。
だが「第一位」は次元が違う。
トップ・オブ・ザ・トップだ。
戦力、人格、ギルドへの貢献全てにおいて隔絶した者の領域である。
「お母さん、第一位冒険者だったんだ……」
メリアもまた、ぽかんと口を開けていた。
母が強い魔術師だとは知っていた。
だが、まさかそこまでの化け物だとは知らなかった。
「知らなかったか? まあ無理もないが」
マーガレットは笑って娘の頭を撫でる。
「ロゼとの結婚を機に商業連合に移り住んでからは冒険者活動をしていなかったからな。子育てと商会の手伝いで忙しかったし、ギルドの名声にも興味が無くてな。あれこれ煩わしくなって一線からは退いていたのだ」
「嫁さんがクソ強いって知ってて嫁にもらったのか……すげえ度胸だな」
スフィアが心底感心したように言う。
ロゼという男の評価が彼の中で少しだけ謎に上がった。
度胸のあるやつは好きらしい。
ふと、スフィアはある違和感に気づいた。
メリアの母親、マーガレットの容姿についてだ。
銀髪や整った顔立ちはメリアと共通している。
だが、その髪の隙間から覗く耳の形が人間とは明らかに異なっていた。
少しだけ長く、そして先端が尖っている。
「あれ? メリアの母ちゃんの耳、尖ってねえ?」
そう、獣人の耳とも違う神秘的な鋭角。
これはエルフの特徴だ。
「ああ、私はハーフエルフだからな」
マーガレットは髪をかき上げ、その耳を露わにする。
「エルフの血を引いている。だから見た目は若いが、実年齢はもう三百歳近い」
「三百!?」
スフィアが素っ頓狂な声を上げる。
人間や獣人の寿命からすれば、それは歴史上の人物レベルの年齢だ。
メリアの母親というより、ひいひいお婆ちゃんくらいの世代ではないか。
「それもうババアじゃ――」
瞬間。
スフィアの言葉が物理的に途切れた。
マーガレットの手が、目にも止まらぬ速さでスフィアの口元を鷲掴みにしていたのだ。
握力は万力のように強く、爪が微かに食い込んでいる。
「エルフ族では普通だ」
マーガレットは美しい笑顔のまま、氷点下の声音で囁く。
「次にその単語を口にしたら……どうなるか、わかるな? 猫の?」
「……ッ!!」
スフィアは顔を青ざめさせ、首が千切れんばかりに激しく頷いた。
本能が告げている。
この人はやる。
絶対にやる。
「よろしい」
マーガレットはパッと手を離し、スフィアを解放する。
スフィアは涙目で口元をさすりながらブルの背後に隠れるように身を縮めた。
この人超怖い。
流石メリアの母親である。
ブルが冷や汗を拭いながら、話題を変えるように口を開く。
「お母さんがハーフエルフで、お父さんが人間なら……メリアさんって、ひょっとしてクォーターエルフってこと?」
「そうですよ? あれ、言ってませんでしたっけ」
メリアがあっけらかんと答える。
言われてみれば彼女の耳も普通の人間よりは僅かに尖っているような気がしないでもない。
よく見ないと気付かないレベルだが。
「まー、クォーターエルフって言っても、魔力も武才もお母さんから受け継がれなかったんですけどね。人間の血が特に濃く出たようで」
メリアは自嘲気味に肩をすくめる。
魔術師である母の魔力と強靭な肉体。
そのどちらの才能も娘である自分には発現しなかった。
それがコンプレックスでないと言えば嘘になるだろう。
だが、マーガレットは笑い飛ばした。
「はっ! そんなもん、あって困るものではないが、無くて困るものでもあるまい」
「お母さん……」
マーガレットは愛おしげに娘を見る。
「お前が家を飛び出してから冒険者になっているとロゼに聞いた時は驚いたが、聞けば仲間ができたという話ではないか。せっかくだし、どんな奴らか見ておこうと思って依頼を出した」
マーガレットの視線が、スフィアとブルを射抜く。
値踏みするような、それでいてどこか楽しげな瞳。
先ほどのカジノでの二人の反応は彼女の審査基準を十分に満たしていたようだ。
「そんな理由であんな高額依頼を……」
ブルが天井を見上げる。
提示された報酬額は、小型の家が一軒買えるほどの金額のはずだ。
それを単なる顔合わせのために使うとは。
マーガレットは事もなげに言い放つ。
「賭博で稼いでいるゆえ、あの程度なら問題はない。まだ見ぬ娘の仲間へのサーヴィスといったところ……っと」
いつの間にかポーカーエリア内の空気が変わっていた。
先ほどまでマーガレットの独壇場だったポーカーテーブルの周囲にいた男たちが、何やらひそひそと話をしながら、こちらを――正確にはメリアを凝視し始めたのだ。
「マーガレット様のご息女……?」
「あの方が……」
「ではグランディア商会の……いや、今はマーガレット商会の後継に……?」
「彼女と縁を結べれば、あの巨大商会とのパイプができる……?」
「いや、それどころかマーガレット様とも深い縁を結べると……?」
彼らの目はカジノでジャックポットを当てた時以上にギラついている。
欲望の色が隠せていない。
「魔法国だとグランディア商会がマーガレット商会に名前変えて再出発してるの知れてるのか?」
スフィアがマーガレットに小声で尋ねる。
確か聞いた友人たちが驚いていたはずだ。
「私の故郷だからな」
彼女は冷めた目で男たちを一瞥する。
「私の動向を知っていれば容易に辿り着く情報だ。海を隔てているレナック王国ではまだ広まっておらんだろうが、魔法国の上流階級や商人たちの間では公然の秘密となりつつある」
そういえば、温泉街イドラでエルセインが驚いていた。
『その情報が流れたら市場がひっくり返るぞ!!』というエルセインの言葉に対し、メリアが『いえ、別にひっくり返ることはないと思いますが』と冷静に返したのは、こういう意味であったのだ。
と、一人の男が意を決したようにメリアに近づいてくる。
高そうなスーツを着たキザな優男だ。
「初めまして、メリア嬢。私はイース子爵家のロベルトと申します。是非二人でお話を……」
「いえ、メリア嬢! 是非私とお話を! 私はグランツ伯爵家のベリオットと申しまして、我が家は代々貿易を……」
「是非僕とお話を! 僕は……」
「いえ、是非俺と!」
「僕と!」
「私と!」
堰を切ったように、男たちがメリアに群がってくる。
まるで甘い砂糖菓子に群がる蟻のようだ。
スフィアがメリアから離れ、それを他人事のように見ながらビスケットを齧る。
「モテモテだなメリア」
「大半は金目当てのクズだがな。ついでにメリアの見目も良いとなれば、ああもなるだろう」
マーガレットが毒づく。
確かにメリアはクォーターとはいえエルフ族だけあって見目麗しい。
母親として娘がモテるのは悪い気はしないが、寄ってくるのが有象無象ばかりでは面白くない。
「僕、ああいうモテ方は嫌だな……」
ブルが顔をしかめる。
愛ではなく、利益しか見ていない視線。
純朴な彼には耐え難いものがある。
マーガレットが歩き出す。
「ちょうどいい。メリア抜きで色々と話をしたかったところだ。スフィア、ブルと言ったな? 向こうで少し話さんか?」
「でも、メリアさん大丈夫かな?」
ブルが心配そうに群衆を見る。
メリアは今や、十数人の男たちに完全に包囲されていた。
「なんだ、心配か? メリアがあの程度のボンクラどもに遅れなど取るまい」
マーガレットは鼻で笑う。
「だが心配だというのであれば、しばし様子を見るか。どうにもならなそうなら私が介入して適当に追い払うが、まあ無用な心配だろうよ」
少し離れた場所で三人が見守る中、メリアは男たち相手に美しく微笑んだ。
それはスフィアやブルのように、親しい者が見れば目が全く笑っていないことがはっきりとわかる笑顔だ。
ビジネススマイルである。
「まあ、私のような者に……光栄ですわ」
メリアの鈴を転がすように甘い声を出し、男たちは思わず頬を緩める。
「でも私は優柔不断で……どなたの手を取ればいいのかわかりませんの」
メリアは頬を染め、両手を胸の前に添えて身をよじる。
その仕草は可憐な深窓の令嬢そのものだ。
「私が手を取るのは運命の人だけと決めているのです。多くの殿方の手を取るような、ふしだらな真似はできませんわ」
「「……」」
スフィアとブルが顔を見合わせる。
さっきまでスフィアとブルの手を引いて普通に連れ歩いていた女が、どの口で言っているのか。
メリアは演説を続ける。
「私、理想の殿方は商売に精通した方が良いと思っております。実家が商家ですので、やはり家を大きくできるような才覚ある殿方が良いと……」
その言葉に男たちの目の色が変わる。
これだ、と。
自分の資産や商才をアピールするチャンスだと。
「わ、我が家には小さいですが商会があります! 業績も右肩上がりで!」
「私も! 鉱山開発に投資をしておりまして!」
「僕も!」
「まあ、それは素敵ですわ!」
メリアは目を輝かせて拍手をする。
だが、すぐに困ったように眉を下げた。
「でも、それでも選べませんわ……商会が無い方が可哀そうですし……そうだわ。こういうのはどうかしら」
メリアが人差し指を立てる。
悪魔の提案の始まりだ。
「我が父が言っていた言葉があります。『商売とは賭博のようなもの。当たることもあれば外れることもある』と。機を見る力がある者は商売で上手くいく、と」
メリアが周囲を見渡す。
「ここはカジノ船。皆様の機を見る力で、お話しするお相手を決めたく存じます。制限時間は一時間。より多くのコインを私の下に持ってきてくださった方とお話しする……というのはどうかしら」
メリアは流し目を送る。
「私が優柔不断なばかりに、皆様には苦労をおかけしてしまうと思いますが……」
「いえ! メリア嬢が悲しまれる必要はありません!」
「僕が! 僕がメリア嬢の下に山ほどのコインを献上いたします!」
「いや俺が!」
「私が!」
男たちは一斉に叫び、我先にと賭博場の各地に散らばっていく。
その背中は戦場に向かう兵士のように勇ましいが、その実は破滅に向かうレミングスの群れだ。
蜘蛛の子を散らすようにいなくなった男たちを見てスフィアがぽつりと言った。
「なあ、メリアの母ちゃん。商売と賭博って関係ねえよな?」
マーガレットがニヤリと笑う。
「まあ無いな。論点のすり替えというやつだ。例え話の語句を本物に置き換えてしまっている」
「男の人がいなくなっちゃった……」
ブルが呆然とする。
「それだけではないぞ。男たちは『より多くを稼ごう』と躍起になるだろう? 回数を重ねれば重ねるほど、そして一度の儲けを大きくしようと倍率を上げるほどコインが無くなる確率は上がる」
カジノとは、長くやればやるほど店側が勝つようにできている。
短時間で爆発的に稼ごうとすればリスクの高い賭けに出るしかない。
「さらに言えばライバルが多いゆえ、多少稼いだだけでは『あいつより少ないかもしれない』という不安が常に付きまとう。男たちは安全圏を設定できず、互いに見えない敵と食い合うように勝負を重ねてコインを失っていき、破滅するまで賭け続けるか脱落するしかなくなり、最終的にメリアの前に立つ者はいなくなるという寸法だ」
「こっわ」
スフィアの毛が逆立つ。
あの笑顔の下で、そんなえげつない計算をしていたとは。
「途中で抜け出して、そこそこのコインを献上する人もいるんじゃ?」
ブルが疑問を呈する。
堅実に稼いで戻ってくる賢い者もいるかもしれない。
「よく聞いていたか? メリアは一番多くコインを献上した者と『お話しする』だけだ。結婚するわけでも交際するわけでもない。ただの世間話だけでも約定を裏切ることにはならん」
「うわぁ……」
「からくりに気付いて去るやつは?」
「メリアは相手をしたくないんだぞ? 気付いて去ってくれるなら、それはそれで厄介払いができて万々歳だ。何か問題があるか?」
完璧な布陣だった。
男たちは勝っても会話だけ、負ければ財を失い、降りれば失うものは無いが得るものも無くなる。
メリアだけがノーリスクで、男たちの財布の中身をカジノに還元し、その結果としてカジノ側だけが儲かる。
賭博で負けた者たちはただ運が無かったと諦め、提案を出したメリアを恨むことなど思いつかないだろう。
「口だけで男たちを手のひらの上で踊らせてる……こっわ」
ブルが身震いする。
狩場で出会う魔獣や戦場で出会う強敵よりも、社交場で微笑むメリアの方が数倍恐ろしい気がした。
スフィアがビスケットをボリボリ噛み砕く。
「あいつ提案しただけで何も行動してねえな……」
自分は一歩も動かず、言葉巧みに他人を動かし自滅させる。
まさに商人の戦い方だ。
「実に素晴らしい手腕だ。流石は私とロゼの娘」
マーガレットは満足げに頷いた。
自分たちの血が濃く受け継がれていることを確認し、上機嫌だ。
「とはいえ、しばらくは男たちの戦果確認で動けんだろう。我々はあっちに移動するか」
「そだな。おーいメリア! 俺らあっちに行ってるなー!」
スフィアが手を振ると、玉座のようなソファに座ったメリアが優雅に手を振り返す。
スフィアとブルは恐ろしい「女帝」の卵をその場に残し、本物の「女帝」と共に移動するのであった――。
メリアさんこっわ。




